
宇佐津彦清智
――広域ネットワークはいかにして一系の皇統へ編纂されたか
『古事記』の歴代天皇は、ふつう一つの連続した王統として読まれる。神武から推古に至るまで、系譜は途切れることなく接続され、全体はあたかも最初から一つの皇統が続いてきたかのように構成されている。だが、その叙述を丁寧に見ていくと、各天皇が均質に並べられているわけではないことに気づく。宮の所在、王の役割、物語の重心、婚姻や継承の描き方には明らかな偏りがあり、前後で王権の性格が切り替わる箇所も少なくない。そこから浮かぶのは、単一王統の滑らかな通史というより、地域基盤を異にする複数の王権ブロックが、後に一つの系譜へ編み直された構図である。
本稿は、各天皇の実在性を直接論じるものではない。また、個々の系譜記事の真偽をそのまま確定することも目的としない。ここで問いたいのは、『古事記』が歴代天皇をどのような地域基盤を持つ王権ブロックとして配置し、それらをどのように連続した皇統へ整理したか、という叙述構造の問題である。言い換えれば、本稿の中心命題は単純である。『古事記』では、広域ネットワークを一系に編纂したのではないか、ということである。
この視点に立つと、歴代天皇は大きくいくつかのブロックに分けて読むことができる。たとえば、崇神から垂仁までは奈良盆地東縁の祭祀的・統治的中心を思わせる山辺ブロック、景行から神功皇后までは西方展開と九州的伝承圏の色合いが濃い九州ブロック、応神は吉備的要素を媒介として次の王権に接続する吉備ブロック、仁徳から允恭までは王家の中心性と定着感が強まる河内ブロック、その後武烈までを地域基盤の厚みよりも王位の継続それ自体が前面化する倭国王ブロックとして捉えることができる。そして継体以降は、旧来の流れをそのまま延長したというより、外部的要素を含んだ再編ブロックとして読まれる余地がある。
重要なのは、これらを互いに無関係な独立王朝として切り離すことではない。むしろ各ブロックは、それぞれ固有の地域基盤と政治的性格を持ちながら、より大きな広域秩序の形成に参加していた、と考える方が自然である。つまり、最初から一つの王統が全域を貫いていたのではなく、広域化の過程に参加した複数の王権ネットワークが存在し、その後に『古事記』編纂の段階で一系の皇統として整理された、という理解である。ここで連続しているのは、最初からの実態というより、編纂後の表現である。
このように見ると、『古事記』の系譜は単なる血統の列ではなく、差異を吸収し、断絶を見えにくくし、地域ごとの政治基盤を一つの王統へ束ねるための編集装置として立ち現れる。山辺、九州、吉備、河内といった異なる基盤を持つ王権の連なりは、そのままでは複数の中心を持つ広域ネットワークであったはずである。だが『古事記』は、それらを一つの起源へ遡らせ、一つの系譜へ連結し、一つの皇統として語り直した。そこに見えるのは、過去の記録というより、過去の再配置である。
この点で、『古事記』は歴史をそのまま保存した書ではなく、広域的に連携していた王権ネットワークを、一系の皇統へ再編した書として読むことができる。歴代天皇は均質な一本線ではなく、地域基盤ごとの塊を持っている。にもかかわらず、最終的にはその塊が一つの王統へ回収される。ここに『古事記』の最大の特徴がある。そして、この一系化の意図を考えるとき、後代に「万世一系」と呼ばれるような王統観の前提もまた、すでにこの編集作業の中に芽生えていたと考えてよいだろう。
したがって、古事記の歴代天皇は、単一王朝の単純な連続としてではなく、地域基盤を異にする複数の王権ブロックが広域秩序へ参加し、その差異を消去されながら一系の皇統へ編纂されたものとして読むことができる。『古事記』の本質は、断絶のない歴史を伝えることにあったのではない。むしろ、多中心的な広域ネットワークを、連続した王統として見える形に組み直すことにあったのである。
一 山辺ブロック
――崇神から垂仁まで
崇神から垂仁までの叙述は、『古事記』の中で最初に王権の輪郭が明確に立ち上がる帯として読める。それ以前の初期天皇群が、連続性そのものを支えるための薄い層として置かれているのに対し、崇神朝に入ると、王ははっきりと秩序形成の主体として描かれ始める。疫病、祭祀、鎮定、統治といった主題が前面に出るのは、王権が単なる系譜上の存在ではなく、共同体の不安を収める中心として位置づけられていることを示す。
ここで注目すべきなのは、崇神・垂仁の時代が、広域征服の物語よりも、むしろ王権の内部秩序と祭祀秩序の整備を重く担っている点である。これは外へ開く王権というより、まず中心を定める王権の姿である。王権の重心は、広大な征討圏より、祭祀と統治の核が置かれる場にある。その意味で、この帯を大和一般ではなく、より具体的に奈良盆地東縁の山辺的基盤を持つブロックとして読むのは不自然ではない。
山辺ブロックの特徴は、王権がまだ巨大な外征国家としてではなく、祭祀と統治の結節点として描かれていることである。ここでは王は遠方へ拡張するより、まず中心を成立させる者として立っている。だから崇神から垂仁までのまとまりは、後の九州的・河内的ブロックとは明らかに性格が異なる。この差異は、『古事記』が均質な王統を並べているのではなく、異なる地域的・政治的性格を持つ王権の塊を順に配置していることを示している。
二 九州ブロック
――景行から神功皇后まで
景行から神功皇后までに入ると、叙述の舞台は明らかに西へ傾く。王権の動きは、中心の整備よりも、外部への進出、征討、遠方との接続へ重心を移す。ここでは王権は祭祀的中核というより、広域的な移動と軍事的・政治的展開の主体として現れる。山辺ブロックの静かな中心形成に比べ、この帯ははるかに動的であり、地域的にも西方世界との結びつきが濃い。
景行朝の性格は、その最初の表れである。王権はもはや中心の秩序づけだけでなく、周辺を含む広域空間の掌握へ向かう。その流れは仲哀、さらに神功皇后に至るまで持続し、王統の舞台は大和内部に閉じたものではなくなる。ここで描かれる王権は、九州との関係を抜きにしては理解しにくい。征討、外征、海を越えた展開、筑紫を含む西方の政治空間が、王統の叙述を支える基盤として前面化するからである。
神功皇后の位置も重要である。彼女は通常の皇統記述の流れの中で特異な存在だが、その特異性こそ、この帯が単なる父子継承の物語ではなく、西方的王権世界を繋ぐブロックであることを示している。ここでの王権は、宮廷の内部管理よりも、より大きな広域秩序の形成に深く関わっている。したがって景行から神功皇后までを九州ブロックとして捉えることは、単なる地理的読み替えではなく、王権の性格変化を踏まえた区分として十分に成立する。
三 吉備ブロック
――応神の媒介的位置
応神は、前後いずれのブロックにも完全には収まりきらない。前段の九州的世界を引き受けながら、後段の河内的王権へ接続する、きわめて媒介的な位置に置かれている。だから応神を独立した吉備ブロックとして立てる読みは、意外に有効である。ここでいう吉備ブロックとは、巨大な独立王朝という意味ではない。九州的広域王権を次の定着型王権へ結び直すための接続核という意味である。
応神朝の叙述では、系譜と王統の厚みが増し、後続王家との接続点としての重みが目立つ。ここで重要なのは、応神が単に一代の王として大きいのではなく、後の王統秩序にとって基準点のように機能していることである。つまり応神は、前のブロックを後のブロックに滑らかに受け渡すために、特別に厚く配置された王なのである。
吉備という語を置く意味は、応神の役割が九州的拡張と河内的定着の中間に位置していることを示すためである。ここで王権は、外部勢力を単に征服するのでなく、接続し、取り込み、次の王権構造の基盤へ変えていく。その媒介性を考えると、応神を単なる通過点ではなく、ブロックそのものとして読むことには十分な意義がある。
四 河内ブロック
――仁徳から允恭まで
仁徳から允恭に至る帯は、『古事記』の中でもっとも定着感の強い王権ブロックとして読める。ここでは王権はもはや移動的・外征的な中心ではなく、明確な重心を持つ大王家的秩序として描かれる。王の存在感、王家の内部構造、后妃・御子・同母兄弟をめぐる叙述の厚みは、この帯が一つの完成した王権像を担っていることを示す。
仁徳はその中心にある。仁徳朝では王が単なる継承者ではなく、明らかに巨大な中心として立つ。しかもその中心性は、個人の英雄性だけではなく、王家という単位そのものの厚みとして支えられている。ここに見えるのは、外へ広がるネットワークの王権ではなく、中心に蓄積を持つ定着型の王権である。その意味で、この帯を河内ブロックとするのはきわめて自然である。
允恭までを一まとまりと見るのも重要である。仁徳以後、王統は直ちに崩れるのではなく、なお一定のまとまりを保っている。王家内部の継承不安は表れるが、それでもなお王権の中心性は維持されている。この「まだまとまっている」感じが、允恭までを一つの塊として読む根拠になる。ここでは王権は最も強く地域基盤と結びつき、その地域基盤の上に王統の厚みが築かれている。
五 倭国王ブロック
――安康以後から武烈まで
安康以後になると、それまでの河内ブロックに見られた王家の定着感はやや薄れ、叙述の重心は地域基盤よりも、王位の継続そのものへ移っていくように見える。ここでは王権が強い中心を持って広がるのではなく、むしろ「王であること」を保つための継承が前面に出る。したがってこの帯は、河内ブロックの延長というより、地域基盤の厚みを失った倭国王ブロックと呼ぶ方がふさわしい。
このブロックでは、王統はなお続いている。だが、その続き方は前段とは異なる。河内ブロックが一つの王家の成熟を感じさせたのに対し、ここでは王位の維持自体が不安定さを帯びる。言い換えれば、王権はなお広域秩序の中心でありながら、地域王朝としての厚みを失い、より抽象的な「倭国王」の位置へ近づいていく。そこでは王統の継続は強調されるが、その基盤の具体性はやや後退する。
武烈までをこのブロックに含めるのは、その終端に王統の行き詰まりのようなものが見えるからである。ここで一つの流れは尽き、次の再編を必要とする。だから安康以後から武烈までの帯は、単なる衰退ではなく、地域王朝的厚みを失った王位継承の時代として読むことができる。
六 再編ブロック
――継体から推古まで
継体から推古に至る時代は、それ以前のブロックの自然な延長として読むより、再編ブロックとして捉える方がよい。この帯では、前の流れがそのまま続いているのではなく、一度ほころんだ王統を新たに繋ぎ直し、より大きな国家秩序へ再編していく動きが見える。だからここは、単なる後続ではなく、王統の組み替えが起きる段階とみなすべきである。
この再編ブロックの重要性は、地域基盤が一つに固定されていないことにある。むしろ、これまでの各ブロックの上に立ちながら、それらをより高い次元でまとめ直す動きが前面に出る。外部的要素、西方的要素、旧来の地域ネットワークがここで再配置され、最終的には推古朝へ至る政治秩序の基盤が整えられる。したがって、この帯を本来的に九州に由来する要素を含む再編王権として読むことには十分な余地がある。
継体から推古までの意義は、地域ブロックの並置ではなく、その統合にある。山辺、九州、吉備、河内、倭国王という複数の王権ブロックが重なり合ったのち、そこから新たに再編された国家的王統がここで姿を見せる。後に律令国家へ向かう流れを考えれば、この再編ブロックは単なる終末部ではなく、むしろ新たな国家構造への入口として理解すべきである。
七 結論
――広域ネットワークはいかに一系へ編み直されたか
以上のように見ると、『古事記』の歴代天皇は、均質な一本の王統ではなく、地域基盤を異にする複数の王権ブロックとして読める。崇神から垂仁の山辺ブロック、景行から神功皇后の九州ブロック、応神の吉備ブロック、仁徳から允恭の河内ブロック、安康以後から武烈までの倭国王ブロック、そして継体以降の再編ブロックは、それぞれ王権の性格も舞台も異なる。重要なのは、それらが互いに孤立した王朝としてあるのではなく、広域秩序の形成に参加した複数のネットワークとして連なっていることである。
『古事記』の編纂は、この多中心的な広域ネットワークを、その差異を消しながら一系の皇統へ整理する作業であったとみることができる。そこでは断絶は滑らかにされ、地域差は系譜へ吸収され、異質な政治基盤は連続した王統として語り直される。つまり『古事記』とは、最初から一つであった皇統を記録した書というより、本来は複数の地域基盤の上に成立していた広域王権ネットワークを、一つの皇統へ編み直した書なのである。
