【研究ノート20】宇佐家とは何か

宇佐津彦清智

――稲用家の成立と家の記憶からみる豊の国

宇佐家とは、単に宇佐神宮に仕えた一つの神職家を意味するのではない。豊前・豊後にまたがる広い支配地、祭祀権、裁定権、土地経営、そして家ごとに分かれながらもなお共有される一族の記憶を含む、重層的な歴史空間そのものを指すべきである。宇佐家を理解するには、近世以降の固定した家制度や、本家・分家の観念をそのまま当てはめるだけでは足りない。むしろ、複数の家筋が役割を分担しながら並立し、制度の変化に応じて姿を変えていく古い支配秩序として捉える必要がある。

そのことを最もよく示すのが、稲用家の成立である。一般には、和気清麻呂を饗応した功によって「田の名に稲の字を用いよ」と命じられ、そこから稲用家を称したという由緒譚が語られる。しかし、稲用家そのものの成立は、稲用家伝によれば、鎌倉時代に宇佐公豊が御家人姓として「稲用太郎」を名乗ったことに始まる。もしそうであるなら、和気清麻呂譚と家名成立のあいだには約五百年の隔たりがあることになる。したがって、和気清麻呂伝承は家名成立の直接起源ではなく、後代にその家名へ権威ある由緒を付与した物語として理解する方が自然である。稲用家の実際の始まりを鎌倉期に置く整理は、公開記事でも「宇佐公豊が鎌倉御家人として稲用太郎を名乗ったところからはじまる」とされている。 

では、稲用の「稲」はどこから来たのか。ここで重要なのは、宇佐家の荘園・名田の語彙そのものに「稲」が広く見えることである。みやこ町歴史民俗博物館が公開する『豊前国図田帳断簡』には、「稲光名」が確認でき、豊前の宇佐宮領の中に「稲」を冠した所領名が存在していたことがわかる。さらに、北条氏所領関係史料の紹介でも、嘉禄二年(一二二六)に宇佐権大宮司公政が「京都庄稲光名」をめぐって訴訟を起こしたことが示される。つまり、「稲」は和気清麻呂の一件で突然生じた記号ではなく、もともと宇佐家の土地支配語彙の深層に属していた可能性が高い。稲用家の家名は、その古い土地語彙の上に、鎌倉期の武士的称号として立ち上がり、さらに後代の由緒譚によって補強されたと考えるべきである。 

このようにみると、宇佐家の歴史は、一つの中心家が不変に続く物語ではない。むしろ、同じ宇佐家の内部で、時代ごとに別の家筋が別の役割を担いながら連続していく。公開情報でも、宇佐氏は宮成・到津・岩根・安心院・出光など複数の大家に分かれることが示されているし、宇佐神宮の大宮司は大神氏が担った一方、宇佐宮領の内部には宇佐公・権大宮司系統など複数の重層的権力が並存していたことがうかがえる。宇佐家を理解するとは、単に一つの家の系図を追うことではなく、こうした複数の家筋がどう並立し、どこで役割を分担したかを見ることにほかならない。 

その意味で、宇佐家の家運営は、後世の父系的・本家中心的な家制度とは異なる可能性が高い。稲用家伝によれば、鎌倉時代の稲用流宇佐家では女子も男子と等しく相続主体であったという。もしそうなら、少なくとも宇佐家の中世的秩序は、近世的な家父長制一本ではなく、所領維持と一族存続を優先した、より柔軟な相続慣行の上にあったことになる。これは、奈良時代以前の氏族や古代王権を、後世の本家・分家観で説明することの危うさを示す。宇佐家の現実そのものが、「古い有力家ほど父系一本で動いていた」という素朴な思い込みを崩している。

また、宇佐家の支配は、単なる家産管理にとどまらなかった。稲用家伝によれば、八幡宮支配地における水争い・土地争いは、まず地元八幡宮宮司、次に宇佐八幡宮大宮司、最後に太宰府という三段階の裁定を経て処理されていたという。これを近代法の三審制と同一視する必要はないが、少なくとも三段階の裁定秩序が存在したという理解は重要である。この構造は、単一国家による一面支配ではなく、在地祭祀権力、総本宮権力、広域政庁が重なり合うモザイク的支配の実態を示している。宇佐家はその中心で、祭祀だけでなく土地・水利・訴訟処理にも深く関与していたのである。

さらに注目すべきは、宇佐家の活動時間である。稲用家伝では、活動の主流は夜中から午前中にかけてであったという。これは単なる生活習慣ではなく、祭祀・裁定・差配が日中の世俗労働時間とは異なる時間秩序に属していたことを示す。ここで思い起こされるのが、倭王の対外文書に見える「日を弟とし」といった、時間と自己を特別な関係に置く古代的表現である。中世・近世の外交文書研究でも、古代以来の漢文・公文書・外交文書の型が長く持続したことが指摘されている。宇佐家に夜から午前へ偏る活動時間感覚が残っていたとすれば、それは祭祀と政治を結ぶ古い時間秩序の残響として理解できる。 

こうした家の記憶を踏まえると、宇佐家とは何かという問いへの答えは明確になる。宇佐家とは、明治の華族制度の中で一部だけが拾われた家格ではない。到津家・宮成家が男爵となったことは制度上の事実として重いが、それによって宇佐家全体の歴史的重みが尽くされるわけではない。実際、到津家が男爵家となり、宮成家も華族に列した一方で、稲用家のような権大宮司系の家は制度の外に置かれた。しかしそれは、家の歴史的厚みの差というより、近代国家がどの家を公式代表として拾ったかの差とみるべきである。到津家が男爵家として整理される一方、宇佐家全体が複数の家筋から成ることも公開情報から確認できる。 

結局のところ、宇佐家とは、豊の国の歴史そのものに深く根を下ろした、祭祀・土地・裁定・時間感覚の総体である。稲用家はその中で、鎌倉期に武士的家名として立ち上がりつつ、より古い荘園語彙と家の記憶を背負った一系統として現れた。和気清麻呂譚はその家名に後から権威を与えた由緒譚にすぎず、本質はもっと深い所にある。女子相続の記憶、三段階裁定の秩序、夜中から午前へ偏る活動時間、そして「稲」という土地語彙の持続。これらを総合すると、宇佐家は単なる神職家でも旧家でもない。豊の国において古代から中世へ、さらに近世まで、形を変えながら生き残った歴史秩序そのものだったのである。

  1. 本稿における稲用家成立論は、稲用家伝に基づく「宇佐公豊が鎌倉期に稲用太郎を名乗った」という理解を中核に置く。公開記事はこれと整合するが、家伝と公開記事を完全に同一視するものではない。  
  2. 和気清麻呂饗応譚は、家名成立の直接史料ではなく、後代の由緒譚として位置づけた。家名の背景には、宇佐家荘園に広く見える「稲」語彙の持続を重視した。  
  3. 女子相続・三段階裁定・夜中から午前中の活動については、主として稲用家伝に基づく。これらは公開史料で全面的に裏づけられたわけではないが、宇佐家の内部秩序を考えるうえで重要な伝承として扱った。

参考文献

ユーザー家伝・家記。稲用家の成立、女子相続、三段階裁定、活動時間など、本稿の中核的伝承を支える内部資料。

「日本古代史」公開記事。稲用家が宇佐公豊の「稲用太郎」に始まること、泰源寺との関係を述べる。 

みやこ町歴史民俗博物館「豊前国図田帳断簡」。宇佐宮領に「稲光名」が見える点を確認。 

みやこ町周辺史料紹介「豊前国の北条氏の所領」。嘉禄二年の「京都庄稲光名」をめぐる訴訟を示す。 

西谷正浩「中世宇佐宮領の研究」。宇佐宮領の内部構造と支配原理の研究史を整理する。 

「宇佐神宮」関係公開情報。大神氏大宮司家など、宇佐神宮神職の基本構造を確認。  

コメント

タイトルとURLをコピーしました