
宇佐津彦清智
――大野川水系・海部族・豊後内陸回廊からみる再検討
景行天皇伝承に九州征伐譚が厚く組み込まれている理由を考えるとき、まず確認すべきなのは、それが単なる「古い戦争の記録」としては読みにくいことである。豊前・豊後の記事で具体的に動くのは、景行天皇その人よりも、菟名手や物部君祖夏花、さらに在地首長たちである。とくに國學院大の系譜整理では、菟名手は景行紀に現れるのみならず、のちに豊国直・国東臣へ接続する節点的人物として位置づけられている。つまり景行紀豊後条の核は、「王が何をしたか」よりも、「誰が地域秩序を担う者として立てられたか」にある。景行天皇は、その再編を王権の物語として包み込む器として機能しているように見える。
この点を具体化する地理的中軸が、大野川水系である。国土交通省の大野川水系資料によれば、大野川は祖母山に発し、竹田盆地を貫流し、緒方川・奥岳川など多くの支川を合わせて中流峡谷部を下り、大分市戸次で大分平野に出て別府湾へ注ぐ、幹川流路延長107キロ、流域面積1,465平方キロメートルの一級河川である。流域は大分・熊本・宮崎の三県にまたがり、その規模自体が、単なる地方河川ではなく広域交通・広域支配の回廊であった可能性を示している。大野川を押さえることは、河口だけでなく、竹田盆地へ至る内陸路、さらに多くの支流を通じた山間部の首長圏まで視野に入れることを意味した。
しかも下流域には、海を介して大和政権と結びついた強力な海部首長圏があった。大分市の公式解説では、海部地域は海洋交通を通じて大和政権とつながり、県下最大級の亀塚古墳を築くに至ったとされる。これは、大野川下流域が単なる河口ではなく、海上交流を担う政治・軍事・祭祀の重要拠点だったことを示す。景行天皇伝承に豊後平定が入った背景には、この海部のいる下流域を王権史の中へ組み込む必要があったと考えるべきである。すなわち、豊後とは抽象的な一国ではなく、まず大野川河口から始まる海と川の結節地帯だった。
さらに中流域の犬飼に目を向けると、大野川が実際に中流まで遡行・輸送に使える回廊だったことが、後代資料からかなり明瞭に分かる。豊後大野市の観光・地質系資料や大分県の資料によれば、犬飼港は江戸時代初めに整備された川港で、1656年に岡藩主中川久清が内陸部への交通拠点として整え、1917年に豊肥線が開通するまで川船交通の要所として機能していた。もちろんこれをそのまま古代へ遡らせることはできないが、大野川中流が「港を置き得る場所」であり、海と内陸をつなぐ実用的回廊であったことの強い傍証にはなる。景行紀に豊後平定が入る意味も、こうした内陸への河川通路を王権の歴史へ回収する必要から考えると理解しやすい。
ここで重要なのは、大野川流域が空白地ではなく、もともと複数の首長圏・生産圏・交通圏を抱えた広大な地域だったということである。大分県の文化財保存活用大綱は、県内古代遺跡の分布において、大野川流域に多くの遺跡が残ることを指摘している。つまり王権側の視点から見ても、この流域は「征服すべき辺境」ではなく、既存秩序の厚い地域だった。そうである以上、景行天皇伝承にこの地域の平定譚を入れることは、軍事的勝利の記録というより、既存の首長圏を王権的秩序へ組み直した記憶の神話化と考える方が自然である。
この再編は、単なる交通掌握にとどまらない。北東部九州から宇佐にかけては、早い段階で鏡を核とする広域象徴秩序が成立していた可能性が高い。文化遺産オンラインと国立文化財機構によれば、宇佐の赤塚古墳は4世紀前半の九州でも最古級の古墳の一つで、箱式石棺から中国製三角縁神獣鏡5面が出土し、その同笵品は福岡県石塚山古墳や京都府椿井大塚山古墳などとも関係づけられている。これは、宇佐を含む北東部九州の首長層が、早くから畿内や豊前の首長圏と同じ象徴資源のネットワークに入っていたことを示唆する。大野川流域の掌握とは、こうした河川交通と首長秩序、さらには鏡をはじめとする象徴資源の回路をまとめて王権史へ回収することだったのではないか。
このように見ると、景行天皇伝承に九州征伐譚が入った理由はかなり明確になる。必要だったのは、景行天皇が実際に九州を征服したことを伝えることではなく、九州各地の交通回廊・在地首長圏・神宝秩序を、一つの王権的過去として再配置することであった。豊後ではとくに、大野川下流の海部首長圏、中流の犬飼に象徴される河川交通、上流・支流域へ広がる広大な流域ネットワークがその対象となった。景行天皇は、その複雑な再編記憶を「王が平定した」という簡潔な形へまとめるための器として使われたのである。したがって、景行天皇伝承の豊後平定とは、古代の一回的征伐の記録ではなく、大野川水系を軸とする地域秩序の長期的再編を、後代に王権神話として統合し直した表現と理解すべきであろう。
注
- 本稿で犬飼港を用いるのは、江戸時代の港の存在をそのまま古代へ遡及するためではない。大野川中流が実際に水運回廊として機能し得る地形・交通条件を備えていたことの傍証として位置づけるためである。
- 「大野」が「王の野」に由来するという語源説は魅力的ではあるが、今回確認した公的・学術的資料からは裏づけられないため、本稿では本文の主張には採用しない。これは今後の補助的仮説にとどめる。
- 大野川流域を邪馬壹国の有力圏とみる可能性も、広大な流域規模と遺跡分布、河川交通の観点からは着想しうる。しかし現段階では直接的な文献比定・考古学的一致が十分ではなく、本文では断定しなかった。
参考文献
- 國學院大學古典文化学事業「豊国直・国東臣関係氏族項目」
菟名手が景行紀に現れ、豊国直・国東臣系譜へ接続することの確認に用いた。 - 国土交通省九州地方整備局「第1章 大野川の概要」
大野川の流路延長、流域面積、支流構成、流域の広がりを確認した。 - 大分市「海部の里・亀塚古墳関係解説」
大野川下流域の海部首長圏と、大和政権との結びつきの説明に用いた。 - 豊後大野市観光資料・大分県資料「犬飼港跡」
犬飼港の成立、岡藩による整備、川船交通の要所としての機能を確認した。 - 大分県文化財保存活用大綱
大野川流域に古代遺跡が多く分布することの確認に用いた。 - 文化遺産オンライン・e国宝「赤塚古墳 三角縁神獣鏡」
赤塚古墳の年代、三角縁神獣鏡5面、石塚山古墳・椿井大塚山古墳との同笵関係の確認に用いた。


コメント