
宇佐津彦清智
――大分川流域国家と邪馬壹国への威信行程
投馬国は『魏志倭人伝』に名が見えるにもかかわらず、邪馬壹国ほどは論じられてこなかった国である。しかし、その位置と性格を考えるとき、東九州の古代国家形成を理解するうえで極めて重要な存在として浮かび上がる。
本稿では、投馬国を大分川流域国家として捉え、その政治形態と邪馬壹国との関係を考える。
第一章 問題の所在――投馬国は「どこか」ではなく「どのような国か」
『魏志倭人伝』は、投馬国について「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸」と記し、邪馬壹国については「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」と記している。ここでまず注目すべきは、投馬国には王が書かれず、官と副官のみが記されることである。他方、邪馬壹国には「女王之所都」とあり、伊都国には「世有王」とある。つまり『倭人伝』は、必要な場面でははっきり「王」を書く史料であり、投馬国だけに王を記さないことには意味がある。
従来、投馬国論は地名比定に重点が置かれてきた。しかし、投馬国の核心は、単に「地図のどこに置くか」ではなく、いかなる政治形態を持つ大国だったのかにある。五万余戸という数字も、厳密な戸口調査ではなく、魏側が投馬国を倭の有力大国として把握したことを示す政治的規模表現とみるべきだろう。投馬国は、邪馬壹国に従属する小国ではなく、独自の官制を持ち、しかもその先に邪馬壹国へ至る大きな中間国家として位置づけられている。
本稿では、投馬国を大分川流域国家として捉える。だがその際の要点は、下郡や賀来といった一点の遺跡に押し込むことではない。大分川は、国土交通省資料によれば、幹川流路延長55km、流域面積650平方キロメートルを持ち、由布・竹田・大分へ連なる長い水系であり、芹川・賀来川・七瀬川などの支流を抱える。すなわち投馬国は、河口の港湾拠点だけでなく、中流の扼点、上流の高原・台地・支流域までを結ぶ複合的流域国家として考えるべきである。
この見方に立つと、投馬国は単独王が都城に座る王国ではなく、複数の拠点を役割分担的に束ねた国家として理解しやすい。しかもその先には、より大きな大野川流域国家としての邪馬壹国が控えていた。投馬国を正しく理解するには、まずこの流域国家としての構造を見なければならない。
第二章 大分川流域国家としての投馬国
大分川流域を投馬国とみる利点は、まずそれが単なる河口集落ではなく、河口・中流・上流が機能分担しながら一体の政治圏をなしうる水系である点にある。国土交通省資料によれば、大分川は流路延長55km、流域面積650km²を持ち、由布岳を水源として由布盆地を貫流し、芹川・賀来川・七瀬川などの支流を合わせて大分平野へ出て別府湾に注ぐ。しかも流域内市町村には大分市・由布市・竹田市・豊後大野市まで含まれ、単なる湾岸河川ではなく、東九州内陸へ深く食い込む長い流域系として把握されている。つまり大分川は、「港の背後に少し農地がある川」ではなく、海と内陸台地圏とを結びつける一本の国家骨格として読める。
ここで重要なのは、弥生後期の国家基盤を近世的な沖積平野の広がりで測らないことだ。大河下流の沖積低地は、当時そのまま全面的な可住・可耕空間ではなかった。むしろ流域国家の実体は、河口近くの自然堤防、中流の合流点微高地、上流の台地・段丘・支流沿い高原地帯が連鎖することによって成立したとみるべきである。大分川流域は、この条件をかなりよく満たしている。河口では外洋との接続を押さえ、中流では支流分岐を統制し、上流では人口と生産を抱え込む。国家とは単なる面積ではなく、異なる地形単位をどう結びつけるかによって成立するが、大分川はまさにその典型である。
下流域の強みは、まず基礎生産力と防御性が早くから重なっている点にある。大分市の歴史的環境資料では、弥生時代前期末から中期にかけて、下郡遺跡で貯蔵穴を多数伴う集落が発見され、下郡桑苗遺跡周辺の旧河道からは木製農耕具が多量に出土し、ブタ頭骨も確認されている。これは、下流が単なる港湾的出入口ではなく、農耕・貯蔵・家畜飼育を伴う厚い生活基盤を持っていたことを示す。しかも後期には下郡遺跡・雄城台遺跡・賀来中学校遺跡などの環濠集落が形成される。つまり下流域は、生産拠点であると同時に、緊張に備える防御空間でもあった。これは、投馬国を単なる海辺の交易国ではなく、戦時に耐える国家として考えるうえで非常に重要である。
さらに中流域では、国家構造の別の側面が現れる。賀来中学校遺跡は、大分川と賀来川の合流点近くという地形上の扼点に位置し、しかもそこにV字形溝をもつ環濠集落が築かれていた。ここで見るべきなのは、単に「合流点近くに遺跡がある」ということではない。扼点が、実際に防御を備えた拠点へ転化しているという事実である。合流点は、物資の集散、通行の監視、上流と下流の連絡統制に最適な場所である。投馬国を大分川流域国家とみるなら、賀来のような地点は、国家中枢そのものではないにせよ、国家の手足として最も重要な場所の一つである。海側から入る者も、内陸へ抜ける者も、ここを無視しては進めない。つまり中流域は、国家の「腹」ではなく、国家が内外を締める結節部だったのである。
上流域の意味は、さらに大きい。竹田市資料では、大分川源流域となる市北東部の久住町都野・直入地域、さらには芹川流域で、弥生時代中期から古墳時代にかけて多くの遺跡が確認される。都野原田遺跡では、大分平野沿岸のほか、北部九州や肥後の土器が出土しており、上流域が閉ざされた山地ではなく、広域交流の節点であったことが示されている。ここが意味するのは、上流が国家の「端」ではないということだ。上流は、むしろ別の流域圏・文化圏と接触し、そこから人・物・情報を引き込む背後連結地帯だった。流域国家にとって上流は、源流ではなく、国家の奥行きそのものなのである。
こうして見ると、大分川流域は三層に整理できる。
第一に、下郡に代表される河口の生産・港湾・政治基盤。
第二に、賀来に代表される中流の扼点統制拠点。
第三に、都野・直入・芹川流域に代表される上流の人口・生産・権威の後背地。
この三層が連結しているからこそ、大分川流域は単なる河川流域ではなく、国家としてのまとまりを獲得しえたのである。もし河口だけなら、それは大きな港にすぎない。もし上流だけなら、それは高原首長圏にとどまる。だが大分川流域では、港・扼点・上流拠点が一つの水系でつながることで、国家の輪郭が現れる。
この点で、大分川流域国家としての投馬国は、地理的にも政治的にもきわめて説得的である。『倭人伝』の五万余戸という数字をそのまま実数統計として受け取る必要はないが、少なくとも魏側が投馬国を一地方の有力村落ではなく、かなり大きな政治単位として見ていたことは確かである。その大国性を支えたのは、単一の都城ではなく、河口から上流までを役割分担的に束ねるこの流域構造であった。投馬国は、海へ開いた国であると同時に、内陸を深く抱えた国だったのであり、まさにその二重性によって大国たりえたのである。
第三章 投馬国に王はいなかった
本稿の中心仮説は、投馬国には王がいなかった、あるいは少なくとも『倭人伝』の認識するところでは、投馬国は王国としてではなく官国として見えていた、というものである。『倭人伝』は、伊都国については「世有王」と書き、邪馬壹国については「女王之所都」と明記する。つまりこの史料は、王が前面に立つ国については、それをはっきり「王」あるいは「女王」と書く。しかし投馬国については、「官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸」と記すだけで、王には触れない。これは偶然ではない。魏側の視点において、投馬国は人格王によって代表される国家というより、官職体系によって把握される国家として見えていたのである。
ここで注意すべきは、「王がいない」と言っても、それが直ちに「首長層が存在しない」ことを意味しない点である。むしろ考古学的には逆で、大分川流域のように下郡・賀来・雄城台のような有力拠点が分かれ、中上流にも都野・直入・芹川流域の遺跡群が連なる構造をもつ以上、そこには複数の有力層がいたと考える方が自然である。大分市の資料では弥生後期に下郡遺跡・雄城台遺跡・賀来中学校遺跡などの防御的集落が形成されたとされ、竹田市資料でも都野・直入・芹川流域に弥生〜古墳期の遺跡が連続的に分布する。こうした構造は、単一都城に王が座る国家というより、複数拠点を束ねる連合的国家の姿に近い。
したがって、投馬国に「王が見えない」ことは、国家形成が未熟だったことを示すのではなく、むしろ政治の表現形式が違っていたことを示すと考えるべきである。投馬国では、上流側に祭祀的・血統的な上位層、すなわち神聖首長や王族的存在がいたとしても、魏使が接触し、国家を認識する際に目にしたのは、その奥の神聖権威ではなく、下流・中流に配置された対外交渉と行政実務の機構だったのではないか。『倭人伝』の記述は、まさにその表面をなぞっている。魏が把握した投馬国は、王の宮殿ではなく、官の統治する大国だったのである。
この点で、「彌彌」という官名はきわめて興味深い。音としては明らかに「ミミ」に近く、日本古代に見える「耳」系の尊称や名乗りを想起させる。もちろん現段階で、投馬国官名の「彌彌」を、後世の「豊聡耳」などに直接つなぐ一次史料はない。だが、ここで大事なのは、彌彌が個人名ではなく官名として記されていることである。もしこれが単なる個人名であれば、魏側は伊都国や邪馬壹国のように、王や女王の存在として書いたはずである。だが実際には「官曰彌彌」とある。つまり「ミミ」は人格ではなく、制度に埋め込まれた権威として現れている。ここに現れるのは、個人王のカリスマではなく、役職それ自体に付与された統治権威である。
このように見ると、投馬国は、邪馬壹国のような女王を核とする祭政国家でも、伊都国のような世襲王の前面に立つ王国でもない。投馬国は、複数拠点を束ねる大国でありながら、その政治秩序の表面には王個人ではなく、官と副官から成る統治機構が現れている。言い換えれば、投馬国とは、人格王が国家を代表する段階を越えて、機構が国家を代表する段階に達した国だったのである。ここに、単独君主国家とは異なる投馬国の特質がある。
さらにこの点は、大分川流域という国家基盤とも深く結びついている。流域国家では、河口・中流・上流の各拠点がそれぞれ異なる役割を持つ。河口は外港と交易、中流は合流点の扼点管理、上流は人口・生産・祭祀的権威の後背地である。こうした三層構造を持つ国家では、単独王が一都城から一方的に命令するより、複数の有力層の間を取りまとめる機構が必要になる。投馬国で官と副官が前面に立つのは、そのためである。つまり投馬国における官制とは、単なる制度の存在ではなく、流域国家の分節構造を束ねるために不可欠な政治形式だったのである。
したがって、投馬国に王が「いなかった」とは、国家秩序の頂点に人格王が存在しなかったというよりも、その国家運営が個人王の名ではなく官職体系によって表現される段階にあったという意味に理解すべきである。そこには首長層も祭祀層もいただろう。だが国家の表面に現れるのは、あくまで「彌彌」「彌彌那利」という機構の名であった。投馬国とは、まさにその意味で、倭国世界の中でもきわめて特異な、王なき大国、あるいは官が国家を代表する大国だったのである。
第四章 長老政治・合議制としての投馬国
では、そのような官制的大国の内部構造は何であったか。最も近いのは、長老政治を基盤とした合議制である。ここでいう合議制とは、近代的な議会制を意味しない。そうではなく、流域内の有力首長層が相互承認によって国家秩序を維持し、その合意を実務的に執行する官職層が前面に立つ政治形態を指す。『倭人伝』全体が示す三世紀倭国の政治構造は、単純な専制王政ではない。倭国大乱ののちに卑弥呼が「共立」されたこと自体、上位権威が単独の武力征服や血統だけで成立したのではなく、広域的な首長層の承認によって成立したことを示唆する。邪馬壹国ですら、女王が一人で専断する国家というより、複数の官僚層を伴った連合政権的性格を持っていたと見るべきである。
投馬国は、それ以上にこの傾向が強かった可能性が高い。『倭人伝』が投馬国について記すのは、「官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸」であり、王には触れない。これは、投馬国の政治が王個人によって代表されるよりも、官職を通じて可視化された統治体制として把握されていたことを意味する。もし強い人格王が単独で支配していたなら、伊都国の「世有王」や邪馬壹国の「女王之所都」のように、まずその王格が記されたはずである。ところが実際には、彌彌と彌彌那利という正副の官名だけが現れる。ここには、投馬国の政治が個人支配より合意と執行の分離によって成り立っていた可能性が見える。
この点は、大分川流域国家という前提に立つとよく理解できる。大分川流域には、河口の下郡、合流点の賀来、中上流の都野・直入・芹川流域といった、地形的にも機能的にも異なる拠点が連なっている。下郡は河口近くの自然堤防上に広がる集落群として、農耕・貯蔵・港湾機能を担う基盤であり、賀来中学校遺跡は大分川と賀来川の合流点という扼点に立地する防御的拠点である。さらに上流側には、都野原田遺跡をはじめ、北部九州や肥後との交流を示す遺跡群が続いており、そこには独自の有力層がいたと考えるのが自然である。こうした複数の中心を持つ流域国家では、単独王が一都城から全域を一方的に統制するより、各拠点の有力者が共同で国家を支え、その調整役として官が立つ方が、はるかに現実的である。
ここで重要なのは、合議制だからといって国家性が弱いわけではないということである。むしろ逆に、投馬国のような流域国家では、合議制こそが国家を維持するために最も合理的な制度だった可能性がある。大分川流域には環濠集落が多く、下郡・雄城台・賀来中学校遺跡など、弥生後期には防御性を帯びた拠点が連なる。とくに賀来では、地形上の扼点がそのまま防御拠点へ転化しており、国家が単なる血縁共同体ではなく、軍事的緊張に即応できる統制力を持っていたことがうかがえる。環濠は、一般に防御・境界・共同体秩序の維持と結びつくが、投馬国の場合、それは単一集落の防衛ではなく、流域国家全体の秩序維持装置の一部として機能していたとみられる。したがって投馬国の合議制は、ゆるやかな部族連合や寄り合い政治ではなく、外敵と緊張にさらされた状況の中で成立した戦時型の実務国家だったのである。
また、この合議制は、単に首長たちが並列していたことを意味しない。正副官として記される彌彌・彌彌那利は、おそらく合議体の議長と副議長のようなものではなく、合意された方針を対外的に代表し、流域内で執行する機構であった。上流の祭祀的・血統的上位層がいたとしても、その役割は日常の行政や軍事指揮そのものではなく、体制に権威を与える背景にあったのだろう。つまり投馬国の内部構造は、上に祭祀的権威、横に首長層の合議、前面に官制的執行機構という三層構造をなしていた可能性が高い。ここに投馬国の特徴がある。邪馬壹国が女王を核とする祭政的統合国家であったとすれば、投馬国はその手前に位置する、より寡頭的・合議的な流域国家であった。
したがって、投馬国の政治形態は、単独王政でも姫彦二元制でもなく、まずは流域諸首長の合議を基盤とする長老政であり、その実務を彌彌・彌彌那利が担った、とみるのが妥当である。投馬国において国家を代表したのは人格王ではなく、合議によって支えられた官職秩序だったのであり、その点においてこの国は、倭国世界の中でもきわめて独特な発達段階にあったと考えられる。
第五章 別府湾南岸と投馬国の海側ネットワーク
投馬国の海側ネットワークが、なぜ国東半島ではなく大分川―別府湾南岸に主軸を置いたのか。その理由は、海だけでは国家にならず、海と内陸をつなぐ流域を握った方が強いからである。国家の海側ネットワークを考えるとき、単に「船が着ける」「外洋に面している」といった条件だけでは足りない。重要なのは、海から入ってきた人・物・威信財を、どこまで深く内陸へ通し、そこにいる人口・生産・首長層へ接続できるかである。その点で、大分川―別府湾南岸は、国東半島よりもはるかに国家的であった。
大分川流域は、下流で別府湾に開きつつ、中流・上流まで政治的に連結できる。国土交通省の河川資料でも、大分川は由布市・竹田市・大分市にまたがる流域を持ち、支川として賀来川・七瀬川などを抱える長い水系として整理される。つまり大分川は、港湾の背後にわずかな後背地を持つ小河川ではなく、海から入った流れがそのまま中流・上流の台地や盆地圏へつながっていく内陸貫通型の流域である。国家にとって重要なのは、海に面していることそのものより、海と内陸が一本の水系でつながっていることであり、大分川流域はその条件を満たしていた。
しかも、この構造は考古学的にも裏付けられる。上流の都野・直入地域や都野原田遺跡では、北部九州系土器や肥後系土器が出土し、上流域が孤立した山間地ではなく、広域交流の結節点であったことが示されている。下流の大分平野でも、弥生土器に東北部九州系が見られ、さらに北部九州製作圏の中広形銅矛や、遠賀川流域系の可能性がある石戈まで確認される。つまり大分川流域は、上流から下流まで一貫して、北部九州文化圏と東九州内陸とを結ぶ太い回廊として機能していたのである。ここでは海上交通は単独の現象ではなく、流域国家の内部にまで浸透するネットワークの一部だった。
ここで別府湾南岸の意味が決定的になる。別府湾沿岸は、単なる「海辺」ではない。大分県文化財保存活用大綱でも、大分県域は弥生時代を通じて北部九州および瀬戸内の影響下にあったと整理される。つまり別府湾は、北部九州から来る流れと、瀬戸内から来る流れとが交差する海域であり、その南岸は両者を受け止める海上交通の結節帯だった。さらに県の資料では、北部九州の須玖式土器に瀬戸内系凹線文が加わった丹塗り土器のような、両文化圏の混成を示す事例まで挙げられている。これは別府湾南岸が、単に外来文化を受け取るだけではなく、それを在地で再編し、内陸へ流し込む場であったことを示している。
言い換えれば、投馬国にとって別府湾南岸は「海の前面」ではなく、流域国家の外港圏であった。外港圏とは、海からもたらされる人・物・情報・威信財が、国家の中枢へ入ってくる入口である。大分川流域の場合、その入口は河口にとどまらず、賀来川・七瀬川を含む中流の分岐点を経て、さらに上流の台地・盆地世界にまでつながっていた。だからこそ別府湾南岸は、単なる寄港地の集まりではなく、国家の外部接点そのものとなりえたのである。
これに対し、国東半島は確かに海上交流の痕跡を持つ。たとえば車木遺跡では姫島産黒曜石が出土しており、海を介した広域流通があったことは確かである。しかし、国東半島の弥生終末〜古墳初頭を代表する安国寺集落遺跡では、土器はむしろ東九州を代表する在地土器群たる安国寺式土器として知られ、そこには大分川流域のような「北部九州系文化が上流まで太く刺さる」構造は見えにくい。つまり国東半島は、海上交通の前面基地にはなりえても、そこから一本の流域国家を背後に従えるような国家の背骨を持たない。海に面していることと、国家の中枢になれることとは別であり、国東半島は前者には優れても、後者では大分川流域に及ばないのである。
さらに言えば、国家にとっての海側ネットワークは、単に海から物資を受け取ることでは終わらない。受け取ったものを誰が管理し、どこで威信として再配分し、どのように上流の有力層に行き渡らせるかまで含めて初めて、国家の海側ネットワークと呼べる。大分川―別府湾南岸は、その点で極めて優れていた。河口には下郡のような政治・生産基盤があり、中流には賀来のような扼点拠点があり、上流には都野・直入・芹川流域の人口・生産・権威層がいた。つまり港湾・扼点・支流網・台地・上流有力層を、ひとつの水系秩序の中で束ねることができたのである。これこそが投馬国の強みであり、国東半島との差であった。
したがって、投馬国の中心が国東半島ではなく大分川―別府湾南岸にあったのは、海の便利さだけではない。そこが、北部九州・瀬戸内の両交通圏を受け止めつつ、それをそのまま内陸の人口・農耕・首長層へと接続できる、流域国家の海側中枢だったからである。投馬国の海側ネットワークは、「海辺に国があった」のではなく、海が流域国家の内部へ取り込まれていたところに、その本質があったのである。
第六章 水行二十日・水行十日・陸行一か月の再解釈
最大の論点は、行程記事である。草野津を不彌国の港湾拠点とし、そこから大分川流域投馬国へ至るのに「水行二十日」は長すぎる、という感覚はもっともである。実際、古代瀬戸内航海の研究では、古代の津の間隔はおおむね20〜35km程度でつながり、当時の船の1日の標準行程は約30km前後とされる。しかも人力推進のため長時間連続航海は難しく、夜間は陸や島の視認が難しいため、必要のない限り夜間航海は避けられ、寄港地では数日停泊して漕ぎ手を回復させることも想定される。したがって、草野津から国東半島経由で大分川河口に至る純航海日数は、慎重に見ても7〜10日程度が妥当であり、「水行二十日」をそのまま船足の問題とみるのは難しい。
しかし、ここで重要なのは、『倭人伝』の「日数」を純航海時間とだけ読まないことである。卑弥呼は景初三年の遣使ののち、魏から銅鏡百枚を含む下賜を受けたとされる。魏側にとってそれは、単なる贈答品ではなく、倭国の女王に対する冊封秩序の可視化であり、倭国側にとっては、女王権威を列島内部で再配分するための外交威信財であった。もし「水行二十日」が、こうした下賜品、あるいはそれに準ずる威信財を伴う行程を指すなら、その日数は単なる移動速度ではなく、威信が政治空間を貫いていく時間として理解しなければならない。
では、なぜそこまで誇示が必要だったのか。
第一に、中国皇帝からの下賜という事実そのものが、女王の正統性を支える政治資源だったからである。卑弥呼の権威は、単に倭国内の血統や武力から成立していたのではなく、倭国大乱後に「共立」された上位権威として成立した可能性が高い。そうである以上、外部世界、とりわけ魏皇帝から認証されたことを示す下賜品は、女王の超越的権威を示すうえで決定的意味を持つ。その威信財を受け取り、国内で可視化し、広域首長層に納得させることは、女王国秩序の維持そのものだった。したがって、下賜品は急いで運べばよいものではなく、見せながら運ぶ必要があったのである。
第二に、その誇示の相手は、単なる一般住民ではなく、沿岸・流域に点在する有力首長層であった。草野津から投馬国へ向かう過程で、船は周防灘・別府湾沿岸の港を刻んで進む。周防灘は気象庁も「干満の差の大きいところ」として注意喚起する海域であり、潮待ち・風待ちを要するのは自然である。だがその停泊は、単なる自然条件への受動的対応ではない。そこには、寄港先の有力者に対して「これは女王への賜物である」「魏の権威が海を渡ってここまで来ている」という事実を示す政治的演出が入りうる。言い換えれば、寄港地は単なる休息点ではなく、威信の中継点でもあったのである。
第三に、投馬国そのものが、そうした威信を一度引き受けて再配分する中間大国だった可能性が高い。『倭人伝』は投馬国を五万余戸の大国とし、官と副官まで記している。つまり投馬国は、女王国へ向かう途中の無色透明な通過地ではなく、それ自体が一個の有力政治体である。もしそうなら、魏の下賜品や外交威信財は、投馬国を素通りするのではなく、まずこの大国の中で顕示され、承認され、受領手続きがとられるはずである。投馬国の側にとっても、それは「自分たちが女王国秩序の外にいるのではなく、その重要な構成国である」ことを確認する機会となる。だから、草野津から投馬国までの「水行二十日」は、単なる長すぎる航海ではなく、威信財が中間大国に受け渡されるまでの儀礼時間として読むべきである。
同様に、投馬国から邪馬壹国への「水行十日・陸行一月」も、純移動ではなく、投馬国で受けた威信を、大野川流域邪馬壹国へ段階的に引き渡す外交行程とみれば納得しやすい。ここで重要なのは、投馬国と邪馬壹国の間に格差があったとしても、両者は無関係ではなく、むしろ緊密な接続の中にあったという点である。大分川から大野川へ、大野川中流の犬飼付近のような結節点を経て、さらに竹田方面の女王中枢へ向かう過程は、単なる荷物運搬ではない。途中の結節点ごとに、有力首長への先触れ、宿営、受け入れ準備、儀礼、再誇示が必要になる。とくに大野川は竹田盆地を貫流し、犬飼付近を含む中流峡谷部を経て大分平野へ出る長大な流域であり、その上流中枢へ入ること自体が、女王圏の奥深くへ入る政治的過程であった。
ここで「どれだけ誇示が必要か」をさらに言えば、必要なのは単なる一度の見せびらかしではない。
それは少なくとも三段階あったと考えられる。
第一に、沿岸諸港に対する到来の誇示。
第二に、投馬国という中間大国に対する受領と確認の誇示。
第三に、邪馬壹国へ向かう内陸行程における女王権威の最終顕示である。
つまり下賜品は、出発点から終着点まで同じ意味で運ばれるのではなく、通過する政治圏ごとに意味を変えながら、何度も演出される必要があった。沿岸部では「魏の権威が到来したこと」を示し、投馬国では「その威信を中間大国が承認したこと」を示し、邪馬壹国中枢では「女王がそれを受けることで上位権威を完成させること」を示す。こうした段階的な誇示を伴うなら、20日も10日も1か月も、単なる交通の遅さではなく、政治そのものに必要な時間だったと理解できる。
したがって、『倭人伝』の行程記事は、地図上の最短距離や速度計算で切るべきではない。とくに投馬国から邪馬壹国へ向かう区間は、威信財が海から内陸中枢へ運ばれる政治劇として理解すべきであり、その時間の長さ自体が、投馬国と邪馬壹国の格差、そして両者の接続の重さを物語っている。水行二十日・水行十日・陸行一月とは、船足や徒歩速度の数字ではなく、外交威信が首長層の承認を重ねながら国家秩序を貫いていく日数だったのである。
第七章 邪馬壹国との関係――並立・同盟・主従
投馬国と邪馬壹国の関係は、一言で固定するより、時期差を持つ三段階で捉える方がよい。第一段階は並立である。大分川流域の投馬国と、大野川中上流域の邪馬壹国は、いずれも東九州に成立した大きな流域国家であり、別府湾を共有しながらも、それぞれ独自の人口・支配構造を持っていた。邪馬壹国の中心核は、豊後大野市から竹田市にかけての大野川中上流域、とりわけ菅生台地を核とする巨大集落圏に求められる。他方、投馬国は大分川流域を基盤とし、下郡・賀来・都野・直入・芹川流域をつなぐ長い流域国家として理解できる。両者は近接しつつも別個の流域秩序を持ち、それぞれが独自の有力首長層と内部構造を備えていたと考えられる。竹田市資料でも、大野川水系と大分川水系は明確に区別され、集落や古墳群の展開も水系ごとに異なるまとまりを見せる。したがって、東九州には当初、単一の大王国が先に存在したのではなく、二つの大流域国家が並び立つ構造があったとみるべきである。
第二段階は同盟である。両国は単なる隣国ではなく、外圧と交易の中で相互依存を深めた可能性が高い。大分川流域には北部九州系土器や肥後系土器が上流まで入り、下流では北部九州製作圏の中広形銅矛や遠賀川流域系の可能性を持つ石戈まで確認される。他方、大野川流域でも広域交流を背景とした巨大集落圏が形成されており、両流域はいずれも北部九州系文化の流入を受けながら、別府湾を通じて同じ外洋世界につながっていた。つまり、投馬国は海側に開いた流域国家として外部世界への窓口を担い、邪馬壹国はより大きな内陸政治圏として後背地を支えたのである。このとき両国の関係は、上下ではなく機能分担的な協調として理解するのが自然である。投馬国は外洋から来る威信財や情報を受け、邪馬壹国はそれを上位秩序へ組み込む。こうした役割分担があったからこそ、東九州は単なる地域圏ではなく、倭国全体の中でも重い政治圏となりえた。
第三段階は主従である。『倭人伝』は投馬国を「五万余戸」とし、官と副官のみを記すのに対し、邪馬壹国については「女王之所都」とし、複数官職を列記して「七万余戸」とする。ここには、単なる規模差ではなく、政治的序列が明確に現れている。投馬国は大国であるが、女王都ではない。邪馬壹国は大国であるだけでなく、倭国秩序の頂点をなす女王国として記される。したがって最終段階では、投馬国は独自性を保ちながらも、邪馬壹国を頂点とする女王国秩序のもとに再編されたとみるべきである。ただし、この「従」は完全服属を意味しない。伊都国のように「世有王 皆統屬女王國」と明記される場合とは違い、投馬国は依然として大国として別建てで記され、官職体系も保持している。つまり投馬国は、女王国に吸収されて消えたのではなく、女王国秩序の中に位置づけられた有力構成国として残ったのである。
この三段階の変化をより具体的に言えば、並立とはそれぞれの流域国家が独自に成長した段階であり、同盟とは両者が別府湾と北部九州系交流を媒介として結びついた段階であり、主従とは外交威信財と女王権威の再配分を通じて、邪馬壹国が最上位秩序を獲得した段階である。とくに魏からの下賜品のような外交威信財が、投馬国を経由して邪馬壹国へ運ばれたと考えるなら、そこにはまさに同盟から主従へ移行する政治儀礼が読み取れる。投馬国はその過程で、自らの大国性を失わなかったが、最終的には邪馬壹国の上位性を承認する位置に立ったのであろう。
したがって、投馬国と邪馬壹国の関係は、固定的な敵対でも単純な従属でもない。むしろ、並立する二大流域国家が、同盟を経て、最終的に女王国秩序のもとで主従的に再編されたとみるべきである。この理解に立つと、投馬国の独自性も、邪馬壹国の上位性も、どちらも無理なく説明できる。東九州の古代国家形成とは、単一中心が周辺を呑み込む過程ではなく、複数の大流域国家が接続され、序列化されていく過程だったのである。
第八章 結論――投馬国は官制的流域国家である
以上を総合すると、投馬国とは、大分川流域を基盤とし、河口の下郡、中流の賀来、上流の都野・直入・芹川流域を結ぶ官制的流域国家であったと考えられる。ここで重要なのは、投馬国を一つの都城や単独遺跡に押し込めて理解しないことである。大分川は、下流で別府湾南岸に開きつつ、中流の合流点を経て、上流の台地・支流域へとつながる長い水系であり、その流域内には弥生後期の環濠集落、農耕・貯蔵の基盤、上流の広域交流拠点が重層的に分布する。すなわち投馬国とは、河口の港湾機能だけで成立した国ではなく、海と内陸、交通と軍事、人口と権威を一体として束ねた流域国家であった。
また、この国家の最大の特徴は、そこに王が前面に立たないことである。『魏志倭人伝』は伊都国には「世有王」、邪馬壹国には「女王之所都」と書く一方、投馬国については「官曰彌彌 副曰彌彌那利」とのみ記し、王には触れない。したがって、投馬国は王国として把握されたのではなく、官と副官を中心とする統治機構の国として把握されていたとみるべきである。これは、首長層や祭祀的上位層の不在を意味しない。むしろ上流側には、血統的・祭祀的な高位層が存在した可能性が高い。だが、魏使が目にした国家の表面には、その奥の神聖首長ではなく、実際に交渉し、統治を執行し、秩序を維持する官制部分が現れていたのである。
その内部構造は、単独王政ではなく、長老層・首長層の合議を基盤とした寡頭的統治として理解するのが最も自然である。大分川流域のように、河口の下郡、合流点の賀来、上流の都野・直入・芹川流域といった複数の有力拠点が連なる国家では、単独王が一都城から一方的に支配するよりも、各拠点の首長層が合意を形成し、その合意を彌彌・彌彌那利といった官職が対外的に代表し、内政的に執行する体制の方がはるかに合理的である。しかも投馬国は、環濠集落や扼点防御拠点を持つ以上、ゆるやかな部族連合ではない。そこには外敵や緊張に対応しうる、統率された合議体制があったと考えられる。
この国家は、別府湾南岸を外港圏として北部九州とつながり、同時に中上流の台地・支流域に人口と権威を抱えていた。国東半島のような海前面ではなく、大分川―別府湾南岸を主軸としたのは、海の便利さそのものよりも、海から入った威信・物資・情報を、そのまま内陸国家へと通しうる構造を持っていたからである。大分川流域には、上流で北部九州系・肥後系土器、下流で東北部九州系土器や北部九州製作圏の青銅器が確認され、海と内陸をつなぐ太い回廊が形成されていた。投馬国の海側ネットワークは、単なる沿岸交通ではなく、流域国家の外部接点そのものだったのである。
さらに、『倭人伝』の「水行二十日」「水行十日・陸行一月」も、こうした構造の中で再解釈すべきである。これらを純移動時間とみれば長すぎるが、もし中国皇帝の下賜品、あるいはそれに準ずる外交威信財を運ぶ行程であったなら、寄港・潮待ち・荷役・受領確認・沿岸有力者への誇示・中間大国での承認・上流女王国への最終引き渡しを含む外交儀礼の全体時間として理解できる。すなわち行程記事は、地図上の最短距離や速度計算で読むべきものではなく、威信が首長層の承認を重ねながら海上・内陸を移動する政治時間として読むべきなのである。
そして投馬国と邪馬壹国の関係もまた、単純な従属ではなく、並立・同盟・主従という三段階の変化の中で捉えるべきである。両者は当初、東九州に並び立つ二大流域国家であった。やがて外圧と交易の中で機能分担的な同盟を形成し、最終的には邪馬壹国が女王国秩序の頂点に立つことで、投馬国はその有力構成国として位置づけられた。だがその「従」は完全服属ではない。投馬国は最後まで、独自の官制と流域構造を保持したまま、邪馬壹国の下に再編された大国であった。
したがって、投馬国は単に邪馬壹国の手前にある大国ではない。
それは、王なき大国であり、合議の上に立つ官制国家であり、東九州の海と内陸を結ぶ流域国家であった。そしてその先に、より上位の女王国たる邪馬壹国があった。投馬国をこのように捉えたとき、『魏志倭人伝』の記述は、地名比定の難問から離れ、東九州における古代国家形成の具体像として立ち上がってくる。そこに見えるのは、一つの王都が周辺を支配する単純な世界ではなく、複数の流域国家が接続され、序列化され、やがて女王国秩序のもとに再編されていく、きわめて動的な古代東九州の国家形成過程なのである。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
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注
- 『魏志倭人伝』の投馬国・邪馬壹国・伊都国記事は、投馬国に王を記さず、官と副官のみを記す点で特徴的である。
- 大分川の幹川流路延長55km、流域面積650km²という河川条件は、流域国家論の前提として重要である。
- 大分市資料に見える下郡・雄城台・賀来中学校遺跡の環濠集落化は、投馬国の防御性を示す。
- 賀来中学校遺跡は大分川と賀来川の合流点近くに位置し、扼点の拠点化を示す。
- 都野原田遺跡・竹田市域資料は、大分川上流域が北部九州・肥後・大分平野と結ばれていたことを示す。
- 大分川流域の最古級前期古墳として都野原田遺跡の古墳が注目される。
- 古代瀬戸内航海研究を踏まえると、行程記事は純移動時間ではなく、停泊・儀礼・受け渡しを含む可能性が高い。
参考文献
- 『魏志倭人伝』原文・書き下し文・現代語訳。
- 国土交通省「大分川」。
- 国土交通省九州地方整備局「大分川水系河川整備基本方針」。
- 大分市『歴史的環境』。
- 『賀来中学校遺跡』発掘調査報告書。
- 『都野原田遺跡』発掘調査報告書。
- 竹田市『歴史的風致維持向上計画』関係資料。
- 田中章介「『魏志』の解釈と分析」。
- 環濠集落研究論文。


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