
宇佐津彦清智
港・祭祀・首長権力の交点として
ビワノクマ古墳を考える際、まず注目すべきは、その立地である。行橋市の公式解説によれば、古墳時代の行橋市中心部には海が入り込み、湾のような地形が広がっていた。ビワノクマ古墳は、その海岸近くの丘の頂に築かれており、遠方からも視認できる位置にあったという。さらに丘の麓には、弥生時代末期から古代にかけての延永ヤヨミ園遺跡が広がり、船の一部、西日本各地の特徴をもつ土器、役所のような建物が確認されている。すなわちこの古墳は、孤立した墓ではなく、港湾的結節点を見下ろす首長墓として理解されるべきである。
この点で重要なのは、ビワノクマ古墳の周辺に、単なる物流拠点を超える祭祀的性格が認められることである。行橋市は、延永ヤヨミ園遺跡で確認された導水施設について、近畿地方を中心に分布する水に関わる祭祀施設と説明し、しかも九州では初確認であったとしている。また、小札革綴甲とあわせて、近畿地方の文化が瀬戸内海を通じて九州に上陸する地点としての地域的特質を象徴すると述べている。ここから見えてくるのは、行橋・京都平野東部が単なる港ではなく、祭祀技術や首長文化を受け入れる東方玄関口だったという事実である。ビワノクマ古墳の被葬者は、そのような交通と祭祀の両方を掌握する存在であった可能性が高い。[^1]
さらに注目すべきは、ビワノクマ古墳が、それ以前から墓地として使われていた丘の上に築かれている点である。行橋市の解説では、古墳の盛土の下から複数の墓が見つかっており、この丘は古墳築造以前から墓地として利用されていたとされる。したがって、ビワノクマ古墳の築造は、空白地への新設ではなく、既存の葬送空間の上に新たな首長墓制を打ち立てる行為だったとみるべきである。これは単なる墓制の変化にとどまらず、旧来の地域秩序を吸収しつつ、新たな首長権力の下に再編する政治的・祭祀的操作として理解できる。ビワノクマ古墳は、いわば北東部九州における「秩序再編の記念碑」であった。[^2]
この構図は、後代の物部系痕跡と重ねると、さらに意味を帯びる。行橋市の椿市廃寺跡解説では、南東約三キロの延永ヤヨミ園遺跡から出土した七世紀末から八世紀頃の土器に「京郡物太」と墨書されており、「京郡」は京都郡、「物太」は物部氏の大領を意味すると考えられるという。これにより、京都郡を代表する豪族として物部氏を想定する余地が生まれている。もちろん、この墨書土器だけでビワノクマ古墳の築造主体を物部氏そのものと断定することはできない。しかし、古墳時代前期には港・祭祀・首長墓が重なる支配拠点があり、後代には同じ地域に物部系大領層の痕跡が見える以上、この地域における新式秩序の担い手を、後の物部的支配層へ連なる流れの中で捉えることは十分可能である。[^3]
このようにみると、ビワノクマ古墳は単なる大型古墳ではない。港湾的結節点を見下ろす立地、近畿系祭祀文化の流入を示す導水施設、既存墓地の上に築かれた前方後円墳という築造過程、そして後代の物部系痕跡との地域的一致を総合すると、この古墳は北東部九州における新たな首長秩序の成立を示す中核的遺構とみることができる。景行天皇伝承をただちに史実とみる必要はないが、少なくとも同伝承が語る「上陸・滞在・再編」の舞台が、このような現実の支配拠点と重なることは重要である。ビワノクマ古墳は、北東部九州秩序の再編が、交通・祭祀・首長権力を一体として進んだことを示す、きわめて象徴的な遺構なのである。
注
[^1]: ここでいう「祭祀」は、後世の神社祭祀を意味するのではなく、導水施設に象徴される水儀礼や首長権威の可視化を含む、古墳時代前期の広い祭祀実践を指す。
[^2]: 先行墓群の存在は、ビワノクマ古墳が無から築かれたのではなく、既存の葬送秩序を取り込みつつ上書きした可能性を示す。ただし、これを直ちに軍事的征服の証拠とみなすのではなく、地域秩序の再編として読むのが適切である。
[^3]: 「京郡物太」墨書土器は重要だが、古墳時代前期の築造主体を直接示す一次資料ではない。本文では、地域支配層の後続形態を示す傍証として位置づけた。
参考文献
行橋市「ビワノクマ古墳」。古墳の立地、延永ヤヨミ園遺跡との関係、導水施設、小札革綴甲についての基礎解説。
行橋市「椿市廃寺跡」。墨書土器「京郡物太」と物部氏大領解釈、京都郡豪族層との関係を示す。
福岡県教育委員会『延永ヤヨミ園遺跡』。延永ヤヨミ園遺跡の編年、遺構、港湾的結節点性を考えるための基礎資料。
全国文化財総覧「ビワノクマ古墳」。遺跡の基本情報確認用。


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