
宇佐津彦清智
拙著『菟狭津彦が見た倭国の歴史』を書いた際、宇佐八幡の成立についていくつかの疑問が残った。特に「放生会」「大神氏」「疫神祭祀」の関係である。本書を書き直すつもりで、補足的な考察を書いてみたい。
宇佐八幡の成立を考えるとき、一般には渡来系氏族である秦氏の関与や、奈良時代以降の国家祭祀化が語られる。しかし、創建当初から宮司として大神氏が存在していた事実は、あまり注目されていない。ここでは「放生会」「疫神祭祀」「大神氏」という視点から、宇佐八幡成立の別の可能性を考えてみたい。
この点を重視すると、八幡信仰の根底には三輪系祭祀の思想が関与していた可能性が浮かび上がる。大神氏は、大和三輪山の祭祀氏族と同族と考えられている。その中心神である大物主神は、『日本書紀』において祟神天皇の時代に疫神として現れる。『日本書紀』では、当代に疫病が流行した際、その鎮静のために大物主神を祀ったと伝えられており、大神氏は本来、疫神を鎮める宗教的役割を担う氏族であったと考えられる。
宇佐八幡の初期信仰もまた、武神としての性格よりむしろ神託神・鎮疫神としての側面を持っていたとみられる。
宇佐神宮に伝わる神託伝承はその象徴であり、地域社会の不安や災厄に応答する神としての機能が強かった。この性格は三輪信仰の疫神祭祀と極めて近い。ここに大神氏が宇佐八幡創建期から関与していた事実を重ねると、宇佐八幡の初期祭祀には三輪系の疫神信仰が導入されていた可能性が見えてくる。
さらに、この疫神祭祀は祓戸神、特に瀬織津姫信仰と接続する。瀬織津姫は水によって穢れや災厄を流す祓神であり、疫神信仰と密接な関係を持つ神格である。宇佐氏の伝承にはこの瀬織津姫的な祓の思想が含まれている可能性があり、宇佐地域の海人文化とも結びつく水神信仰の中で受容されていたと考えられる。こうした背景のもと、宇佐の在地勢力である宇佐氏は、祓と水を中心とする信仰体系を担っていた可能性がある。
秦氏の奉じた八幡神もまた、災厄鎮静や怨霊鎮魂の性格を持つ神であった可能性がある。そう考えるなら、宇佐八幡の成立は、疫神祭祀という共通の宗教的課題のもとに、宇佐氏・秦氏・大神氏の三者が結びついた結果であったとも考えられる。
そして、この疫神信仰を統合する儀礼として重要なのが放生会である。放生会は本来仏教の殺生戒に由来する儀礼であるが、日本では怨霊鎮魂や疫病退散の意味を持つ祭祀として展開した。宇佐八幡宮の放生会は日本でも最古級のものとされ、疫病退散の祈願を目的とした鎮魂儀礼として行われた可能性が高い。すなわち、疫病退散の放生会こそが宇佐八幡信仰の出発点であったと見ることもできる。
この視点に立てば、崇神天皇の時代に疫病鎮静の伝承を持つ大神氏が、宇佐八幡創建の祭祀に関与した理由も理解しやすくなる。すでに宇佐地域には瀬織津姫信仰を背景とする祓の祭祀が存在し、そこに渡来系氏族である秦氏の宗教勢力が加わり、さらに疫神祭祀の専門氏族である大神氏が参加した。すなわち、宇佐八幡の初期運営には、宇佐氏・秦氏・大神氏という三つの勢力が、疫病退散という共通の国家的目的のもとで関わった可能性が考えられる。
この仮説は直接史料によって断定できるものではないが、大神氏の疫神祭祀、大物主神の祟神的性格、宇佐地域の瀬織津姫信仰、そして放生会の鎮魂儀礼という要素を重ねることで、宇佐八幡成立を「疫病退散の宗教連合」として理解する、新しい視点を提示するものである。
なお、この問題については拙著『菟狭津彦が見た倭国の歴史』でも触れている。
今回の文章はその補足的な考察である。


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