【研究ノート13】福原長者原官衙遺跡は何のために造られたのか

宇佐津彦清智

――白村江敗戦後の豊前と唐の監督体制をめぐる試論

福原長者原官衙遺跡を、単なる豊前国府の前身ないし一地方官衙として理解するだけでは、どうしても説明しきれないものが残る。行橋市の保存活用計画によれば、この遺跡は飛鳥時代末頃に成立し、政庁区画は一辺約一五〇メートルの方形区画をなし、八脚門や回廊状施設を備える九州最大級の古代官衙政庁跡である。しかもその規模や設計には藤原宮を想起させる要素があり、通常の地方官衙を超える格式と構想性が認められている。行橋市自身も、国府関連施設ないし国府以上の可能性を視野に入れている。したがって、まず出発点として、この遺跡を「普通の国府」とみなすこと自体を疑う必要がある。 

問題は、その異常な規模が何によって要請されたのかである。通説では、白村江敗戦後、倭国は対唐・対新羅防衛のために水城・大野城・基肄城などを急造し、大宰府を中心とする防衛体制を整えたと説明される。この理解は、文化財行政や自治体解説でも広く採用されている。だが、その骨格は基本的に『日本書紀』天智紀の記事に依存している。すなわち、六六四年に防人・烽・水城、六六五年に大野城・基肄城を整備したという理解は、『日本書紀』の叙述を基準線として構成されたものであり、発掘資料だけから築造主体を直接確定したものではない。言い換えれば、「倭側が自主的に築いた」という説明は、考古学的実証というより、後代史書の叙述に強く支えられている。 

ここで改めて常識的に考えてみたい。白村江で大敗した直後の倭国が、果たして短期間に広域防衛線を独力で整備し、巨大官衙を構築し、しかも戸籍や軍事制度の再編まで主体的に遂行しえたのか。もちろん不可能と断言することはできない。しかし、敗戦国家の現実を思えば、より自然なのは、唐の強い軍事的・外交的圧力の下で、倭国政府が半ば命令される形で人員・資材・労働を徴発し、各種施設整備を行ったとみる見方である。近現代の敗戦後占領においても、占領軍がすべてを自力で建設するのではなく、現地政府に命じて調達・施工・維持を担わせることは珍しくない。古代においても、唐軍あるいは唐使節団の要求の下で、倭側行政が実務を担った可能性は十分に考えられる。これは「唐が直接築いた」か「倭が自主的に築いた」かの二択ではなく、「唐に作らされた」という第三のモデルである。^1

この第三のモデルを支えるのが、郭務悰の継続的来倭である。白村江敗戦後、郭務悰は六六四年に来倭し、その後も数年にわたり倭との外交折衝に関わり、六七一年にも大規模使節団を率いて来倭したと研究されている。ここで重要なのは、これほど大きな使節・監督行為が、毎回まったく白紙の状態から来着したと考えるより、北部九州に継続的な受け入れ・監督・補給拠点が存在したとみる方がはるかに自然だということである。郭務悰が何度も倭に来るたびに、すべての体制が毎回ゼロから組み直されたとは考えにくい。むしろ、最初期の進駐・監督部隊、あるいはそれに準ずる固定的拠点があり、それを倭側政府が継続的に支えたとみる方が現実的である。 

この観点から見ると、福原長者原官衙遺跡の異常さは際立つ。大宰府政庁に迫る規模を持ちながら、行橋・京都平野という東九州への結節点に位置し、瀬戸内海側からの動線と豊前内陸への接続を押さえる。これは単なる一国支配の国府より、むしろ前線の軍政・外交・監督拠点として読む方がしっくりくる。大宰府が対外・防衛の中枢であったとして、その東側にもう一つ、豊前・東九州の押さえとして巨大官衙が必要だったと考えれば、福原長者原の規模は説明しやすい。しかも、行橋市の資料でも、この遺跡は一般的国府政庁を超える可能性が繰り返し示唆されている。したがって本遺跡を、白村江敗戦後の唐圧力のもとで整備された、豊前前線の受け入れ・補給・監督基地とみる仮説は十分成立する。 

では、誰がその実務を担ったのか。ここでも通説は単純化しすぎている。『日本書紀』には憶礼福留・四比福夫という百済系人物が大野城・基肄城築城の指導者として現れるため、しばしば「百済難民が築いた」と理解される。しかし、その理解も書紀記事への依存が強く、発掘だけで彼らの実在や具体的施工範囲が証明されたわけではない。しかも、これほどの大工事を少数の亡命者だけで担ったとは考えにくい。九州国立博物館の資料も、百済系技術者が「指揮」したと述べるにとどまり、多数の関与者を前提としている。つまり、外来技術者はいても、実際の築造主体は別にいたと考えるべきである。 

その主体として注目されるのが、京築・中津に濃く見える秦氏系集団である。行橋市の講演会資料では、豊前国戸籍に秦氏や勝のカバネを持つ者が多数見えることが指摘されている。また中津側では、薦神社の三角池について秦氏一族の築造伝承が残る。これらは直接に福原長者原や大野城と結びつく一次証拠ではないが、少なくとも京築・中津には、大規模土木や動員と結びつく渡来系集団の厚みがあったことを示している。したがって、唐の監督・要求の下で、倭国政府が人員を徴発し、その実務の中核を秦氏系・勝系を含む渡来系集団が担ったという仮説は、現実的な説明力を持つ。^2 

以上より、福原長者原官衙遺跡は、単なる豊前国府前身として理解するよりも、白村江敗戦後の唐軍ないし唐使節団の継続的圧力の下で整備された、前線の支配・受け入れ・監督拠点とみる方が妥当ではないか。水城・大野城・基肄城のような防衛施設と同列に「倭の城」として処理するのではなく、敗戦国家倭国が唐の要求に応じて築かされた軍政・外交の拠点群の一部として再定位すべきである。福原長者原の巨大さは、その異常な歴史状況をこそ物語っている。^3

参考文献

行橋市『史跡福原長者原官衙遺跡保存活用計画』。福原長者原官衙遺跡の規模、構造、成立時期、藤原宮との類似可能性を示す基本資料。 

行橋市『史跡福原長者原官衙遺跡保存活用計画 概要版』。九州最大級官衙政庁跡であること、政庁区画の大きさを簡潔に示す。 

行橋市「福原長者原官衙遺跡」および指定記念講演会資料。国府以上の可能性、講演会での位置づけ確認に有用。 

大野城市教育委員会・九州国立博物館資料。大野城・基肄城築城理解が『日本書紀』依存であること、憶礼福留・四比福夫の記事の確認に用いた。 

郭務悰来倭に関する研究論文。白村江敗戦後の継続的来倭と、大規模使節団の存在確認に用いた。 

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