
宇佐津彦清智
物部氏を論じるとき、しばしば「本拠はどこか」という問いが最初に置かれる。河内国渋川郡付近を本拠地とする説明は、事典類でも広く見られる。たしかにこの理解には一定の根拠がある。しかし、そのことから直ちに、河内を中心とし、大和や九州をその従属的な支点として上下的に配列する図式を導くことはできない。現時点で確認できるのは、河内・大和・九州の三地域において、物部氏に関わる痕跡がそれぞれ異なる機能を帯びて現れているという事実である。本稿では、物部氏を単一中心から拡散した氏族としてではなく、複数の土地で異なる役割を担った多極的活動体として捉えたい。
まず河内である。河内国渋川郡付近を物部氏の本拠地とする理解は、山川日本史小辞典系の解説でも採られている。ここで注目すべきは、「本拠」という語が主として系譜的・伝承的整理として用いられていることである。すなわち河内は、物部氏の出自や本貫地を説明する上で重要な土地として後世に記憶されたのであって、それだけで物部氏の全活動を統括する唯一の中心とまでは言えない。むしろ河内は、物部氏にとって本貫的基盤、あるいは氏族的記憶の核となる土地だったと理解するのが穏当である。
これに対し大和では、物部氏の性格はより実働的に現れる。石上神宮は古くから物部氏が祭ってきたとされ、布留遺跡は物部氏の拠点集落として紹介されている。天理参考館の案内は、布留遺跡から祭祀や軍事との関わりを示す資料が出土していることを明示しており、また石上神宮と布留遺跡を一体の文脈で捉えている。さらに関連解説では、布留遺跡の南に位置する杣之内古墳群が物部氏の首長墓と結びつけられている。ここで見えるのは、祭祀・軍事・首長権力が集中する中核拠点としての大和である。河内が本貫的記憶の地だとすれば、大和は王権近接の祭祀・軍事拠点として機能した可能性が高い。
しかし、ここでもなお注意が必要である。大和に祭祀・軍事の中心的性格が見えるからといって、そこを河内に対して上位の中心と断定することはできない。河内と大和は、役割が異なるのであって、上下関係が明示されているわけではない。河内は系譜的基盤、大和は祭祀・軍事の中核というように、機能の差は語れても、主従の序列は語りにくい。実際、現在参照できる説明は、河内を「本拠地」としつつも、大和については「拠点」「祭祀」「武器庫」といった別種の中心性を認めており、両者を一列に上下づける材料にはなっていない。
そして本稿で特に重視したいのが九州である。京築地域、とくに行橋・京都平野東部では、後代の物部系痕跡がかなり具体的に見えてくる。行橋市の椿市廃寺跡解説によれば、延永ヤヨミ園遺跡出土の七世紀末から八世紀頃の土器に「京郡物太」と墨書されたものがあり、「京郡」は京都郡、「物太」は物部氏の大領を意味すると考えられるという。この解釈に立てば、京都郡の郡司層、さらには椿市廃寺創建者の候補として物部氏を想定しうる。少なくとも九州京築において、物部系勢力が港湾・郡域支配・寺院創建と結びついていた可能性は高い。
九州側の重要性は、単に後代の郡司層にとどまらない。行橋市のビワノクマ古墳解説では、古墳時代の行橋中心部に海が入り込み、古墳が海岸近くの丘に築かれていたこと、そして丘の麓に広がる延永ヤヨミ園遺跡から船の一部、西日本各地の特徴をもつ土器、役所のような建物が確認されていることが示されている。また同遺跡周辺では、近畿地方を中心に分布する水祭祀施設に類する導水施設も確認されている。つまり京築は、単なる地方の末端ではなく、瀬戸内海航路の西端に位置する港湾・祭祀・首長権力の複合拠点として立ち現れるのである。後代の「京郡物太」は、そうした長期的な結節点支配の後続形態として読むことができる。
ここで重要なのは、九州を河内や大和の「支所」とみなす直接的根拠がないことである。たしかに九州京築に見える物部系痕跡は、河内や大和に比べれば時期が下る。しかし、時期が下ることと、地位が低いこととは同じではない。九州で見えているのは、港湾管理、郡司層、寺院創建、地域再編に関わる拠点性であり、それは河内や大和とは別種の機能である。つまり三地域は、ひとつの中心から支所へと伸びた線で結ばれるより、異なる機能を担う拠点群として並立していたとみる方が自然である。
この理解は、古代氏族一般を考えるうえでも有効である。後世の家制度や近代組織図の感覚からは、つい「本家」「本拠」「中心」を決めたくなる。しかし、複数の土地に根を張る有力氏族が、土地ごとに役割を分担していた可能性は高い。物部氏の場合、河内では本貫的記憶、大和では祭祀・軍事、九州では港湾・地域再編というように、各地域で異なる顔を見せている。ここから導かれるべきなのは、序列ではなく機能分化である。むしろ「どこが本拠か」を急いで決めるより、「各地で何を担っていたのか」を問う方が、実態に近づく。
以上のことから、物部氏に単一の「本拠」があったと断定することは難しい。河内を本貫的基盤として重視することはできるが、それだけで全体を統御する唯一中心とまでは言えない。大和には祭祀・軍事の中核性があり、九州京築には港湾・郡域支配・地域再編の拠点性がある。これら三者のあいだに明確な上下関係を示す史料は乏しく、むしろ三極的に並行して活動した勢力として理解する方が、現存資料に即している。物部氏とは、単一の本拠から展開した氏族というより、河内・大和・九州という異なる土地で、それぞれ別の役割を担いながら動いた多極的集団だったのではないか。
注
- 本稿でいう「本拠」とは、氏族全体を一元的に統御する唯一の中心地を意味する。この意味での本拠を、河内・大和・九州の三地域について直接に証明する史料は、現時点では確認しがたい。
- 河内渋川を「本拠地」とする説明は重要であるが、それは主として氏族系譜や後代的整理に基づく理解であり、他地域との明確な上下関係を必ずしも意味しない。
- 九州京築における「京郡物太」墨書土器は、七世紀末から八世紀頃の物部系大領層を示唆する有力資料である。ただし、これをもって古墳時代前期の築造主体まで直接に物部氏へ遡及させることは慎重であるべきである。
参考文献
- Historist「物部氏(山川 日本史小辞典 改訂新版)」河内国渋川郡付近を本拠地とする説明。
- 天理参考館「物部氏の拠点集落、布留遺跡を考える」石上神宮・布留遺跡と物部氏の祭祀・軍事的性格。
- 歴史街道推進協議会「古代豪族・物部氏の本拠地をめぐる~総氏神・石上神宮と布留遺跡~」布留遺跡と杣之内古墳群の位置づけ。
- 行橋市「椿市廃寺跡(つばきいち はいじ あと)」延永ヤヨミ園遺跡出土「京郡物太」墨書土器と物部氏大領解釈。


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