【研究ノート26】邪馬壹国の場所

菟狭津彦清智

――狗奴国との紛争を通して

本稿の目的は、諸説の整理ではない。『魏志倭人伝』に見える狗奴国との紛争を手がかりに、最も矛盾の少ない邪馬壹国の位置を示すことにある。したがって本稿では、一般論や定説の紹介は最小限にとどめる。問題は、何が広く言われているかではなく、どの配置なら史料・地形・抗争の継続性を最も無理なく説明できるかである。

『魏志倭人伝』の記事配列を見ると、卑弥呼の時代にすでに狗奴国との不和と交戦があり、その後に卑弥呼の死、男王擁立、国内混乱、壱与擁立へと続く。ここで重要なのは、卑弥呼の死後に女王国側が大きく揺らいだにもかかわらず、関係全体が決定的に反転したようには見えないことである。もし狗奴国が邪馬壹国に匹敵する近接大国であったなら、卑弥呼の死後の混乱は最大の好機だったはずである。だが、史料の前面に出るのはむしろ女王国側の内部動揺であり、狗奴国が一挙に秩序を奪った姿ではない。この一点だけでも、狗奴国は邪馬壹国連合に比肩する巨大国家ではなく、外側から圧力をかけ続ける境界勢力だった可能性が高い。

この観点から見ると、熊本を狗奴国とする案には無理が出る。熊本側は、内陸の厚みと平野部の広がりを持つ。もし八女・久留米あたりに邪馬壹国を置けば、両者は平野を持つ有力圏どうしの正面衝突になりやすい。戦場も平野部や大河川低地に集中し、戦争の性格はどうしても会戦型・突破戦型に傾く。そうであれば、抗争は長く燻るより、どこかで比較的早く決着していたはずである。ところが『倭人伝』が示すのは、むしろ「素より和せず」という持続性であり、卑弥呼の死後ですら一気に帰趨が決しない構図である。熊本説の弱点はここにある。強すぎるのである。強大な対抗国家としては魅力があるが、長期抗争の説明力に欠ける。

そこで本稿は、狗奴国を佐伯・延岡を軸とする境界帯勢力として考える。ここで佐伯を中核に置くのは、臼杵よりも佐伯の方が、紛争の持久性を説明するのに適しているからである。佐伯市は現在の行政資料でも、祖母・傾・大崩山系を共有する大分・宮崎の広域山地圏に位置し、佐伯市宇目が延岡市や高千穂町などと同じ地理的まとまりの中で把握されている。つまり佐伯は、豊後側の末端ではなく、北部九州と日向北部をつなぐ山地・谷筋・海岸線の接点にある。

延岡側もまた、この構図にうまくはまる。延岡市の資料では、市域は北に佐伯市と接し、東は日向灘、北から西にかけて九州山地が横たわる。また、市内の主要水系として北川・祝子川・五ヶ瀬川が挙げられ、これらが延岡湾へ注ぐ構造が示されている。五ヶ瀬川は市の中心部を東西に貫流し、北川は北部を南北に貫流して河口で五ヶ瀬川に合流する。つまり延岡は、単なる海辺の一点ではなく、海と大きな後背地を結ぶ接続圏である。

このとき、狗奴国を一点の都として捉える必要はない。むしろ、佐伯の番匠川流域と海岸接触帯、そこから延岡の五ヶ瀬川・北川水系に連なる帯状勢力として見る方が自然である。佐伯は海と山の接触点であり、延岡は内陸を抱えた接続圏である。前者は前線、後者は後背地として機能しうる。この組み合わせなら、戦争は平野国家どうしの一撃決戦ではなく、河口、谷口、海岸、分水界をめぐる断続的な接触戦になる。だから長引く。ここに、熊本説より佐伯・延岡説が優れる理由がある。

この帯状勢力を支える条件として、東九州における鉄の流通も見逃せない。九州大学の研究では、臼杵市下藤遺跡で弥生時代後半末の板状鉄斧が確認されている。これは本稿で臼杵を狗奴国の中核に置くための証拠ではない。むしろ、豊後水道西岸一帯が弥生末の段階で広域流通圏から切り離されていなかったことを示す材料として重要なのである。言い換えれば、東九州南部帯は孤立した辺境ではなく、鉄や外来物資の流れに接続した接触帯だった。だからこそ、女王国側が北方のハブを統御した場合、この南方帯との摩擦が長期化しうる。

では、その邪馬壹国はどこに置かれるべきか。ここで本稿は、「海洋国家」ではなく「流域国家」という見方を採る。弥生後期の国家形成は、海そのものを単位に進んだというより、河口、沖積平野、谷筋、その上流域を束ねる流域単位で進んだ可能性が高い。海はそれらをつなぐ交通路ではあっても、国家の本体ではない。したがって、倭人伝の国々は、海上国家の点列というより、河川流域を単位とする国家群として読む方が矛盾が少ない。

この前提に立つと、不彌国は長峡川流域、投馬国は大分川流域、そして邪馬壹国は大野川流域に置くのが自然になる。ここで重要なのは、それぞれを「定説」として述べることではなく、この配置なら狗奴国との抗争構造がよく見える、という点である。とくに大野川流域は、北部九州のハブ秩序を押さえつつ東九州へ圧力をかける中心として置きやすい。もし邪馬壹国がこの大野川流域を中核とする流域国家連合であったなら、不彌国を含む北側の交通結節点を握り、その再配分秩序を南方へ押し広げたと考えられる。その圧力を最も強く受けたのが、佐伯・延岡ラインの境界帯だった、という構図である。

この場合、狗奴国との戦いは単なる領土争いではない。強い側である邪馬壹国連合は、南方勢力を全面征服する必要はない。ハブと通行権、再配分権を押さえれば足りる。他方、狗奴国側は全面決戦では勝てないから、海と山の接触帯を防衛し、通路を確保し続ける。その結果、戦争は終わらない。卑弥呼の死によって邪馬壹国連合が揺らいでも、狗奴国は一気に全体を奪えない。奪うための国家ではなく、抗するための境界勢力だからである。この点が、史料の時間幅とよく一致する。

さらに『倭人伝』の民族誌的な質感も、この配置に不利ではない。男たちは「黥面文身」し、海に潜って魚貝をとると記される。入墨は単なる漁撈技術のためだけでなく、装飾や身分表示としても理解されているが、少なくとも倭人像の中心に海人的・沿岸的な身体文化が置かれていることは確かである。他方、東海・畿内の弥生文化を象徴する銅鐸は、人文記事で前景化されない。ここから直ちに九州説が証明されるわけではないが、倭人伝の倭国像が銅鐸文化圏の内部叙述ではなく、北部九州から東九州沿岸へ続く海人世界と流域国家群を見ている可能性は高まる。こうした史料の肌触りも、本稿の配置と矛盾しない。

以上をまとめる。
邪馬壹国の場所を考えるとき、決め手になるのは距離の数字そのものではない。むしろ、狗奴国との紛争がなぜ長く続いたのか、その構造をどこまで無理なく説明できるかである。熊本説は強大で魅力的だが、強すぎるために戦争が早く決着しやすい。これに対し、佐伯・延岡ラインを狗奴国の境界帯勢力とみると、長期抗争、卑弥呼死後の関係継続、非対称な勢力差、海上ハブをめぐる圧力という条件が一本の線でつながる。そしてその北側に、大野川流域を中核とする邪馬壹国を置けば、不彌国、投馬国、東九州南部との関係も自然に読める。

本稿の結論は明快である。
邪馬壹国は、大野川流域を中核に北側のハブ秩序を統御した流域国家連合であり、狗奴国は佐伯・延岡ラインに展開した南方の境界帯勢力だった可能性が高い。
少なくとも、現段階でこれ以上に矛盾の少ない配置は見出しにくい。

本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。

(Amazonへリンク)

関連テーマ

【研究ノート25】卑弥呼の正体

【研究ノート6】不弥国試論


  1. 佐伯市宇目が延岡市・高千穂町などと同じ祖母・傾・大崩の広域山地圏の中で把握されている点は、佐伯を単なる沿岸末端ではなく、豊後・日向接触帯としてみるうえで重要である。
  2. 延岡市については、市域が佐伯市に接し、主要水系として北川・祝子川・五ヶ瀬川が延岡湾へ注ぐことが示されている。本稿ではこれを、後背地を持つ接続圏とみた。
  3. 臼杵市下藤遺跡の板状鉄斧は、臼杵そのものを狗奴国中核に固定する材料ではなく、豊後水道西岸一帯が弥生末の流通圏に接続していたことの傍証として用いた。

参考文献

佐伯市「ユネスコエコパークについて」
延岡市資料「地域の概要」
九州大学総合研究博物館研究報告21 所収論文(下藤遺跡の板状鉄斧に関する記載)

コメント

タイトルとURLをコピーしました