【研究ノート7】草野津の前史

宇佐津彦清智

周防灘航路と北東部九州上陸点の再検討

草野津を考える際、注意すべきなのは、古代の港名として明瞭に見える「草野津」を、そのまま三世紀以前へ機械的にさかのぼらせないことである。他方で、だからといって草野津を律令期の制度港に限定してしまうのも適切ではない。行橋市延永・吉国一帯の発掘成果を見ると、この地域には、弥生時代終末から古墳時代前期の段階ですでに広域交通を支える結節点が存在し、その後、奈良時代には文字資料や役所的施設を伴う行政的空間へと再編されていったことがうかがえる。したがって草野津とは、突然成立した港ではなく、北東部九州の上陸点として長く機能した場の、後代的名称として理解するのがよい。 

この前史を具体的に示すのが延永ヤヨミ園遺跡である。福岡県報告書では、同遺跡の主要な遺構・遺物は弥生時代終末から古墳時代前期にかけて立ち上がると整理されており、行橋市もこれを「発掘された港町」と位置づけている。さらにビワノクマ古墳の解説では、延永ヤヨミ園遺跡から船の一部、西日本各地の特徴を持つ土器、役所のような建物が確認され、地域の交通拠点となる港町であったと説明されている。ここで重要なのは、遺跡が単なる大集落ではなく、船着き・物流・行政・祭祀を併せ持つ複合拠点として見え始めている点である。[^1] 

交流のサンプルも多い。第一に、遺跡では「西日本各地の特徴を持った土器」が確認されており、在地消費だけでは説明しにくい広域交流がうかがえる。第二に、福岡県報告書には、在地土器とともに瀬戸内系の影響を受けた土器群が認められ、瀬戸内海側との接続を具体的に裏づける。第三に、ビワノクマ古墳と同じ頃の導水施設は、近畿地方を中心に分布する水祭祀施設とされ、九州初例であった。行橋市はこれを、小札革綴甲とともに、近畿地方の文化が瀬戸内海を通じて九州に上陸する地点としての地域的特質を象徴すると説明している。つまりここでは、単に物資が動いただけでなく、祭祀技術や首長文化そのものが流入していた。草野津の前史を語るうえで、この点は決定的である。[^2] 

九州内部との交流も見逃せない。延永ヤヨミ園遺跡の現地説明会資料は、弥生時代終わりから古墳時代にかけて周辺調査を合わせると住居が百軒以上確認され、当時としては大集落だったとする一方、奈良時代には木簡、墨書土器、硯を伴う建物群が現れ、港に関連する役所であった可能性に触れている。しかもその説明では、延永から約一キロ東に草野津推定地、約三キロ西に椿市廃寺があるとされる。すなわち、この地域は港だけで完結せず、寺院・官衙・郡域支配と連結した内陸ネットワークの節点でもあったのである。周防灘から入った人・物・情報は、ここで受け止められ、豊前内部へ再配分されたと考えるのが自然であろう。[^3] 

後世資料は、この結節点性をさらに明瞭にする。行橋市の展示目録には、延永ヤヨミ園遺跡出土の墨書土器として「京都物太」が確認され、行橋市の椿市廃寺解説では、これを「京郡は京都郡、物太は物部氏の大領を意味すると考えられる」としている。これにより、椿市廃寺の創建者として物部氏の可能性が浮上すると説明される。ここで重要なのは、草野津の前史が単なる自然地形の利便ではなく、やがて郡司層・寺院・行政実務と結びつく制度的港へと成熟していく過程の上にあった、ということである。港に文字資料が現れ、郡名と人名が書かれ、物部系の郡領層がうかがえるという事実は、この地域が一貫して北東部九州の受け口であり続けたことを示唆する。[^4] 

以上から、草野津の前史は次のように整理できる。第一に、その基盤は弥生時代終末から古墳時代前期に成立した延永ヤヨミ園遺跡の大規模結節点性にある。第二に、その結節点は瀬戸内・近畿系文化を受け入れる東方玄関口であると同時に、九州内部へ接続する再分配拠点でもあった。第三に、奈良時代には文字資料・役所的施設・物部系郡司層の痕跡が加わり、後の草野津として認識される制度港の輪郭が明確になる。したがって草野津とは、律令国家が新たに作った港というより、北東部九州上陸点として古くから機能していた場が、後代に制度化され、名を与えられたものとみるべきである。 

[^1]: ここでいう「港町」は、近世的な港湾都市を意味するのではなく、船舶の寄着・物流・行政・祭祀が重なる交通結節点としての性格を指す。延永ヤヨミ園遺跡は、行橋市により「発掘された港町」として紹介されている。 

[^2]: 導水施設をただちに近畿勢力の直接支配の証拠とみることはできない。ただし、近畿地方を中心にみられる祭祀施設がこの地域に出現したことは、瀬戸内海を介した文化・儀礼・技術の流入を示す有力な指標である。 

[^3]: 現地説明会資料は報告書ほど厳密な学術体裁ではないが、遺跡の位置関係や発掘時点での全体像を知るうえで有用である。本文では、確定的な断定ではなく、草野津推定地・椿市廃寺との連関を示す補助資料として用いた。 

[^4]: 「京郡物太」の解釈は重要だが、ビワノクマ古墳の築造主体をそのまま物部氏と断定する材料ではない。ここでは、後代の京都郡に物部系大領層が確認されることを、地域支配の継続性を考える一材料として位置づけるにとどめる。 

参考文献

福岡県教育委員会『延永ヤヨミ園遺跡』福岡県文化財調査報告書。延永ヤヨミ園遺跡の編年、遺構、遺物の基礎資料。 

行橋市「ビワノクマ古墳」。延永ヤヨミ園遺跡の港町的性格、導水施設、小札革綴甲との関係を示す解説。 

行橋市「椿市廃寺跡」。墨書土器「京郡物太」と物部氏大領解釈、椿市廃寺創建者問題の整理。 

福岡県教育委員会「延永ヤヨミ園遺跡 現地説明会資料」。草野津推定地、椿市廃寺、建物群・木簡・墨書土器などの位置づけを知る補助資料。 

行橋市教育委員会『出品目録』。墨書土器「京都物太」など出土遺物の確認用資料。  

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