
宇佐津彦清智
――福原長者原官衙遺跡との一体構想をめぐる試論
御所ヶ谷神籠石を、単独の山城遺跡としてではなく、福原長者原官衙遺跡と対をなす施設として見るとき、その意味は大きく変わる。行橋市の資料では、御所ヶ谷神籠石は行橋市南西部の山系に築かれた神籠石系山城であり、7世紀後半の東アジア情勢に関連して築かれた山城とみられている。また、その北麓には大宰府と京都平野を結ぶ古代官道が通り、敵軍の侵攻を監視・妨害する位置にあったと説明される。つまりこの遺跡は、単なる避難所や象徴的施設ではなく、交通路と平野部を押さえる軍事的要衝として理解されている。
しかも御所ヶ谷神籠石の構造は、神籠石の中でも際立っている。文化遺産オンラインでは、とくに中門の石垣が高さ7.5メートル、長さ18メートルに及び、二段の石塁と水門を備える点で特筆すべき遺構とされる。行橋市の一般解説でも、神籠石系山城は列石・土塁・石塁・水門を備えた山城であり、戦後の発掘により「山城」説が有力になったと整理されている。つまり御所ヶ谷神籠石は、後世の一般的城郭とは異なるが、7世紀後半の非常時にのみ成立した特殊な防衛施設とみるのが自然である。
この御所ヶ谷神籠石を福原長者原官衙遺跡と重ねると、両者の関係はきわめて示唆的である。福原長者原官衙遺跡は行橋市の保存活用資料によれば、約150メートル四方の区画溝と回廊状遺構をめぐらせ、巨大な八脚門を備えた九州最大級の官衙政庁跡である。しかも、そのデザインには藤原宮との共通性が指摘され、一般的地方官衙を超える構想性が認められている。行橋市自身も、これを単なる地方役所の一つとしてではなく、きわめて高格の官衙として位置づけている。平地に置かれた巨大官衙と、背後の山上に築かれた大規模山城。この組み合わせは、大宰府と大野城の関係を想起させる。すなわち、福原長者原が前線統治・受け入れ・監督の拠点であり、御所ヶ谷神籠石はその最終防衛施設だった可能性が高い。
ここで問題となるのが、その築造主体である。通説は、7世紀後半の緊張の中で倭側が防衛のために山城群を築いたと説明する。しかし、神籠石系山城には『日本書紀』などの文献記録がなく、築造主体を直接示す同時代史料も確認されていない。行橋市の解説も、神籠石は文献記録がないため築造時期ははっきりしないが、構造が大野城・基肄城などの朝鮮式山城に似るため同時期と考えられている、と慎重に述べるにとどまる。言い換えれば、御所ヶ谷神籠石については、築造主体を「倭側」と断定する一次資料がないのである。
この点で、白村江敗戦後の北部九州をどう見るかが決定的になる。もし倭国が独力で防衛国家化したとみるなら、御所ヶ谷神籠石も倭側山城と見れば足りる。しかし、福原長者原官衙遺跡の異常な規模、郭務悰ら唐使節の継続来倭、そして『日本書紀』依存の後代的説明の多さを考えるなら、別の仮説が必要である。すなわち、白村江敗戦後の北部九州には、唐の強い軍事的・外交的圧力の下で形成された前線支配体制が存在し、福原長者原官衙遺跡はその平地拠点、御所ヶ谷神籠石はその最後の砦として構想されたのではないか、という仮説である。少なくとも、通常の地方行政施設と通常の国防山城の組み合わせだけでは、両者の規模と位置の関係を十分に説明しにくい。
この仮説を補強するのが、神籠石系山城の分布の特異性である。行橋市の解説では、神籠石系山城は現在北部九州に10か所、瀬戸内海沿いに6か所確認されている。二〇〇八年の行橋市資料でも、朝鮮式山城と神籠石系山城は北部九州を中心に瀬戸内沿岸から大和へ至るルートに点々と分布すると説明されている。これは、後代まで一般化した日本的城郭技術というより、7世紀後半の特定の地政学的危機にだけ対応した特殊な築城システムであったことを示唆する。神籠石築造技術が日本の一般技術として残らなかった、という直感は、分布の限定性から見ても十分説得力がある。
さらに注目すべきは、京築地域に新羅系・渡来系文化要素が濃く見えることである。行橋市の「激動の7世紀」資料では、京都郡の寺院址から新羅系の瓦が出土していることが示されている。これは直ちに「御所ヶ谷神籠石を新羅系秦氏が築いた」と証明するものではないが、少なくともこの地域が7世紀後半に朝鮮半島系文化・技術者集団と強く接触していたことの傍証にはなる。したがって、御所ヶ谷神籠石の築造にも、在地の渡来系集団、とりわけ秦氏系を含む施工集団が関与し、その背後に唐側または唐圧力下の設計・監督者がいたと考える余地は大きい。
ここで重要なのは、唐がすべてを直接築いたと単純化しないことである。より現実的なのは、唐の前線支配構想あるいは強い圧力の下で、倭側行政が人員・資材・労働を徴発し、外来系技術者や在地渡来系集団を使って築造した、という複合モデルである。福原長者原官衙遺跡についても同様で、平地の巨大官衙と山上の神籠石が一体として機能したなら、そこには平時の地方行政ではなく、非常時の軍政・外交・監督システムが想定されていたはずである。御所ヶ谷神籠石は、そのシステムの末端施設ではなく、むしろ最後の防衛線として構想されたと見る方が、立地・規模・時期のすべてにおいて自然である。
以上より、御所ヶ谷神籠石は、倭国の通常防衛施設というより、白村江敗戦後に北部九州へ成立した前線支配体制の中で、福原長者原官衙遺跡を背後に持つ最後の砦として築かれた可能性が高い。文献記録がないことは、むしろ『日本書紀』の国家叙述からこぼれ落ちた異質な築造主体を想定する余地を残す。福原長者原が唐軍前線基地、あるいは唐圧力下の前線監督拠点であったとすれば、御所ヶ谷神籠石はその最終防衛施設として再定位されるべきである。この仮説は、遺構の配置と規模をもっとも無理なく説明する。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
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注
- 本稿は、御所ヶ谷神籠石を唐軍が直接施工したと断定するものではない。唐側の設計・監督、または唐の強い圧力の下で、倭側行政と在地渡来系集団が築造を担った可能性を中心仮説とする。
- 「最後の砦」とは、平地の福原長者原官衙遺跡が機能不全に陥った場合に備えた山上防衛線という意味であり、単独決戦用の純軍事要塞と限定するものではない。
- 新羅系秦氏については、京築地域に新羅系瓦などの文化要素が見えることを根拠に可能性を示すにとどめ、現時点で築造主体として断定しない。
参考文献
行橋市「神籠石(こうごいし)とは」。神籠石系山城の分布、文献記録の欠如、7世紀後半説の整理。
行橋市『第2章 史跡福原長者原官衙遺跡の概要』。御所ヶ谷神籠石が古代官道を監視する位置にあること、7世紀後半の東アジア情勢との関連。
文化遺産オンライン「御所ヶ谷神籠石」。中門石垣・二段石塁・水門の規模と特質。
行橋市『シンポジウム 豊前国府誕生 福原長者原遺跡とその時代』。福原長者原官衙遺跡の150メートル四方区画、八脚門、巨大官衙としての位置づけ。
行橋市『未来に伝え、地域の魅力を発信する』。福原長者原官衙遺跡が九州最大級の官衙政庁であり、藤原宮と共通する国家的デザインを持つこと。
行橋市「激動の7世紀―御所ヶ谷神籠石とその時代」。神籠石系山城の広域分布と、京都郡寺院址に見える新羅系文化要素。


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