
宇佐津彦清智
宇佐における法蓮の役割は、単なる「弥勒寺初代別当」では捉えきれない。法蓮の本質は、宇佐の在地神威を仏教的秩序へ組み替え、政治的にも宗教的にも不安定な場を安定化することにあったと考えられる。[1]
法蓮が史料上はっきり現れるのは大宝三年(703)である。『続日本紀』系の整理によれば、法蓮は医術の功によって豊前国の野四十町を与えられており、これは彼が地方の無名僧ではなく、朝廷に認知された実務的宗教者であったことを示す。[2] また、養老五年(721)には法蓮の三等以上の親族に宇佐君姓が与えられたとされ、法蓮が宇佐在地の有力層と深く結びついていたことがうかがえる。[3] すなわち法蓮は、中央に届く力を持ちながら、同時に宇佐の内部に根を持つ宗教者であった。
この法蓮が前面に出る意味は、宇佐の神々の性格を考えると理解しやすい。宇佐神宮の公式説明では、比売大神は八幡神以前から祀られていた古い神とされる。[4] 一方、のちに前景化する八幡神は、初めから穏やかな守護神であったというより、神託・軍事・災厄処理に関わる強い神威として理解する方が自然である。[5] こうした神々をそのまま並立させれば、祭祀空間は不安定なままである。そこで必要となるのが、在来祭祀による鎮静と、仏教による教化という二段階の処理であった。法蓮はまず大神・宇佐・辛島の三家に荒ぶる神を鎮めさせ、そのうえで仏法によって神を秩序の中へ包み込もうとした、と考えられる。[6]
この構想が具体化した場が弥勒寺である。宇佐神宮の伝承では、神亀二年(725)に日足に弥勒禅院が建てられ、天平九年(737)には宮の西へ移されて弥勒寺となり、法蓮がその初代別当になったとされる。[7] 弥勒寺遺跡の報告でも、弥勒寺は宇佐神宮の神宮寺として理解されている。[8] さらに741年には、『続日本紀』に基づく整理として、八幡神宮に金字最勝王経・法華経・度者十人・三重塔が与えられている。[9] これは、宇佐の祭祀空間がすでに仏教的国家秩序の中へ組み込まれていたことを意味する。したがって、法蓮の仕事は寺を一つ建てることではなく、宇佐の神威を読経・法会・供養・塔といった仏教的形式の中へ再配置することにあったとみるべきであろう。
ここで重要なのは、なぜ「弥勒寺」だったのかという点である。弥勒は未来救済の仏であり、疫病・死者・怨霊・社会不安に対し、ただ祓うだけではなく、救済の出口を与える尊格である。[10] 宇佐神宮境内保存活用計画では、放生会は隼人の乱平定後に発生した疫病等の災厄を避けるため、法蓮ら僧侶が中心となって八世紀前半に創始したと整理されている。[11] ここでの放生会は、単なる慈悲の儀礼ではなく、疫病と災厄に揺れる共同体を仏教的に安定化する方法であった。法蓮は、三家の祭祀技術を前提にしつつ、それを弥勒信仰と放生会によって包み込み、神を国家秩序の中で働く守護神へと変えていったのである。
この観点から見ると、八幡神が宇佐宮境内へ入ったことも説明しやすい。八幡神は最初から宇佐宮の完成された主祭神だったのではなく、比売神の古い祭祀空間に後から重ねられ、やがて神宮寺体制の中で主位を獲得していった可能性が高い。[12] 宇佐神宮の年表では、一之御殿が725年、二之御殿が733年、三之御殿が823年であり、現在の三殿秩序は段階的に整えられたことが分かる。[13] 法蓮の目的は、八幡神を強めることそのものではなく、宇佐の神々を安定した国家祭祀へ編成することにあった。そう考えるなら、道鏡事件後も宇佐家そのものは切り捨てられず、大神氏・宇佐氏の双方が神宮運営に残ったことも理解しやすい。[14]
法蓮による仏教的安定化とは、荒ぶる神を消すことではなかった。在地神威を仏法に従わせ、宇佐という場を秩序だった神仏習合空間へ変えることに、その本質があったのである。[15]
注
[1] 宇佐神宮は法蓮を神仏習合初期の重要人物として位置づけ、弥勒寺との関係を伝える。
[2] 法蓮の大宝三年(703)の医術褒賞については、法蓮・豊国法師関係の研究整理に見える。
[3] 養老五年(721)の宇佐君姓付与については、法蓮関係の基礎整理に見える。
[4] 比売大神が八幡神以前からの古い神であることは宇佐神宮公式説明による。
[5] 八幡神の早期国家化と神託・軍事的性格については、宇佐宮関係年表・解説からうかがえる。
[6] 三家秩序の後代的整理は『八幡宇佐宮御託宣集』系年表に見え、宇佐祭祀が複数氏族の協働で成り立っていたことを示唆する。
[7] 日足の弥勒禅院建立、737年の移建、法蓮初代別当伝承は宇佐神宮公式説明による。
[8] 弥勒寺を宇佐神宮の神宮寺として扱うことは『弥勒寺遺跡』報告に見える。
[9] 741年の最勝王経・法華経・度者十人・三重塔付与は國學院大學デジタルミュージアムの宇佐宮解説に整理されている。
[10] 弥勒信仰の救済的性格と宇佐の神仏習合文脈については、弥勒寺・弥勒信仰研究が参考になる。
[11] 放生会を法蓮ら僧侶による災厄回避の祭事とする整理は、宇佐神宮境内保存活用計画に見える。
[12] 八幡神の後来的編入と比売神の先行性は、宇佐神宮公式説明と年表の対照から推定できる。
[13] 一之御殿・二之御殿・三之御殿の造営年差は宇佐神宮公式年表による。
[14] 道鏡事件後も宇佐氏・大神氏が神宮運営に残ることは、宇佐宮関係年表・官符整理に見える。
[15] 宇佐の初期神仏習合空間が神威の安定化装置だったことは、公式説明・保存活用計画・弥勒寺遺跡報告を総合して導ける。
史料・基礎資料
『続日本紀』。
宇佐神宮公式サイト「歴史」「神仏習合」「御祭神」。
國學院大學デジタルミュージアム「八幡大菩薩宇佐宮」。
『弥勒寺遺跡』大分県教育委員会・奈良国立文化財研究所。
大分県『史跡宇佐神宮境内天然記念物宇佐神宮社叢保存活用計画』。
参考研究
別府大学史学研究会関係論文(法蓮・豊国法師・宇佐初期仏教関係)。
参考文献
大分県教育委員会・奈良国立文化財研究所編『弥勒寺遺跡』。
大分県「史跡宇佐神宮境内天然記念物宇佐神宮社叢保存活用計画」。
宇佐神宮「歴史」「神仏習合」「御祭神」。
國學院大學デジタルミュージアム「八幡大菩薩宇佐宮」。
別府大学史学研究会関係論文。
『続日本紀』。

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