
宇佐津彦清智
――白村江敗戦後の対唐秩序と天武朝国家形成
壬申の乱は、一般には天智天皇の後継をめぐる皇位継承戦争として理解されている。しかし、白村江敗戦後の倭国が置かれた国際環境と、その後に天武朝で集中的に進む制度改革を重ねてみると、この理解だけでは不十分であるように思われる。むしろ壬申の乱は、敗戦後の倭国が唐との関係をどのように受け止め、どのような国家へ移行するかをめぐる政変として再検討されるべきではないか。本稿は、その可能性を問う試論である。
まず注目すべきは、白村江敗戦後の中大兄皇子、のちの天智天皇の処遇である。敗戦は663年であるが、中大兄皇子が近江大津宮へ遷るのは667年、即位は668年、そして崩御は671年であった。奈良県の解説でも、白村江敗戦後に近江大津宮へ遷り、668年に即位したこと、さらに670年に最初の全国的戸籍とされる庚午年籍が作られたことが確認できる。他方、高松市教育委員会の講演録は、天智政権が白村江敗戦後、百済の防衛システムを模した山城群の築造や防衛体制整備に動いた一方、その構想自体には限界があったと論じている。少なくとも、敗戦直後の中大兄皇子が、揺るぎない勝者の王として即座に即位したわけではないことは明らかである。
この遅れは、単なる「称制の継続」で片づけられるだろうか。そこに大きな疑問が残る。白村江敗戦後、唐は倭に対して継続的に使節を送り、外交的圧力を維持したと考えられている。中村修也の議論を要約した研究紹介では、郭務悰らの来倭が継続し、671年まで倭をめぐる強い外圧状況が続いたことが前提とされている。もしそうであるなら、敗戦後の中大兄皇子政権は、完全な自主国家として自由に行動できたというより、外圧の下で再編を迫られる不安定な敗戦処理政権だった可能性が高い。壬申の乱を考える際にも、この国際環境を無視することはできない。
この観点から見ると、壬申の乱は単なる親族間の権力闘争ではなく、白村江敗戦後の体制をどう処理するかをめぐる争いとして見えてくる。京都大学の古代法制史研究は、飛鳥浄御原令の形成について、唐令の積極的継受が壬申の乱後に行われたことを指摘し、その背景に白村江敗戦後の国際関係の変化を置いている。すなわち、敗戦によってそれまでの秩序が行き詰まり、壬申の乱後には、新しい統治原理を外来制度も参照しながら再構築せざるをえなかった、という理解である。ここで重要なのは、壬申の乱の後に起こった変化が、皇位継承の安定化だけにとどまらないことである。国家の形そのものが、ここで切り替わっている。
実際、天武朝には戸籍・法令・都城・史書編纂が集中的に進む。奈良県の解説では、天武天皇が『日本書紀』と『古事記』編纂を進め、飛鳥浄御原令の作成に着手し、庚午年籍の改訂にも関わったとされる。また京都大学の研究は、飛鳥浄御原令が壬申の乱後に唐・新羅の制度を参照しながら形成された可能性を示している。高松市教育委員会の講演録は、天智政権の限界ののち、天武政権が都城・官道網・地方行政制度など、より強靱な中央集権国家の建設へ転じたと論じている。つまり天武政権は、単に天智政権を引き継いだのではなく、敗戦後の不安定な倭国を、より徹底した唐風国家へと再構成した政権として理解できる。
ここで仮説として浮かぶのは、壬申の乱において争われたのが、単なる「誰が次の天皇になるか」ではなく、「敗戦後の外圧下でどのような国家路線を採るか」だったのではないか、ということである。言い換えれば、天武側は、唐との関係や唐風制度の受容を視野に入れつつ、新たな国家形成へ進む勢力であり、それに対する別の政治的立場との決戦が壬申の乱だった可能性がある。もちろん、現時点で確認できる史料から「天武側=親唐派」「天智系=独立派」と単純に二分することはできない。しかし、壬申の乱後にのみ、戸籍、法令、都城、史書編纂が一気に前進するという事実は、この戦いが通常の皇位継承戦争以上の意味を持っていたことを強く示唆する。
このとき、史書編纂の意味はとりわけ大きい。『日本書紀』と『古事記』は、単に過去を記録したのではなく、新たな国家の自己正当化装置として編まれた。敗戦後の不安定な倭国が、天武朝以降に「日本」という新たな国家像へ移行していく過程で、過去の王統は一つの連続した歴史として再配置される必要があった。天武朝に史書編纂が始動することは、この再配置が単なる文化事業ではなく、国家再建の中心課題だったことを意味する。壬申の乱の勝者である天武政権が、自らの支配を正当化するために、王統・制度・都城・戸籍を一体として整えたと考えるなら、この乱はまさに新国家成立のための政変だったことになる。
加えて、天智朝と天武朝の差も見逃せない。高松市教育委員会の講演録では、天智政権は百済の防衛システムを模した軍事施設の整備に傾斜したが、その構想には限界があり、壬申の乱後の天武政権はより包括的な中央集権国家形成へ舵を切ったとされる。この対比は重要である。もし天智朝が敗戦後の応急的・軍事的対応の色彩を強く持っていたとすれば、天武朝はそれを乗り越え、唐風の制度と都城秩序を取り込んだ新国家の建設を企てた政権だったと見なせる。壬申の乱は、その転換を可能にするための政治的決裂として位置づけ直されるべきであろう。
以上より、壬申の乱は単なる皇位継承戦争ではなく、白村江敗戦後の倭国が対唐秩序をどう受け入れ、どのような国家へ移行するかをめぐる政変だった可能性が高い。天武朝の下で、戸籍、律令、唐風都城、史書編纂が集中的に進む事実は、この見方とよく符合する。天武天皇は、旧来の倭国秩序をそのまま継承したのではなく、敗戦後の外圧を背景に、新たな国家体制を構築した支配者として理解されるべきではないか。壬申の乱は、そのための政治的断絶を作り出した戦いだったのである。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
関連テーマ
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注
- 本稿でいう「対唐秩序」とは、唐への従属を単純に意味するものではない。白村江敗戦後の外交・軍事的圧力、制度受容、国家再編を含む広い関係構造を指す。
- 「天武側=親唐派」「天智系=独立派」といった単純な二項対立を、現存史料から直接に証明することはできない。本稿は、壬申の乱後に集中する制度改革の事実から、政変の意味を再解釈する試論である。
- 庚午年籍を含む戸籍整備については、天智朝から天武朝への連続性もあるが、国家形成の本格的推進が天武朝に集中する点を重視した。
参考文献
奈良県「テーマと人物」。天武天皇の施策、『日本書紀』『古事記』編纂、飛鳥浄御原令などの概説。
奈良県「奈良の歴史散歩」。白村江敗戦後の近江遷都、668年即位、670年庚午年籍の説明。
京都大学学術情報リポジトリ「飛鳥浄御原律令に関する諸問題」。壬申の乱後の唐令継受と白村江後の国際関係を論じる。
高松市教育委員会講演録「古代山城築城と古代国家の形成」。白村江敗戦後の天智政権の防衛政策、その限界、天武政権の国家形成策を論じる。
国立歴史民俗博物館リポジトリ「七世紀後半における公民制の形成過程」。白村江敗戦後の戦時体制と戸籍・公民制形成を論じる。


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