
宇佐津彦清智
宇佐放生会の起源は、一般には隼人征討後の殺生贖罪・鎮魂儀礼として理解されてきた。しかし、関連史料を年代順に検討すると、その実質的成立は、伝承が示す養老年間や天平十六年ではなく、天平八・九年(七三六―七三七)前後の疫病危機の中に求める方が整合的であるように思われる。すなわち、隼人征討は後代に整えられた起源神話として機能し、祭礼の現実的成立契機は、九州北部を中心に深刻化した疫瘡流行と、それに対する宗教的再編にあった可能性が高い。¹
まず注目すべきは、『続日本紀』天平九年四月乙巳朔条に、朝廷が伊勢神宮・大神社・筑紫住吉・八幡二社・香椎宮に使を遣わして奉幣したことが見える点である。これは同年における対新羅情勢への対応記事であるが、ここで八幡二社がすでに全国有力社と並ぶ対象として扱われている事実は重い。続いて同年四月十九日の詔については、大宰府管内で疫瘡が流行し百姓が多数死亡しているため、管内神社に奉幣し、貧疫の家に賑恤し、湯薬を給するよう命じたことが指摘されている。すなわち、天平九年の九州は、国家秩序を揺るがす規模の疫病危機の只中にあったのである。²
この危機に対し、宇佐では在地祭祀勢力が共同して対応したとみられる。後世の『八幡宇佐宮御託宣集』は、大神氏・宇佐氏・辛嶋氏の三家秩序を、大宮司・少宮司・禰宜の形で明文化している。もちろん、これは中世的再編を受けたテキストであり、そのまま奈良時代の制度を写すものではない。とはいえ、七三七年までに宇佐祭祀を共同で担いうる母体が存在していたとみること自体は不自然ではない。そうでなければ、聖武朝が短期間のうちに八幡神を国家祭祀へ取り込むことは困難であったはずである。³
ここで重要なのは、その疫病祓いが単なる在来呪術や神祈りにとどまらず、仏教的形式へ翻訳された可能性である。その接続役として想定されるのが法蓮である。宇佐神宮の伝承では、法蓮は弥勒寺の初代別当となったとされる。また宇佐神宮の略年表では、七二五年に現在地に一之御殿を造営し、同時に日足の地に弥勒禅院を建立、七三八年にこれを宮の西に遷して弥勒寺としたとされる。仮に法蓮が天平八・九年の危機の時点で宇佐祭祀に関与していたならば、三家による在地祭祀を仏式儀礼へ再編し、のちに放生会と呼ばれる祭礼の原型を整えた人物として位置づけることができよう。⁴
この再編が一時的なものではなく、すでに国家的承認を受けていたことは、『続日本紀』天平十三年閏三月甲戌条によって裏づけられる。そこでは朝廷が八幡神宮に秘錦冠、金字最勝王経・法華経各一部、度者十人、封戸、馬五疋を奉り、さらに三重塔一区を造らせたと記されている。これは七四一年の時点で、宇佐八幡が神仏習合を伴う国家的祭祀拠点としてすでに成立していたことを意味する。したがって、その前段階にあたる七三六―七三七年頃に、神威を仏教で包摂する儀礼秩序が宇佐で形成されていたとみるのは、十分に可能である。⁵
以上より、宇佐放生会の実質的開始初年度は、後代伝承のいう天平十六年ではなく、天平八・九年の疫病危機の中で形成された仏式儀礼の段階に求めるのが妥当であろう。隼人征討は、その由来を語るための政治的・宗教的物語として後に接続され、放生会そのものは、在地三家の祭祀と法蓮による仏教的編成が結びついて成立した。宇佐放生会とは、隼人乱の単純な追悼儀礼ではなく、天平の疫病危機の中で在地神威を国家仏教へ接続した最初期の実験として理解されるべきである。⁶
注
- 天平七~九年の疫病流行については、市大樹「天平の疫病大流行」参照。特に七三五年に九州で始まった流行が、七三七年に再燃・拡大した経過が整理されている。
- 『続日本紀』天平九年四月乙巳朔条および同年四月十九日詔については、國學院大學デジタルミュージアム「八幡大菩薩宇佐宮」および市大樹前掲論文参照。
- 三家秩序の後代的明文化については『八幡宇佐宮御託宣集』所収の系譜・職掌記事による。ただし、現存テキストは中世編纂であり、奈良時代の実態をそのまま示すものではない。今回この点の確認に用いた公開資料は限定的であるため、本文では推定の域を出ない。
- 法蓮と弥勒寺については、宇佐神宮「神仏習合」および「歴史略年表」参照。前者は法蓮を初代別当と伝え、後者は七二五年の弥勒禅院建立、七三八年の弥勒寺移建を掲げる。
- 『続日本紀』天平十三年閏三月甲戌条については、國學院大學デジタルミュージアム「八幡大菩薩宇佐宮」参照。八幡神宮への最勝王経・法華経奉納、度者十人、三重塔造営が確認できる。
- 宇佐市の刊行物では、放生会の始まりを天平十六年(七四四)に置く説明が見えるが、これは後代の制度化・定着の年として理解しうる。本文は、これより前に仏式儀礼の原型が形成されていた可能性を論じたものである。


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