
宇佐津彦清智
――大和王権の九州浸透は天武朝からではないか
本稿では、天武朝以前の大和王権の実態をあらかじめ措定しない。証明困難な初期王権像を前提に景行天皇伝承を読むのではなく、むしろ後代に確実に観察しうる王権的浸透の局面から逆照射し、九州各地の在地記憶がいかに「景行天皇」という器に統合されたのかを考えたい。
景行天皇伝承は九州各地に濃密に残るが、その実像は驚くほど見えにくい。とりわけ豊前・豊後の伝承では、具体的に動くのは菟名手、神夏磯媛、夏花のような人物たちであり、景行天皇自身が何を判断し、どう行動したのかはきわめて希薄である。『行橋市史』の「景行天皇の巡幸説話」も、この伝承をそのまま史実とはせず、ヤマト王権が九州の豪族と同盟し、あるいは抵抗勢力を排除しながら勢力を拡大していく過程が投影されたものと捉えている。ここからまず言えるのは、景行天皇伝承が一人の王の遠征記として書かれているのではなく、複数の地域的記憶を王権の名の下に再編した叙述だということである。
そのことは、豊前の記事の構造を見ればいっそう明らかになる。『日本書紀』景行紀では、景行天皇は周防の娑麼から九州南方を望み、まず武諸木・菟名手・物部君祖夏花を派遣する。その後、神夏磯媛が磯津山の賢木を抜き、上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊を掛け、さらに船の舳に白旗を立てて服属の意を示す。そして実際に討伐を遂行するのも、まずは先遣の武諸木らである。景行天皇は最後に長峡県へ到着し、行宮を置いたとされるが、行橋市史はこの「京」の記事自体、むしろ先行する地名を説明するための後代的説話とみるのが妥当だとしている。ここでは現場で動く主体と、それを王権の物語へ包み込む主体とが、明確に分かれている。
豊後側でも事情は同じである。行橋市史は、景行紀に現れる菟名手について、豊後国風土記では豊国直の祖でもあり、国東臣の祖でもあると整理する。つまり豊前・豊後にまたがる秩序の接続点として具体的に見えるのは菟名手であって、景行天皇ではない。景行天皇はそこに姓や国名の由来を与える王権的名義として現れるにすぎず、現地で秩序を組み替え、定着する主体はあくまで在地もしくは在地化していく人物たちである。この叙述構造から見れば、景行天皇伝承の本体は王の行動記録ではなく、地域秩序再編の記憶を王権神話に統合したものと理解すべきであろう。
では、その統合はいつの視点から行われたのか。ここで注目したいのが、七世紀後半、とりわけ天武・持統朝を中心とする地方支配の再編である。岸本道昭は、播磨地域の検討を通じて、風土記的領域と寺院建立の実態から見た地方の領域支配の実質的開始を七世紀末の持統朝に求めている。また仁藤敦史は、評制への一元化がなお均質な領域支配の完成を意味しないことを指摘しており、古い支配形態の上に新たな国家編成が重ねられていく過程を論じている。さらに鈴木拓也は、南九州の隼人政策が律令国家転換期に本格化することを示し、九州南部の王権編成が後代に深く関わることを明らかにしている。地域差はあるにせよ、九州各地が同じ王権の言語で包摂され始める本格的局面を、七世紀後半から天武・持統朝に見ることは十分可能である。
この見方に立つと、景行天皇伝承の奇妙さがかえってよく説明できる。すなわち、三世紀や四世紀の出来事がそのまま残ったのではなく、後代の王権が九州各地へ浸透し、在地首長層・旧来の祭祀秩序・交通拠点を自らの物語へ組み直す際に、それらを「景行天皇」の名の下に統合したのである。だからこそ、神夏磯媛の賢木祭祀、菟名手の定着、豊国直・国東臣の系譜、長峡県の京地名説話といった異質な要素が、ひとつの遠征譚の中に同居する。景行天皇は歴史的人物として輪郭を持つのではなく、九州各地の再編記憶を大和王権の象徴へ翻訳するための器として機能している、とみるべきではないか。
この仮説は、京築地域で見えてくる考古学的状況とも矛盾しない。行橋市史は、長峡県の領域を旧京都郡に相当すると考え、石塚山古墳や御所山古墳の被葬者を、この長峡県を基盤に豊の地域一円へ影響力を及ぼした豪族とみている。また、京築では後代に「京郡物太」墨書土器が出土し、行橋市はこれを物部氏の大領と解する可能性を示している。これらは景行天皇その人を実証する材料ではないが、少なくとも伝承の舞台が、後代に王権的再編と物部系支配痕跡の濃く現れる地域と重なっていることを示す。景行天皇伝承は、こうした地域基盤を後から王権の祖型神話へ転換したものと読むことができる。
以上より、景行天皇伝承を古層の征討記録としてそのまま読むことは難しい。むしろそこに見えるのは、在地首長・祭祀秩序・交通拠点・地域系譜の記憶を、大和王権が後代に再配置した痕跡である。そして、その再配置が九州各地へ本格的に浸透する国家的視点として最もよく対応するのは、七世紀後半、とりわけ天武・持統朝以降ではないか。景行天皇伝承は、古い出来事そのものを語るというより、九州が初めて広い意味で「王権の地図」に組み込まれていく過程を、王家の始源へ投影した神話的表現なのである。
注
- 本稿でいう「九州浸透」とは、軍事的征服のみを指さない。地名説話、系譜付与、寺院建立、評制・郡制的再編、在地首長層の王権秩序への包摂を含む、広い意味での王権的統合を指す。
- 天武朝「から」としたのは、天武朝単独で全国支配が完成したという意味ではない。天武・持統朝を中心とする七世紀後半を、九州各地が王権の同じ言語で再編され始める本格的局面として捉えるための表現である。
- 景行天皇伝承を後代的再編とみることは、伝承の価値を下げることではない。むしろ、どの時代の国家意識が、どのように在地の記憶を回収したかを示す史料として読む立場である。
参考文献
『行橋市史』「景行天皇の巡幸説話」。景行紀豊前条の引用、神夏磯媛・菟名手・夏花の配置、長峡県と「京」説話の整理。
岸本道昭「7世紀の地域社会と領域支配」。風土記的領域と寺院建立から、地方の実質的領域支配開始を七世紀末の持統朝に見る。
仁藤敦史「古代王権と『後期ミヤケ』」。評制への一元化後も均質な領域支配は未完成であったことを論じる。
鈴木拓也「律令国家転換期の王権と隼人政策」。南九州・隼人をめぐる王権政策の本格化を論じる。
広瀬和雄「古墳時代像再構築のための考察」。地方支配が長い時間をかけて拡大・浸透していく過程への視角を与える。


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