【研究ノート34】投馬国の政治形態
『魏志倭人伝』は、投馬国について「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸」と記し、邪馬壹国については「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」と記している。ここでまず注目すべきは、投馬国には王が書かれず、官と副官のみが記されることである。他方、邪馬壹国には「女王之所都」とあり、伊都国には「世有王」とある。つまり『倭人伝』は、必要な場面でははっきり「王」を書く史料であり、投馬国だけに王を記さないことには意味がある。
従来、投馬国論は地名比定に重点が置かれてきた。しかし、投馬国の核心は、単に「地図のどこに置くか」ではなく、いかなる政治形態を持つ大国だったのかにある。五万余戸という数字も、厳密な戸口調査ではなく、魏側が投馬国を倭の有力大国として把握したことを示す政治的規模表現とみるべきだろう。投馬国は、邪馬壹国に従属する小国ではなく、独自の官制を持ち、しかもその先に邪馬壹国へ至る大きな中間国家として位置づけられている。
本稿では、投馬国を大分川流域国家として捉える。だがその際の要点は、下郡や賀来といった一点の遺跡に押し込むことではない。大分川は、国土交通省資料によれば、幹川流路延長55km、流域面積650平方キロメートルを持ち、由布・竹田・大分へ連なる長い水系であり、芹川・賀来川・七瀬川などの支流を抱える。すなわち投馬国は、河口の港湾拠点だけでなく、中流の扼点、上流の高原・台地・支流域までを結ぶ複合的流域国家として考えるべきである。
この見方に立つと、投馬国は単独王が都城に座る王国ではなく、複数の拠点を役割分担的に束ねた国家として理解しやすい。しかもその先には、より大きな大野川流域国家としての邪馬壹国が控えていた。投馬国を正しく理解するには、まずこの流域国家としての構造を見なければならない。