【研究ノート19】天武以前に大和王朝は存在したのか

宇佐津彦清智

――後代に構成された統一王権像の再検討

天武以前の古代日本を語る際、しばしば前提とされるのが、畿内を本拠とする「大和王朝」が早くから全国を統合し、九州や吉備、東国を順次その支配下に収めていった、という図式である。だが、この図式は本当に自明なのだろうか。むしろ現存する史料と考古資料を丁寧に重ねると、天武以前に後世の律令国家のような完成した統一王権を想定すること自体が危うく見えてくる。本稿は、屯倉、継体朝と欽明朝の差異、白村江敗戦後の太宰府成立などを手がかりに、天武以前の「大和王朝」像がかなり後代的な構成物ではないかを考える試論である。 

まず押さえるべきは、6世紀の王権支配を、後の律令国家のような一面支配として理解することの不自然さである。仁藤敦史は、継体・安閑・宣化・欽明期の屯倉を「後期ミヤケ」と位置づけ、これを王権が地方へ介入し、支配秩序を再編する装置として捉えている。ここで見えるのは、全国が一様な制度で包まれた国家ではなく、王権が必要な要地に直轄拠点を設け、部民や在地勢力を通じて部分的に支配を伸ばす姿である。つまり天武以前の王権は、面として全国を覆う国家というより、飛地的な直轄地、同盟圏、在地首長圏が混在するモザイク状の政治秩序だった可能性が高い。 

この見方に立つと、継体朝と欽明朝の関係も変わって見える。『日本書紀』では両者は滑らかな皇統連続として描かれるが、広瀬和雄は、最近の研究史に「継体朝」「欽明朝」といった特定の時代単位を強く意識する動きがあることに触れ、継体・欽明期を未熟な政治体制から中央集権化へ向かう画期として捉えている。さらに義江明子は、王位の血縁継承が確立するのは継体〜欽明以降であるとし、仁藤敦史も、大后称号や血統秩序の整序に欽明朝段階での追称・再編の可能性を論じている。これは逆に言えば、継体朝から欽明朝への移行が、後世の書紀が描くほど自明な連続ではなく、かなり不安定で、後から整え直された接合部であったことを示す。 

この断絶の可能性は、地域支配の軸にも表れる。継体・安閑・宣化・欽明期の屯倉配置をみると、王権がどこにくさびを打ち込んだかが見えてくる。とくに豊国では、北部豊国と大分市側とで重心が異なるように見える。継体系は北部豊国・物部系基盤に近く、欽明系は大分市・海部・大野川水系へ軸足を移しているように読める。この差は、単なる地方行政の差異ではなく、そもそも依拠する地域基盤の違う王権が、『日本書紀』の中で一本化されている可能性を示唆する。王統の「連続」は、後代の叙述が作り上げた物語であり、実際には別系統王権の接合だったのではないか、という疑問がここから生じる。 

さらに決定的なのが、白村江敗戦後の太宰府成立である。九州国立博物館系資料によれば、大宰府政庁Ⅰ期は7世紀後半にさかのぼり、条坊的都市整備も平城京に先行して始まっていた。太宰府は奈良国家が完成してから置かれた地方官庁ではなく、むしろ白村江敗戦後の非常時に先行的に整備された前線都市である。もし天武以前に完成した大和王朝が存在していたなら、その国家が平時の地方統治機構として太宰府を整えた、と説明できるかもしれない。しかし実際には、太宰府は敗戦直後の緊張の中で、大野城・基肄城・水城と一体的に現れてくる。これは、統一王朝の地方官庁というより、再編途上の王権が外圧に押されて構築した非常拠点の性格を強く示す。 

しかも、この太宰府成立を「倭の自主防衛」とだけみると、郭務悰の継続来倭とぶつかる。中村修也は、白村江敗戦後の天智朝を「敗戦処理政府」と捉え、664年、665年、さらには671年まで続く郭務悰らの来倭を、唐の占領政策・監督政策の一環として読む可能性を示している。もし唐の都督級使節がこのように長期にわたり来倭していたなら、その最中に倭が自由に対唐防衛都市を築き、自主再軍備を進めていたとする通説はかなり苦しい。むしろ、太宰府や古代山城群は、唐圧力の下で倭側が人員・資材を動員しつつ整備した前線施設とみる方が、時代状況に整合する。そうであれば、天武以前の王権とは、すでに自立した「大和王朝」ではなく、外圧下で再編を強いられる脆弱なモザイク権力だったことになる。 

このように見てくると、天武以前に一貫した大和王朝があったという像は、かなり後代的である。天武・持統朝以降、飛鳥浄御原令の編成、戸籍の整備、都城計画、史書編纂が一挙に進み、そこではじめて単一国家像が現実の制度として固まっていく。京都大学の研究も、飛鳥浄御原令を白村江敗戦後の国際環境の中で、唐・新羅の制度を参照しつつ形成されたものとして論じている。つまり、後世の律令国家の形が成立するのは天武以後であり、それ以前にその完成像を投影するのは、結果を原因へさかのぼらせる議論にすぎない。 

したがって、天武以前について言えるのは、「大和王朝が存在しなかった」と絶対化することではなく、「後世が想定するような完成した大和王朝は存在しなかった」ということである。あったのは、畿内、北部九州、豊国、吉備などの強い地域勢力を含み込みながら、そのつど再編を繰り返す王権であり、その直轄地は各地に飛地的に点在していた。その不安定で多極的な政治秩序を、天武以後の国家編成と『日本書紀』の皇統叙述が、ひとつの連続王朝へと再構成したのである。 

最後に一言しておきたい。大和王朝を古代日本の前提として最初から置き、その内部で諸地域を従属的に位置づける学説は、長く学界の常識として流通してきた。しかしそれは、史料が語る不連続や外圧や地域差よりも、後世国家の完成像を先に信じてしまう偏りを含んでいる。天武以前の歴史を読むうえで必要なのは、「大和王朝」が当然に存在したと仮定することではなく、そのような統一王権像自体が、いつ、どのように作られたのかを問うことである。本稿は、その問いを太宰府と屯倉、継体朝と欽明朝の断絶を手がかりに、あらためて提起するものである。 

  1. 本稿でいう「大和王朝」は、近代以降の学説で前提化されやすい、畿内中心・単一・連続の統一王権像を指す。天武以前に何らかの王権が存在したこと自体を否定するものではない。  
  2. 「モザイク状支配」とは、各地に屯倉のような飛地的直轄地が点在し、その周囲に同盟圏・在地首長圏・未直轄地域が併存する構造を意味する。  
  3. 太宰府を「唐軍前線中枢」とみる理解は、唐軍がすべてを直接統治したと断定するものではなく、唐の監督と圧力の下で倭側が整備を担った前線軍政拠点という意味である。  

参考文献

仁藤敦史「古代王権と『後期ミヤケ』」。継体・安閑・宣化・欽明期の屯倉を王権の地方介入と再編装置として論じる基本文献。 

京都大学学術情報リポジトリ「飛鳥浄御原律令に関する諸問題」。白村江敗戦後の国際環境の中で律令形成を論じる。 

九州国立博物館「第1部 大宰府研究の歩み」「第2部 大宰府と古代山城の年代論」。太宰府政庁Ⅰ期の7世紀後半への遡上と、古代山城との一体性を示す。 

広瀬和雄「古墳時代像再構築のための考察」。継体朝・欽明朝を画期として捉える研究史を整理する。 

義江明子「古系譜にみる『オヤーコ』観と祖先祭祀」。継体〜欽明以降に王位の血縁継承が確立することを論じる。 

コメント

タイトルとURLをコピーしました