【研究ノート42】造化三神から読む古事記の設計思想

宇佐津彦清智

――道教的起点と生成構造としての神世七代

序論

『古事記』は通常、日本最古の神話・歴史書として読まれる。しかし、その冒頭部分を丁寧に見ていくと、そこに置かれているのは単なる神々の物語ではない。むしろ先にあるのは、世界をどのように始め、どのように分化させ、どの段階で具体的創造主体を成立させるかという設計思想である。とりわけ、天地初発に続いて現れる天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の三神は、『古事記』序で「造化の首」と括られ、「造化」という語や三神の配列に道教思想の影響が指摘されている。しかもこの三神は『日本書紀』では主要伝承ではなく補足的に現れるにとどまり、記紀の中でも比較的新しく付加された層とみられている。ここから見えてくるのは、古事記冒頭が在地祭祀の素朴な集積ではなく、宇宙論的な起点を明示的に置いた構造的記述だという事実である。

本稿の目的は、この造化三神を起点に、『古事記』冒頭の本質を「神々の列挙」ではなく「設計思想」として読み直すことにある。具体的には第一に、造化三神を中心・統御・生成という三層の原理として捉える。第二に、その後に置かれる神世七代を、具体神の系譜ではなく、世界生成を段階化した抽象的中間層として理解する。第三に、この構造が単なる物語上の装飾ではなく、後続する国家秩序を支える世界理解の基礎として働いていることを示したい。以下では、天照成立以後の王権神話には踏み込みすぎず、造化三神から神世七代までに範囲を限定して論じる。

第一節 造化三神は「神々」ではなく世界の起点である

造化三神の第一は天之御中主神である。この神は天地初発の最初に現れ、独神として身を隠し、その後ほとんど具体的な行動を示さない。この特徴は重要である。ふつう神話における神は、何をしたか、どこで働いたかによって性格づけられる。だが天之御中主神にはそれが乏しい。したがって、この神は行動神というより、世界そのものの中心を神格化した存在として理解するのが自然である。國學院の解説でも、その名は「天の中央の主」と解され、北辰・北極星と結びつけて論じられてきたことが示されている。つまり天之御中主神は、具体的役割以前に、世界がそこから始まる静的中心として置かれているのである。

これに対して高御産巣日神と神産巣日神は、どちらも「ムスヒ」を名に持ち、生成に関わる神と解される。しかし、作中における働きは明らかに異なる。高御産巣日神は『古事記』ではのちに高木神とも呼ばれ、葦原中国平定、天若日子の派遣、天孫降臨、神武東征などの局面で、天上からの命令、派遣、裁定、補助に関わる。國學院の解説でも、この神は「天つ神の派遣を司令する」性格を持ち、高木神という別名のもとで司令神として前面に出るとされる。つまり高御産巣日神は、単なる生成神ではなく、秩序を定め、必要に応じて排除や裁定も行う統御原理である。

一方の神産巣日神は、須佐之男命が大宜津比売神を殺した場面で種の生成に関わり、大国主神が殺された場面ではキサ貝比売・蛤貝比売を遣わして蘇生に関与し、さらに少名毘古那神を大国主神に与えて国作りを命じる。こちらは、生命の回復、生成、補完、展開に深く関わっている。神産巣日神の性格を見れば、高御産巣日神が「秩序を与えるムスビ」であるのに対し、神産巣日神は「生を生み直すムスビ」だと言える。

このように見ると、造化三神は並列的な三柱ではない。
第一に、天之御中主神が中心として置かれる。
第二に、高御産巣日神が統御・裁定へ分化する。
第三に、神産巣日神が生成・蘇生へ分化する。
ここにあるのは神話的個性の描写ではなく、世界を成立させる原理の三分節である。

この三神構造が「日本的素朴信仰」だけでは説明しにくいことは、用語レベルでも明らかである。造化三神の「造化」は万物生成の作用を意味し、この語は道教系文献に頻出する。さらに三神の神格と配列そのものに道教思想の影響があると解説されている。したがって、造化三神とは、日本列島の在地神がたまたま冒頭に置かれたのではなく、道教思想を含む中国的宇宙論の起点構造が古事記の冒頭に導入されたものと理解するのが妥当である。

第二節 神世七代は人格神の系譜ではなく生成段階の列である

造化三神の後に続く神世七代は、通例「神々の系譜」として理解されがちである。しかし、その読み方には大きな違和感が残る。神世七代に現れる多くの神は、名前は記されるものの、具体的な行動や機能がほとんど示されない。国之常立神、豊雲野神、宇比地迩神・須比智迩神、角杙神・活杙神、意富斗能地神・大斗乃弁神、於母陀流神・阿夜訶志古泥神と続くが、それぞれがどのような働きを担うのかは明示されない。古事記本文を見ても、ここでは「次に成る神の名は」と続くだけで、物語的展開は最小限である。

このことは、神世七代が「何の神か」を説明するための層ではないことを示している。むしろここに置かれているのは、世界が未分化の状態から徐々に分化し、最後に創造主体を持つに至るまでの生成段階そのものである。前半の独神は、まだ世界が対立や相補を生み出す前の単独段階を示し、後半の対偶神は、分化と対の成立を示す。最終的に伊耶那岐神・伊耶那美神という男女二神に至って、初めて国生み・神生みを担う具体的主体が完成する。

國學院の伊耶那岐神・伊耶那美神解説は、神世七代全体の展開を、岐美二神の生成を帰着点とする「神の身体形成の過程」と捉える説を紹介している。つまり、神世七代の意義は、それぞれの神が独立した人格神であることではなく、身体・性・生成能力を備えた創造主体が成立するまでの構造的移行を示すところにある。伊耶那岐神・伊耶那美神は、国土を生み、神々を生み、死の発生と出生の均衡を引き受ける。ここに至って初めて、冒頭で準備されていた生成構造が現実の物語として作動し始める。

したがって、神世七代は「何を抽象化しているのか分からない神々」なのではなく、まさに生成そのものを抽象化した層である。未分化から分化へ、単独から対へ、抽象から具体へという推移が、神名という形式で並べられているにすぎない。現代的なたとえを使えば、そこにあるのは完成した実装ではなく、後の創造を可能にするためのインターフェース定義に近い。もちろん古代人が現代の構造化プログラミングを知っていたわけではない。しかし、世界を抽象原理から段階的に具体化していく高度な構造思考を持っていたことは、神世七代の記述から十分にうかがえる。

第三節 道教的起点の上に、配置と展開の思想が重ねられている

ここまで見ると、古事記冒頭は明らかに神話の体裁を超えている。造化三神は道教的宇宙論によって起点を設定し、神世七代はその起点の下で生成過程を段階化している。だが、なお問題は残る。造化三神だけでは、世界の「始動原理」は示せても、世界の「展開」や「配置」までは担いきれない。そこで重要になるのが、ムスビの配置や神世七代の配列に見える、世界を秩序的に展開する感覚である。

この点について、本稿では補助線として虚空蔵思想を考えたい。虚空蔵菩薩は後の密教において、胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院で中心尊として配され、金剛界曼荼羅にも位置を持つ。つまり虚空蔵思想は、単なる一尊信仰ではなく、宇宙を中心から多層的に配置し、知と福徳を「蔵」する世界把握と結びつく。両界曼荼羅や虚空蔵院の説明からも、虚空蔵は秩序的配置の一環として理解されるべき尊格である。

もちろん、神世七代をそのまま曼荼羅と断定することはできない。時間的展開を持つ神話叙述と、空間配置を原則とする曼荼羅とは形式が異なる。しかし、中心を置き、そこから機能を分化させ、世界を秩序的に展開していく感覚は、後世に曼荼羅として可視化される世界観と親和的である。造化三神の起点構造には道教思想が含まれているが、ムスビの配置や神世七代の配列には、虚空蔵思想、さらには後世の曼荼羅的世界観に通じる構造感覚が入り込んでいると見ることができる。

ここで法蓮を補助線として入れることにも意味がある。法蓮は『宇佐託宣集』に「山本に於いて虚空蔵菩薩を奉崇す」と見え、宇佐山本には七世紀末頃建立とみられる虚空蔵寺跡がある。また法蓮は大宝三年(703)に医術を賞され、養老五年(721)には禅定・仏法・医術をあわせて顕彰され、親族に宇佐君姓が与えられている。法蓮をもって古事記の直接の編纂者とすることはできないが、少なくとも当時すでに、世界を配置構造として把握しうる宗教知識層が現実に存在していたことを示す傍証としては重要である。

この意味で、古事記冒頭は単に「道教的」でも「仏教的」でもない。むしろ、
起点の設定においては道教的であり、
展開の感覚においては虚空蔵思想や後の曼荼羅的世界観と親和的である。
この二重性こそが、古事記冒頭を単純な土着神話から遠ざけ、きわめて構造的な叙述にしている。

結論

造化三神から神世七代までを通して読むと、『古事記』の冒頭は神々の物語というより、世界の成立を設計する思想として現れる。造化三神は、天之御中主神を中心とし、高御産巣日神・神産巣日神を統御と生成の原理として配置することで、世界の起動構造を示す。そして神世七代は、その起動構造の下で、未分化から分化へ、単独から対へ、抽象から具体へと至る生成の段階を抽象化した層として機能する。

この構造は、日本列島の在地神話の自然成長だけでは説明しにくい。造化三神には明らかに道教思想を含む中国的宇宙論が入り込んでおり、ムスビと神世七代の配列には、虚空蔵思想や後の曼荼羅的世界観に通じる配置感覚が見える。したがって、少なくとも古事記冒頭に限れば、そこにあるのは「神話」そのものではなく、神話形式を用いて世界と国家の正当な始まりを記述するための設計思想である。

ゆえに、『古事記』は神々を記すが、その本体は神名ではない。本体は構造である。造化三神から神世七代までの範囲において、『古事記』はすでに物語ではなく、神聖国家を可能にする世界設計の証明書として読まれるべきである。

本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。

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関連テーマ

【研究ノート40】古事記とは何か

  1. 天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の三神は、『古事記』序で「造化の首」と括られ、「造化」という語が道教系文献に頻出すること、三神の神格・配列に道教思想の影響があること、さらにこの三神伝承が比較的新しい付加部分と考えられることについては、國學院大學古事記学センター「天之御中主神」に拠る。
  2. 高御産巣日神が葦原中国平定、天若日子派遣、神武東征などにおいて天上からの司令・補助に関わること、および高木神という別名で司令神的性格を帯びることについては、同センター「高御産巣日神」「高木神」に拠る。
  3. 神産巣日神が種の生成、蘇生、少名毘古那神の付与などを通じて生成・蘇生の側に深く関わることについては、同センター「神産巣日神」に拠る。
  4. 神世七代本文、および伊耶那岐神・伊耶那美神が神世七代の帰着点として身体形成・性の具備を通じて創造主体化するという見解については、同センター「神世七代」「伊耶那岐神」「伊耶那美神」に拠る。
  5. 虚空蔵菩薩が胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院で中心尊として配され、金剛界曼荼羅にも位置を持つこと、また虚空蔵院が両界曼荼羅における秩序的配置の一部であることについては、コトバンク「両界曼荼羅」「虚空蔵院」「虚空蔵」に拠る。
  6. 宇佐山本の虚空蔵寺跡が七世紀末頃建立とみられ、『宇佐託宣集』に「法蓮和尚者於山本、奉崇虚空蔵菩薩」と見えることについては、コトバンク「山本村」に拠る。

参考文献

  • 國學院大學 古事記学センター「天之御中主神」
  • 國學院大學 古事記学センター「高御産巣日神」
  • 國學院大學 古事記学センター「高木神」
  • 國學院大學 古事記学センター「神産巣日神」
  • 國學院大學 古事記学センター「伊耶那岐神」
  • 國學院大學 古事記学センター「伊耶那美神」
  • 國學院大學 古事記学センター「神世七代」
  • コトバンク「山本村」
  • コトバンク「両界曼荼羅」
  • コトバンク「虚空蔵院」
  • コトバンク「虚空蔵」

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