【研究ノート39】推古はなぜ現れたのか
隋書倭国伝を読むとき、まず目につくのは、後世の通念ほどには推古が見えないという事実である。倭国の外交主体として前面に出てくるのは、あくまで「王」であり、日本書紀が描くような「推古天皇の国家外交」という構図は、そのままでは現れない。この齟齬は、単なる記載漏れとして処理すべきではない。むしろ、後に成立した日本書紀の歴史叙述そのものを問い直す入口とみるべきである。隋書は倭国の主体を「王」として把握しており、日本書紀のような推古中心の外交叙述とは構造を異にする。
本ノートは、日本書紀を史実復元の基準史料として用いない。日本書紀は720年に完成した国家的編纂史書であり、編纂の開始は天武朝にさかのぼると考えられている。また、その内容は多様な材料を取り込みつつ、中国正史や古典による潤色を受けており、とりわけ古い時代の記事は、そのまま史実の直写とはみなしがたい。したがって、日本書紀からのみ派生した人物像、宮都比定、事績配列は、まず疑われるべきものである。
この前提に立つなら、推古朝を最初から「天皇の時代」として受け取ることもできない。そもそも「天皇」号の成立については、かつて推古朝説が有力であったものの、現在では天武朝末期、制度的には飛鳥浄御原令の段階に位置づける見解が有力である。日本書紀に見える推古期の「天皇」表現も、8世紀編者の潤色を含む可能性が高い。ゆえに、推古を自明の「天皇」として出発点に置くのではなく、後代の国家理念によって再表現された存在として扱う必要がある。
本ノートの中心仮説は明快である。天武王権は、自らを正統な継承王朝に見せるため、過去を一系の天皇史へ再編集した。その結果、本来はより複雑であったはずの王権構造や外交主体は、歴代天皇を中軸とする滑らかな国家史へ組み替えられた。推古朝もまた、その再編集の中で重要な位置を与えられたと考えられる。すなわち、推古が先に歴史の中に確固として存在し、その事績が記録されたのではなく、天武王権の歴史構成の中で、推古という女性統治者像が政治的に見えるよう配置された可能性を考えるのである。天武朝は681年から律令と史書の編纂事業を進め、後継政権がそれを継承して完成させたとされる。
このとき重要なのは、推古の実在を先に断定したり否定したりすることではない。問うべきは、なぜ日本書紀が推古をこのように描かなければならなかったのか、という点である。なぜ隋書では「王」として見える外交主体が、日本書紀では「推古朝外交」として整理されるのか。なぜ日本書紀は、女性統治者の巻に重大外交や国家的転換を集中させるのか。こうした問いをたどるとき、推古は「見えない人物」ではなく、むしろ後代の王権編纂によって「見えるようにされた人物」として浮かび上がる。
本ノートは以上の立場から、第一に天武王権による一系天皇史の再編集という問題を確認し、第二に隋書倭国伝に見える外交主体を検討し、第三に日本書紀が推古朝をどのように再配置したかを考察する。目的は、推古朝の実態を日本書紀の枠内で復元することではない。むしろ、日本書紀が構成した推古像の政治的意味を解明することにある。