
宇佐津彦清智
――邪馬壹国へ至る線はどのように消されたか
序 問題の所在――邪馬壹国はどのように「消された」のか
邪馬壹国は、正面から否定されなくても歴史から消しうる。
そのためには、邪馬壹国そのものを抹消する必要はない。末盧国・伊都国・不彌国・投馬国と連なる道筋を見えなくし、そこへ至る地理と記憶の線を別の物語へ組み替えればよい。そうなれば、邪馬壹国は「存在しなかった国」ではなく、「どこにあるのか分からない謎の国」へ変わる。問題は、まさにこの変質が、いかなる叙述の力によって起きたのかという点にある。
本稿は、この問題を『日本書紀』の編纂原理と、景行天皇伝承・神功皇后伝承の働きから考える。『日本書紀』は720年に成立し、翌721年から講筵という朝廷行事の中で読まれた、日本最初の正史である。したがってそれは単なる古伝の集成ではなく、国家が自らの過去をどのように正本化したかを示す文書であった。そこでは、地域ごとに散在していた記憶や氏族伝承が、皇統中心の一つの歴史へ整理される。古事記序でも、太安万侶は帝紀・旧辞が「正実」に違い、虚偽が加えられているのを正すという原理を掲げているが、この原理は古事記だけでなく、日本書紀にも及ぶと見るべきである。
この観点から見ると、景行天皇伝承と神功皇后伝承は、偶然に大きく描かれた説話群ではなく、機能の異なる二つの装置として読める。景行天皇伝承は、旧勢力を土蜘蛛として討伐対象へ落とし込み、王権以前の地方秩序を「服わぬ者」の歴史へ変える装置である。他方、神功皇后伝承は、末盧国・伊都国・不彌国のような港湾圏・交通圏・聖地圏を、皇后ゆかりの新たな由緒地理へ組み替える装置である。前者が旧秩序の掃討を担い、後者が新秩序の地理的再配置を担ったと見ると、邪馬壹国へ至る線がなぜ読めなくなったのかが理解しやすくなる。
ここで強調したいのは、本稿が「日本書紀は全部虚構である」と言うものではないことだ。むしろ逆である。日本書紀は古い記憶を多く保存している。だからこそ、その保存の仕方と、上書きの仕方の両方を読む必要がある。地名、伝承、祭祀地、巡幸譚、討伐譚は、単に残骸ではない。そこには、古い政治地理がどのように王権史へ吸収され、何が消され、何が残されたかが刻まれている。本稿の目的は、その編纂操作の筋道を明らかにし、邪馬壹国へ至る線がどのように失われたのかを具体的に示すことにある。
第一章 記紀編纂の原理――「正実へ正す」とは何か
太安万侶の序に見える編纂原理は、きわめて重要である。古事記序では、諸家に伝わる帝紀と旧辞が「正実」に違い、多く虚偽を加えていることが憂えられ、これを削って実を定め、後世に伝えるという趣旨が語られる。ここで言う「正す」とは、単なる事実確認ではない。多元的で錯綜した伝承群に対して、国家が「これを正しい形とする」と決定し、一つの本文へ編み直すことを意味する。したがって、この時点で既に、記憶の保存と同時に、記憶の選別と再編が行われる余地が開かれている。
この原理は日本書紀にも当てはまる。むしろ日本書紀の方が、国家の正史として成立し、翌年から講筵の対象になった事実を考えれば、再編の制度性はさらに強い。古事記が皇統中心の物語的世界を整える書だとすれば、日本書紀は皇統中心の国家史を制度化する書である。そこでは、地理・年代・外交・征討・巡幸が、一つの連続史へ配置される。地域ごとの旧い政治記憶が、そのまま独立の重みを持つのではなく、すべて天皇中心の歴史時間へ組み込まれることになる。
このとき重要なのは、日本書紀の編纂が、必ずしも露骨な否定の形を取らないことである。編者は「これは偽りだから消す」とは書かない。そうではなく、複数の旧伝承を、皇統にとって意味のある順序と意味へ並べ替える。その結果、もともと別個の政治秩序を示していたはずの記憶が、皇統前史の断片としてしか読めなくなる。つまり、改ざんとは、虚構を丸ごと作ることだけではない。古い記憶を別の位置に置き直すこと、それ自体が改ざんなのである。
この編纂原理を念頭に置くと、景行天皇伝承や神功皇后伝承は、単なる人気説話ではなくなる。景行天皇伝承は、地方の旧勢力を服従しない異類として描き直すことで、皇統以前の政治主体性を奪う。神功皇后伝承は、港湾・交通・対外関係の地理を皇后ゆかりの秩序へ組み替えることで、古い地域国家の意味を塗り替える。どちらも、「偽を削り実を定める」という国家的正本化の原理の上で理解できる。太安万侶の序は、個々の改変箇所を告白しない。しかし、改変が可能になる理念を明確に示している点で、極めて大きな意味を持つ。
したがって、記紀を読む際に必要なのは、表面の神話や説話をそのまま信じることでも、逆にすべてを虚構として捨てることでもない。必要なのは、何が保存され、何が皇統中心に並べ替えられ、何が読めなくされたかを見分けることである。日本書紀を史料として使うとは、まさにその再編の力を読み取ることにほかならない。
第二章 景行天皇伝承――旧勢力の掃討と土蜘蛛化
景行天皇伝承の最大の役割は、旧勢力の掃討と、その勢力の他者化にある。豊後国風土記および景行紀には、速見や直入など東九州の具体地名に結びつけられた土蜘蛛討伐記事が見える。そこでは土蜘蛛は、単なる怪物ではなく、王命に従わず、兵を動かして抵抗する在地勢力として描かれている。研究史でも、土蜘蛛は中央王権に服属しない地方首長層の蔑称・表象として理解されてきた。したがって景行天皇伝承とは、東九州に存在した旧い政治主体を、「王権に服わぬ異類」として描き替える叙述なのである。
しかも、その討伐対象地の並び方は偶然ではない。景行紀では、天皇はまず豊前の長峡県に入り、そこから東九州の内陸秩序へ踏み込んでいく。この長峡県を入口として考えると、その先には田川の伊都国があったとみるべきである。すなわち王権は、九州北東部の入口から、まず田川の伊都国圏へ圧力をかけ、そののち豊後へ進んだのである。ここで重要なのは、景行天皇伝承が単に「巡幸」しているのではなく、旧来の国家配置を一つずつ制圧していく筋を持っている点である。
豊後に入ると、まず速見郡で土蜘蛛「青」「白」が語られる。速見は別府湾東岸の要衝であり、海から内陸へ入る東九州北部の重要な関門である。ここを押さえることは、単なる沿岸支配ではなく、別府湾を通じて大分川流域へ入る入口を制することを意味する。続いて景行天皇は、来田見を経て直入県の祢疑野へ進み、土蜘蛛「打猨」「八田」「国摩侶」を討つ。彼らは明確に「皇命に従わず、兵を起こして拒む」と描かれており、ここで語られているのは妖怪譚ではなく、現実の在地勢力の軍事的抵抗である。
この順路をこれまでの研究ノートの比定に重ねれば、その意味はきわめて明瞭になる。
長峡県の先には田川の伊都国があり、そこを突破したのち、王権は速見郡へ進む。速見郡からは、別府湾南岸を経て大分川流域の投馬国へ入り込み、さらにその上流を遡って直入に達する。そしてその先には、豊後大野市から竹田市にかけての大野川水系=邪馬壹国が控えている。すなわち景行天皇伝承は、ばらばらの地方説話ではなく、田川の伊都国から投馬国、さらに邪馬壹国へと連なる旧国家群を、王権が掃討していく物語として読めるのである。
ここで決定的に重要なのは、景行天皇伝承がこの掃討を「国家征服」としてではなく、「土蜘蛛退治」として語ることである。もしそこに伊都国・投馬国・邪馬壹国のような独自の政治秩序があったことを正面から認めれば、王権以前の九州に強固な並立国家群が存在したことを認めることになる。だが、それを「土蜘蛛」と呼べば、彼らはもはや対等な政治主体ではない。王権が平定すべき辺境の異類であり、征討の対象にすぎなくなる。つまり景行天皇伝承とは、旧国家群を滅ぼすだけでなく、その歴史的主体性そのものを剝奪する装置だったのである。
したがって景行天皇伝承の意図は明快である。豊前の長峡県から田川の伊都国へ入り、そこから速見郡を押さえ、大分川流域の投馬国を遡上し、その奥にある大野川水系の邪馬壹国へ通じる旧勢力圏を、「皇統に服さぬ土蜘蛛の土地」として再記述することにあった。景行天皇が壊したのは、単なる地名ではない。伊都国・投馬国・邪馬壹国という旧来の王権の現実性そのものであった。こうして東九州の旧国家群は、王権に並び立つ政治主体ではなく、王権に討たれた辺境勢力として後代に記憶されることになったのである。
第三章 神功皇后伝承――新しい末盧国・伊都国・不彌国の創造
景行天皇伝承が旧勢力を下位化する装置だとすれば、神功皇后伝承は、その後に新しい地理と由緒を配置する装置である。神功皇后は、単に一人の皇后として語られるのではない。対外遠征、出産、鎮懐石、港湾、祭祀地など、北部九州の重要地点に新しい意味を付与する中心軸として描かれる。研究でも、神功皇后伝承は後代の対新羅観や朝貢秩序観を支えるために膨張した叙述とみられている。したがって、ここで問題なのは史実の有無ではなく、何が神功皇后の物語へ吸収され、どのような新しい秩序へ置き換えられたかである。
この伝承の特徴は、古い地理を消し去るのではなく、その地理の上に別の意味を被せる点にある。景行天皇伝承が、旧勢力を土蜘蛛として討伐対象へ下げることで、古い政治秩序の現実性を奪ったのに対し、神功皇后伝承は、その空白に対して新しい王権的意味づけを与える。しかもその意味づけは、単なる説話の装飾ではない。港湾、通路、祭祀地、出産聖地、対外関係といった、古代国家形成において本来きわめて重要だった要素に集中している。つまり神功皇后伝承は、古い政治地理そのものを、皇統中心の由緒地理へと作り替える働きを持っていたのである。
伊都国はその典型である。『魏志倭人伝』において伊都国は、「世有王」でありながら「皆統屬女王國」とされる、きわめて特異な国であった。すなわち伊都国は、独自の王を持ちながら、女王国秩序の中で重要な機能を担う政治拠点として描かれている。ところが後代になると、伊都国の理解には神功・仲哀系の説話が重くかぶさる。怡土郡の解説に見える五十迹手説話では、仲哀天皇を迎えた伊覩県主の祖が土地の名の由来に結び付けられ、地名理解そのものが王権物語の中へ再配置される。さらに鎮懐石の伝承は、この地域を女王国への道筋の一部としてではなく、神功皇后の聖地として読み直す働きを持つ。つまり伊都国は、独自の政治的位置を持つ国から、神功皇后に奉仕する由緒の地へ変えられたのである。
不彌国についても同じことが言える。不彌国を宇美に比定する伝統は古くからあるが、後世の宇美という地名理解は、神功皇后の「産み」の伝承と強く結びついている。ここでは、不彌国の古い港湾・交通・政治圏としての意味よりも、応神出産という王権的神話の意味づけが優先される。仮に不彌国の古層が宇美に残っていたとしても、その上に「産み」の聖地という強い後代的意味が被さった時点で、不彌国はもはやそのままでは読めない。これは単純な音変化ではなく、地名理解そのものの再編である。不彌国は消されたのではない。宇美という王権神話の地の中へ吸収され、古い政治地理としての輪郭を失ったのである。
末盧国も同様である。末盧をそのまま後世の松浦へ機械的に重ねることは危うい。むしろ考えるべきは、後世に「松浦」という歴史地名が王権的由緒や広域伝承の中で定着した結果、末盧の原初的意味が見えにくくなった可能性である。神功皇后伝承が濃く流れ込む地域では、古い港湾圏の記憶そのものは消えない。だが、その読み方は、皇后の行跡と対外交通の聖化によって塗り替えられる。つまり末盧国もまた、港湾国家の古層を保存しつつ、その意味だけを王権中心へとずらされたのである。ここでは「消去」よりも、王権的意味による再占有という表現の方がふさわしい。
このように見ると、神功皇后伝承の働きは明確になる。それは、古い地理を消すことではない。むしろ古い地理を利用し、その上に王権に都合のよい由緒と意味を上書きすることにある。景行天皇が旧勢力を討伐対象へ落とし込み、その現実性を奪った後、神功皇后はその地理を王権の聖地・由緒地・外交地理へと再編する。言い換えれば、景行天皇が旧秩序の破壊を担い、神功皇后が新秩序の地理的創造を担ったのである。ここに、「新しい末盧国・伊都国・不彌国の創造」という視点の意味がある。神功皇后伝承とは、まさに北部九州の古い港湾国家の記憶を、皇統中心の新しい地理へと作り替えるための装置だったのである。
第四章 道筋の喪失――末盧国・伊都国・不彌国・投馬国
邪馬壹国は単独では位置を持たない。『魏志倭人伝』における邪馬壹国は、末盧国、伊都国、不彌国、投馬国を経て初めて、歴史地理の中に姿を現す。したがって、邪馬壹国を見えなくする最も有効な方法は、邪馬壹国そのものを正面から否定することではなく、その手前にある国々の位置と意味をずらすことにある。本稿の立場では、末盧国は宗像、伊都国は香春、不彌国は草野津に比定される。すなわち邪馬壹国へ至る線とは、玄界灘側の末盧国=宗像から、内陸交通の結節点たる伊都国=香春へ移り、さらに港湾国家としての不彌国=草野津を経て、投馬国・邪馬壹国へ至る線であった。ゆえに、この途中の一点でも意味が読み替えられれば、最終目的地である邪馬壹国はたちまち霧の中へ退くのである。
まず末盧国である。末盧国は一般に松浦地方へ比定されることが多いが、本稿ではこれを宗像圏として捉える。宗像は古代において海上交通・祭祀・対外交渉の要衝であり、倭人伝の最初の上陸・接続空間として理解する方が自然である。ところが後代になると、この海上交通圏の古い意味は、「松浦」という歴史地名の中へ吸収され、末盧国そのものの原初的な位置は見えにくくなった。ここで失われたのは地名そのものではなく、宗像という海上入口としての政治的意味である。
次に伊都国である。本稿では伊都国を香春に比定する。香春は北部九州から東九州内陸へ抜ける交通結節点であり、単なる糸島の平野国家ではなく、むしろ九州北東部の交通秩序を握る地点として理解されるべき場所である。『倭人伝』が伊都国を「世有王」としながら女王国秩序の中に置くのも、このような交通上・政治上の中継性を考えれば納得しやすい。ところが後代の王権史の中では、この伊都国の意味は神功皇后伝承によって塗り替えられ、伊都郡の地名起源や聖地理解は王権物語の中へ回収される。こうして本来香春に求められるべき伊都国の交通国家としての輪郭は失われ、かわって王権に奉仕する由緒地理だけが前面に出ることになった。
さらに不彌国である。本稿では不彌国を草野津に比定する。草野津は弥生末期の九州最大級の港湾都市圏として理解でき、海上交通と内陸流通を結びつける決定的な拠点であった。この不彌国=草野津の理解は、投馬国や邪馬壹国へ向かううえで不可欠である。なぜなら、邪馬壹国へ至る行程の中で、不彌国は単なる通過点ではなく、海から内陸国家圏へ入る最後の大港だからである。ところが後代の伝承では、不彌国は宇美のような神功皇后の出産伝承と結びつけられ、港湾国家としての意味よりも、王権神話の地名理解の方が優位に立つ。ここでも消されたのは不彌国そのものではなく、草野津という巨大港湾国家としての実体であった。
そして投馬国が決定的に重要になる。投馬国は五万余戸の大国でありながら、王ではなく官と副官によって記される国であった。本稿ではこれを大分川流域国家として理解するが、末盧国=宗像、伊都国=香春、不彌国=草野津という線が生きていて初めて、投馬国はその位置を持つ。逆に言えば、この前段の三国が後代地理の中でずらされた時点で、投馬国は位置を失い、その先の邪馬壹国はさらに抽象化する。したがって、邪馬壹国の喪失とは、末盧国・伊都国・不彌国・投馬国という連鎖の崩壊として理解すべきなのである。
この意味で、景行天皇伝承や神功皇后伝承は、邪馬壹国を直接否定したのではない。より巧妙な方法で、そこへ至る線を壊したのである。末盧国=宗像という海の入口を見えなくし、伊都国=香春という内陸交通結節点の意味をずらし、不彌国=草野津という巨大港湾国家の実体を神話的地名理解へ吸収する。そうなれば、投馬国も邪馬壹国も歴史地理の中で位置を失う。だから邪馬壹国は「なかった国」になったのではない。末盧国から伊都国、不彌国、投馬国を経て至る線が失われたために、位置を決められない国になったのである。ここに、王権史の改変がもたらした最大の結果があった。
第五章 なぜ改ざんが必要だったのか
では、なぜそのような改ざんが必要だったのか。
意図は、おそらく三つに整理できる。第一に、皇統の連続史を作るためである。第二に、対外秩序を王権のものとして描き直すためである。第三に、古い地域秩序を読めなくするためである。これらは別々の目的ではなく、互いに結びついた一つの国家的要請だったとみるべきである。『古事記』序が、帝紀と旧辞の錯綜を「正実」へ正すという編纂原理を掲げる以上、国家が求めたのは単なる保存ではなく、正しい形に整えられた過去だった。『日本書紀』は、その原理をさらに制度的に拡張し、皇統中心の連続史を国家の正史として定着させた。
第一の目的、すなわち皇統の連続史の創出は、最も根本的である。もし卑弥呼的な女王権威や、東九州に並び立つ複数の大流域国家が、そのまま古代日本の前景に残るならば、皇統以前にすでに強い政治世界が成立していたことになる。しかもそれは、単なる地方政権ではなく、対外使節を送り、広域秩序を形成しうるレベルのものである。そうした記憶をそのまま残せば、天皇家の歴史は唯一の中心線ではなく、多元的政治世界の後発的な統合者として見えてしまう。これは、八世紀国家が自らを「正統な連続」の中心として描くうえで都合が悪い。だからこそ、旧勢力の主体性は奪われねばならなかった。景行天皇伝承が旧勢力を土蜘蛛化し、神功皇后伝承が港湾・交通・祭祀地の記憶を王権由緒へ編み替えるのは、まさにこのためである。そこでは、皇統以前の政治世界は消されるのではなく、皇統前史の材料へ解体されるのである。
第二の目的は、対外秩序の王権的独占である。神功皇后伝承が後代の対新羅観や朝鮮半島秩序観を支える物語として膨張したことは、研究でも広く指摘されている。重要なのは、ここで描かれる対外関係が、地域国家の外交ではなく、最初から王権の力として語られていることだ。本来、伊都国や不彌国のような港湾・交通の要地は、女王国秩序やその周辺国家の対外接点として機能していた可能性が高い。ところが神功皇后伝承の中では、対外交通は皇后の物語の一部へ吸収され、外交威信は皇統の権威として再配分される。こうして、港湾・外交・威信財の記憶は、地域国家に属するものではなく、初めから王権が握っていたものとして再解釈される。これは単なる誇張ではない。外交を誰の歴史として語るかという、国家史の根幹に関わる再配置である。
第三の目的は、古い地域秩序を読めなくすることである。ここで注意すべきは、改ざんが必ずしも正面からの否定を必要としない点だ。邪馬壹国という名を消さなくても、その手前にある末盧国・伊都国・不彌国・投馬国の意味をずらせば、邪馬壹国は位置を失う。景行天皇伝承は、旧勢力を討伐対象へ落とし込むことで、その政治的現実性を奪った。神功皇后伝承は、同じ地理に新しい王権由緒を与えることで、古い政治的意味を上書きした。前者は破壊、後者は再配置である。この二段構えによって起きるのは、古い秩序の全面否定ではなく、別の秩序だけが自然に見える状態の創出である。改ざんの目的は、虚偽を丸ごと作ることではなく、他の可能な歴史像を見えなくし、皇統中心史だけを唯一の現実として定着させることにあった。
このように考えると、景行天皇伝承と神功皇后伝承は、単なる説話の肥大化ではない。前者は旧勢力圏を他者化し、後者は新しい王権地理を創造することで、八世紀国家が必要とした単線的な過去を作り出した。そこでは、東九州の旧国家群も、北部九州の港湾国家も、それ自体としては残らない。残るのは、それらを征服し、統合し、由緒づけた皇統の歴史だけである。だから改ざんとは、事実の捏造ではなく、過去の配置換えであった。そしてその配置換えの果てに、邪馬壹国へ至る線は失われ、古代日本の多元的政治世界は、皇統を唯一の中心とする過去へと整理されてしまったのである。
結論 邪馬壹国を消すとは何を意味したのか
以上を総合すれば、景行天皇伝承と神功皇后伝承は、役割の異なる二つの編纂装置として読むことができる。景行天皇伝承は、東九州の旧勢力圏を土蜘蛛として掃討し、王権以前の地域秩序を他者化した。神功皇后伝承は、末盧国・伊都国・不彌国のような港湾圏・交通圏・聖地圏を、新たな王権由緒の地理として再配置した。前者が旧秩序の破壊、後者が新秩序の創造を担ったのである。
この二段構えによって起こったのは、邪馬壹国そのものの否定ではない。
起こったのは、邪馬壹国へ至る線の喪失である。末盧国・伊都国・不彌国・投馬国の意味がずれた時点で、邪馬壹国は歴史地理の中で位置を失う。したがって、邪馬壹国を消すとは、邪馬壹国という名を抹消することではなく、そこへ至る歴史空間を壊すことであった。
この理解に立つと、『日本書紀』は単なる保存の書ではなく、強力な再編の書として立ち上がる。そこに記された神話、巡幸、征討、由緒は、古い記憶の断片であると同時に、皇統中心の連続史へ再配置された結果でもある。邪馬壹国問題とは、単に場所の問題ではない。古代日本において、どの政治秩序が正統な過去として残され、どの秩序が見えなくされたかという、編纂そのものの問題なのである。
しかも、この混乱は近代の思いつきではない。近世の新井白石はすでに『日本書紀』の紀年や叙述に強い不信を抱き、本居宣長もまた、日本書紀をそのまま古い真実の書とはみなさず、より古意を見るために古事記を重んじた。つまり、日本書紀をどこまで信じてよいか、その叙述の背後にどのような整序と再編があるのかという問題は、すでに近世の学問において意識されていたのである。
にもかかわらず、今日なお邪馬壹国は「謎の国」として扱われ続ける。
それは、邪馬壹国そのものが消えたからではない。
邪馬壹国へ至る線が、長い編纂と上書きの中で見えなくなったからである。
景行天皇が旧秩序を掃討し、神功皇后が新しい地理を創造し、日本書紀がそれを正統史として定着させたとき、東九州と北部九州にまたがる古い政治世界は、皇統中心史の中に吸収された。
邪馬壹国を復元するとは、失われた一つの地名を探すことではない。
壊された道筋を、もう一度歴史の中に引き直すことなのである。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
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注
- 『日本書紀』は720年成立の国家正史であり、翌721年から講筵が行われた。国家的正本化の装置として理解する必要がある。
- 古事記序に見える「帝紀・旧辞を正実へ正す」という原理は、古代国家が多元的伝承を一つの本文へ整理する意志を示す。
- 豊後の土蜘蛛記事は、速見・直入など具体地名と結びついており、在地勢力の他者化として理解しうる。
- 伊都国・宇美・神功皇后伝承の重なりは、地名・由緒・聖地理解の再編を示す。
- 行程記事は純移動時間ではなく、威信財が政治空間を通過する時間として読むべき可能性がある。
参考文献
- 太安万侶『古事記』序関連研究。
- 國學院大學「学際的に読みたい『第一の古典』日本書紀」。
- 亀山市歴史博物館「日本書紀の編さんと解釈」。
- 大参理恵子「豊後国風土記にみる土蜘蛛について」。
- 佐伯真一ほか「景行巡幸伝承にみる『豊後国風土記』撰者の試み」。
- 長洋一「豊国の土蜘蛛」。
- 伊都郡・宇美関係解説。

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