
宇佐津彦清智
――『隋書』倭国伝から持統・文武朝の暦法改革まで――
天照をめぐる従来の理解は、しばしば『日本書紀』や伊勢神宮の後世的な姿を前提にしている。しかし、七世紀初頭の対外史料に立ち返ると、当時の倭国王権は、まだ天照を国家最高神として前面に押し出していなかった可能性が高い。むしろ見えてくるのは、天・日・夜・暦を含む、より複層的な王権宇宙論である。本ノートの目的は、六〇〇年前後の『隋書』の記事から出発し、七世紀後半の律令国家形成の中で、なぜ伊勢の天照が皇祖神へ格上げされたのかを考えることである。
まず出発点となるのは、『隋書』倭国伝の開皇二十年(六〇〇)の記事である。そこには、倭王が「以天為兄、以日為弟」と説明されている。さらに「天未明時出聽政、跏趺坐。日出便停理務、云委我弟」と続く。ここで重要なのは、「日」がまだ最上位神としてではなく、王権秩序の内部に置かれた存在として表現されている点である。少なくともこの史料を素直に読む限り、倭王は太陽を拝する者というより、天と日の関係を自らの王権表象の中に組み込む存在として描かれている。
この一句は、後世の天照中心神話とかなり異なる感触をもつ。『日本書紀』では天照は高天原の統治者であり、皇統の源流に位置づけられるが、『隋書』段階ではまだそのような人格神の名は出ない。ここにあるのは「天照大神」ではなく、「天」と「日」を配列する王権の自己説明である。したがって、六〇〇年頃の倭国では、少なくとも対外的自己表現の中核に天照大神がいたとは言いにくい。ここから直ちに「天照信仰が存在しなかった」と断言することはできないが、「天照が国家最上神として前面化していなかった」ことは十分に言える。
この文脈で見ると、六〇七年の小野妹子の国書「日出處天子致書日没處天子無恙」は、従来の通説とは別の読みを許す。通常この文言は、「日出づる国」を名乗る倭が太陽の側に立った宣言として理解される。しかし、六〇〇年記事の「以天為兄、以日為弟」を踏まえるなら、倭国王権自身はまだ「日」を自らより下位の秩序要素(弟)として扱っていた可能性がある。その場合、「日出處天子」は、後代の天照中心思想の完成形ではなく、なお過渡的な王権表現だったことになる。外務省所収の研究でも、小野妹子の国書は、文帝が六〇〇年に「此太無義理」として改めさせた前回の表現を踏まえて作られた可能性が示されている。つまり、六〇七年の国書は、六〇〇年の倭王表現を修正しながらも、その根底の発想をなお引きずっていたと見られる。
ここで注目すべきは、倭国王権の背後にあった時間観念である。古代の暦は月の満ち欠けを基礎とする太陰太陽暦であり、月は単なる夜の天体ではなく、日を数え、祭祀の日取りを決める実務的基盤だった。国立天文台の暦解説でも、伝統的な暦では暦面上の一日は正子で切り替わるが、人々の意識の上では明六つ、すなわち夜明けが一日の始まりと感じられる場合もあったとされる。重要なのは、古い時間感覚が一様ではなく、夜・月・日の複数の起点感覚を併せ持っていたことである。そう考えると、『隋書』に月が明記されていなくとも、王権秩序の深層に月的・夜的原理が伏在していたと見る余地は大きい。
だが、七世紀後半になると事態は変わる。変化の決定的契機は、やはり壬申の乱後の国家再編に求めるべきだろう。國學院大學の神名解説によれば、高御産巣日神から天照大御神への皇祖神の重心移動については、統一的律令国家を築く過程で天武天皇の意図のもとに皇祖神の変更がなされたとする見方が優勢である。その動機としては二つが挙げられる。第一に、高御産巣日神を天皇家と共通祖神としていた伴造氏族との系譜的関係を断ち切り、天皇の地位の尊厳を明確にするため。第二に、地方豪族間で共有されうる土着の太陽神である天照を中心に据え、新しい国家建設の統一象徴とするため、である。さらに同解説は、天照が皇祖神の地位に上がった時期について、文武朝以降とする説を紹介している。
ここで重要なのは、天照そのものが「新しい神」なのではなく、「国家最高神・皇祖神としての天照」が新しいという点である。伊勢神宮の公式説明でも、式年遷宮の制度は天武天皇の宿願により始まり、持統四年(六九〇)に第一回が行われたとされる。また、内宮・外宮の初期遷宮は六九〇年と六九二年に位置づけられている。これは、伊勢の天照祭祀がこの時期に国家的中心祭祀として制度化されたことを示す。したがって、天照の上昇は自然発生的な信仰拡大というより、壬申の乱後の王権再編の中で、宮廷が伊勢の土着神を国家神へ読み替えた結果とみるべきである。
この読みをさらに強めるのが、持統・文武朝における暦法改革である。国立国会図書館「日本の暦」によれば、六〇四年に元嘉暦が初めて用いられ、持統六年(六九二)には元嘉暦と儀鳳暦が併用され、文武元年(六九七)には元嘉暦を廃して儀鳳暦が採用された。また、律令制のもとで暦は朝廷が制定し、中務省所属の陰陽寮が暦の作成、天文、占いをつかさどった。すなわち、七世紀後半の国家再編は、単なる政治制度の整備ではなく、「時間を国家が握る」体制への転換でもあった。
この点は決定的に重要である。暦博士や陰陽寮は、月と太陽の運行を計算し、朔日や吉凶、祭祀日程を国家公式のものとして決定した。つまり、共同体や在地の感覚に委ねられていた時間秩序が、国家によって計算・配布・管理されるようになったのである。時間秩序の国家管理が進むなかで、その象徴神として日神が前面化したと考えるのは自然である。北極神や高御産巣日神は、宇宙論上の上位原理としては強いが、血統神話・国家儀礼・全国的可視性という三条件を同時に満たしにくい。これに対して天照は、太陽神として誰の目にも明白であり、しかも天孫降臨を通じて皇統の祖として物語化できる。この差が大きい。
ここから導けるのは、持統・文武朝において、暦法改革と皇祖神改革が並行して進んだという見方である。儀鳳暦採用は国家が「正しい時」を定める制度であり、『日本書紀』編纂は国家が「正しい始原」を定める制度だった。前者は時間の統一、後者は起源の統一である。両者がほぼ同時代に進行したことは偶然ではあるまい。国家が暦と時刻を握るにあたり、その秩序の表象として日神を最上位に押し上げた、と見る方がむしろ自然である。天照の皇祖神化は、信仰史上の単独事件ではなく、時間秩序の国家管理化と連動した王権神話の再編だったのである。
以上から、本ノートの結論は次の通りである。六〇〇年前後の『隋書』倭国伝に見える倭王権は、なお天・日・夜を含む複層的宇宙論の中にあり、「日」はまだ王権秩序の内部要素にすぎなかった。六〇七年の「日出處天子」も、その過渡的表現と見るべきである。これに対し、壬申の乱後の天武・持統・文武朝は、律令国家形成の中で、時間秩序と祖神秩序を同時に中央集権化した。その結果、伊勢の天照は、古い土着日神から、国家の暦と皇統をともに象徴する皇祖神へと格上げされた。したがって、比較的新しいのは天照という神名そのものではなく、「国家最高神としての天照」という制度化された地位なのである。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
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注釈
注1 本ノートでは、「天照がいなかった」とは言わず、「天照が国家最上神として前面化していなかった」と表現した。これは、『隋書』に神名が出ない以上、地方的・王家的な日神祭祀の存在可能性そのものまで否定できないためである。
注2 「日出處天子」を「弟の側の天子」と読むのは、本文の明示ではなく、『隋書』六〇〇年記事の「以天為兄、以日為弟」を補助線として用いた構造読解である。史料の直読ではなく、有力仮説として扱うのが妥当である。
注3 暦の上での一日の切り替えと、人々の意識における一日の始まりは一致しないことがある。正子を日界とする暦法上の整理と、夜明けを一日の始まりと感じる生活感覚とは、分けて考える必要がある。
注4 「天照は比較的新しい神」という表現は厳密には不正確である。より正確には、「皇祖神・国家最高神としての天照が比較的新しい」と言うべきである。
参考文献
- 『隋書』倭国伝(Wikisource掲載本文、底本情報付)。
- 外務省所収研究資料「古代・中近世史 総論 日本と中国の関係は古来非常に密接で」所収、遣隋使国書と六〇〇年記事の関係に関する論述。
- 國學院大學古典文化学事業「高御産巣日神」。皇祖神の重心移動、天照の皇祖神化時期、変更動機に関する整理。
- 伊勢神宮「式年遷宮の歴史」。天武の宿願、持統四年の第一回遷宮、内宮・外宮の整備時期。
- 国立国会図書館「日本の暦」第1章「暦の渡来と普及」。陰陽寮の職掌、朝廷による暦制定。
- 国立国会図書館「日本の暦」年表。元嘉暦・儀鳳暦の採用時期。
- 国立天文台 暦Wiki「1日とは?/1日の始まり」「不定時法」。正子と生活感覚上の一日開始の差異。
- 国立天文台FAQ「『旧暦』は現在の暦より季節に合っているの?」。月の満ち欠けを基礎とする旧暦の説明。


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