【研究ノート6】不弥国試論

宇佐津彦清智

延永ヤヨミ園遺跡・景行天皇伝承・北東部九州上陸点の再検討

本稿は、延永ヤヨミ園遺跡を中心とする行橋・京都平野東部を、不弥国の有力候補として再検討するものである。不弥国の比定については、なお糟屋郡周辺や筑豊側に求める見解が残っており、現段階で断定することはできない。しかし、三世紀前後の北東部九州を、瀬戸内海航路の東方受け口という視点から捉え直すならば、行橋・京都平野東部は、従来よりもはるかに重要な位置を占める。とりわけ延永ヤヨミ園遺跡の性格、ならびに景行天皇伝承が保存する地域記憶をあわせて考えると、この地域を不弥国、あるいは少なくともその中核的拠点とみる方が妥当ではないか、という問題提起は十分に成立する。 

まず、延永ヤヨミ園遺跡の考古学的性格を確認しておきたい。福岡県の調査報告では、同遺跡について、現時点で弥生時代後期前半以前にさかのぼる遺構・遺物は確認されておらず、主要な遺構・遺物は、弥生時代終末から古墳時代前期にかけて立ち上がるものとして整理されている。したがって、この遺跡を漫然と「弥生後期以来」と述べるより、むしろ「弥生終末期から古墳時代初頭に本格化する大規模拠点」と位置づける方が正確である。さらに報告書および関連資料は、竪穴住居群や掘立柱建物群など、継続的居住と地域中枢機能をうかがわせる内容を示しており、単なる散在的集落ではなく、広域ネットワークと接続した結節点とみるべき性格を備えている。 

この遺跡が重要なのは、その規模だけではない。行橋市歴史資料館の展示記録では、延永ヤヨミ園遺跡は「発掘された港町」として位置づけられている。展示名それ自体が、同遺跡を内陸農耕集落ではなく、港湾的機能を備えた交通拠点として理解する地域側の認識を示している。もちろん、展示タイトルのみをもって港湾遺跡と断定することはできないが、少なくともこの地域が古代交通の結節点として把握されてきたことは明らかである。県の報告書とあわせて読むならば、延永ヤヨミ園遺跡は、周防灘に開いた北東部九州の交通・物流・祭祀・行政的結節点として理解するのが自然であろう。 

このような遺跡の性格は、『魏志倭人伝』にみえる不弥国の記事とよく符合する。周知のように、倭人伝では、伊都国から奴国へ百里、さらに「東行百里、至不彌國」と記され、不弥国には「千餘家」があるとされる。重要なのは、不弥国が巨大中心国として記されているのではなく、奴国の次に位置し、その先に投馬国・邪馬壹国への長距離行程が接続する節点として現れる点である。すなわち、不弥国は、単なる農業中心地というよりも、行程上の中継拠点、交通と接続を掌握する国家として読む方が整合的である。戸数が千余家にとどまることも、その理解に適合する。 

この行程記事を、北部九州西岸のみを前提に理解すると、不弥国比定はどうしても博多湾以東の内陸寄りに固定されやすい。だが、瀬戸内海を西進した交通が周防灘を経て北東部九州へ入るルートを重視するなら、不弥国は「西岸中心世界の周縁」ではなく、「東方から到来する海上交通の受け口」として再定位されうる。畿内から西へ向かう航路の主軸を山陽道南岸寄りに置き、そこから周防灘へ入り、行橋・京都平野東部に上陸する動線を考えるならば、この地域はまさに不弥国にふさわしい位置を占める。延永ヤヨミ園遺跡の港湾的・中継的性格は、そのような理解を考古学的に支える材料となる。 

ここで景行天皇伝承を参照することには、一定の意味がある。『行橋市史』所収の「景行天皇の巡幸説話」は、『日本書紀』の記事を踏まえつつ、景行天皇が豊前国長峡県に行宮を置き、この地域が「京」と呼ばれるようになったという説話を紹介する。そのうえで市史は、この説話をそのまま史実とは見ず、むしろ「ミヤコ」という地名を説明するために後世つくられたものと考えるのが妥当だとしている。つまり、この伝承は史実の直接記録ではなく、王権神話化された地名起源説話として読むべきだという立場である。これはきわめて重要である。なぜなら、本稿もまた、景行天皇が実際に三世紀の行橋へ上陸したと主張するのではなく、後代の神話叙述の中に、北東部九州の古い交通・上陸拠点としての地域記憶が保存されている可能性を読むからである。 

この観点に立てば、景行天皇伝承は、延永ヤヨミ園遺跡の存在そのものを知っていたというより、この一帯が古くから九州上陸・滞在・進発の重要地点であったことを、後代的に匂わせていると理解できる。長峡県・京という記憶がこの地域に集中するのは、単なる偶然ではなく、周防灘に面した結節点としての地理的現実が背景にあったからではないか。もしそうなら、景行天皇伝承は、北東部九州の上陸点を神話の言葉で包み直したものとして読める。そして、その上陸点に対応する政治的単位として不弥国を想定することは、伝承と考古学と地理を接続するうえで、決して無理な操作ではない。 

換言すれば、不弥国を行橋・京都平野東部に求める根拠は三つに整理できる。第一に、延永ヤヨミ園遺跡が弥生終末期から古墳時代初頭にかけて本格化する大規模結節点であること。第二に、『魏志倭人伝』の不弥国記事が、中継的・港湾的国家像とよく合うこと。第三に、景行天皇伝承がこの地域を古い上陸・進発地点として記憶している可能性が高いことである。これらはそれぞれ単独では決定打ではないが、三者を重ねるとき、北東部九州の上陸点として不弥国を考える構図は、かなり強い説得力を持つ。 

もちろん、なお慎重であるべき点は残る。不弥国については他地域比定説もあり、延永ヤヨミ園遺跡の港湾機能についても、今後さらに具体的な流通遺物・海上交通施設・地域間比較の蓄積が必要である。また、景行天皇伝承を用いる場合も、神話を歴史事実へ短絡的に還元してはならない。しかし、比定論において必要なのは、絶対的断定よりも、どの仮説がより多くの要素を無理なく統合できるかという比較衡量である。その意味で、行橋・京都平野東部を不弥国とみる視点は、三世紀前後の交通構造を北東部九州から組み替えて理解するうえで、きわめて有効な作業仮説だと言える。 

以上より、延永ヤヨミ園遺跡を中心とする行橋・京都平野東部は、不弥国の有力候補として再検討されるべきである。景行天皇伝承もまた、この地域が北東部九州の上陸点として記憶されてきたことを、神話化された形で示唆している可能性がある。ゆえに、不弥国をこの地域に比定することは、単なる地名の当てはめではなく、瀬戸内海航路と北東部九州の接続という歴史的現実を掘り起こす試みとして位置づけられるべきである。現時点では仮説にとどまるとしても、その仮説は十分に検討に値する。 

  1. 本稿でいう「景行天皇伝承が延永ヤヨミ園遺跡の存在を匂わせる」とは、景行紀の記事を三世紀の直接史料とみなす意味ではない。後代の王権神話・地名起源説話のなかに、北東部九州の上陸・滞在拠点としての地域記憶が反映している可能性を指す。  
  2. 延永ヤヨミ園遺跡の編年については、「弥生時代後期」一般ではなく、「弥生時代終末〜古墳時代前期」と表現する方が、福岡県報告書の整理に即している。  
  3. 不弥国比定はなお未確定であり、本稿は行橋・京都平野東部への比定を唯一解として提示するものではなく、交通史・伝承・考古学の交点からみた有力仮説として提示する。  

参考文献

九州歴史資料館編『延永ヤヨミ園遺跡』福岡県文化財調査報告書。福岡県教育委員会公開PDF・全国文化財総覧掲載。遺構編年と遺跡概要の基礎資料。 

『行橋市史』「景行天皇の巡幸説話」。ADEAC公開テキスト。景行天皇の長峡県行宮伝承と、その地名説話的性格の整理。 

『魏志倭人伝』原文・書き下し文・現代語訳。不弥国記事「東行百里、至不彌國」「千餘家」の確認用。 

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