
宇佐津彦清智
――白村江敗戦後の国家再編と中心の成立
本稿は、理念や先入観によって歴史を解釈するものではない。むしろ、遺構・年次・地名配置のような比較的動かしにくい資料を重視し、後代の編纂史書が与える説明をいったん留保したうえで、最も矛盾の少ない歴史像を再構成しようとする試みである。
「ヤマト」は、あたかも古来より自明の政治中心であったかのように語られてきた。だが、その理解は本当に自明なのだろうか。むしろ白村江敗戦後の急激な国家再編を見れば、「ヤマト」とは古代以来不動の中心地名ではなく、敗戦後の秩序再編の中で新たに成立した政治的中心名とみる方が、全体の矛盾を少なく説明できる。本稿は、その視点から白村江後の倭国、近江遷都、壬申の乱、そしてヤマト呼称の成立を一つの流れとして捉え直そうとするものである。
白村江敗戦後に起きた変化は、通常の「敗戦後の防衛強化」としては異様なほど大規模である。664年には水城が築かれ、665年には大野城・基肄城が築かれた。水城は全長約1.2キロメートルに及ぶ巨大土塁であり、大野城は百済系技術者の指導を受けた朝鮮式山城であったとされる。これらは地方豪族的事業ではなく、広域的で計画的な国家再編である。しかもその施工は、敗戦の直後という最も混乱していたはずの時期に集中している。ここにまず、従来の「倭国の自主防衛」という説明だけでは捉えきれない不自然さがある。
従来説は、これを中大兄皇子主導の防衛政策として理解してきた。しかし、その根拠の大半は『日本書紀』の叙述に依存している。『日本書紀』は養老4年(720)に完成した勅撰史書であり、編纂の起点は天武朝にある。すなわち、勝者側の国家史書である。そこに描かれた天智・天武像や国家再編像を、そのまま史実の骨格とみなすことはできない。水城や大野城という遺構自体は否定できないが、誰の主導で、いかなる国際関係の下で築かれたのかという説明は、書紀から自由になって再検討すべきである。
この点で重視すべきは、唐側の継続的関与である。白村江直後、郭務悰らは繰り返し来倭し、671年には大規模船団を率いて来たことが論じられている。これは単なる一度きりの外交接触ではなく、敗戦後の倭国が唐の強い軍事外交圧力の下に置かれていたことを示す。ここから見るなら、水城・大野城などの施設群を、倭側の完全に自由な意思で築いたものとみるより、唐の圧力、監督、あるいは指示を背景とした再編事業とみる方が、むしろ全体の整合性は高い。唐軍の直接指示を示す決定的史料は現時点で確認できないが、少なくとも「自主防衛国家の自発的成立」という理解よりは、はるかに現実的である。
次に注目すべきは、667年の近江遷都である。大津市の説明でも、近江大津宮は667年に開かれ、その地で戸籍整備など国家の基礎づくりが行われたとされる。従来はこれを、内陸防衛や東国連携のための合理的遷都として説明してきた。しかし、敗戦直後の倭国が、北部九州に巨大防衛線を築きつつ、同時に近江に新都を開き、制度整備まで進めるというのは、通常の自立国家像としてはかえって説明しにくい。近江は単なる避難都ではなく、敗戦後に再編された新秩序の拠点であったとみるべきである。
そう考えると、壬申の乱もまた別の姿を見せる。従来のような皇位継承戦争ではなく、敗戦後秩序の主導権をめぐる体制転換として理解できるからである。ここで中大兄系の近江政権を、唐に対してなお自立性を保持しようとした勢力とみなし、大海人皇子をより新秩序に適応的な側としてみるなら、大海人が近江を倒したことの意味は大きく変わる。天武は独立国家の純粋な創業者ではなく、敗戦後秩序を引き継ぎつつ、それを新たな国家理念へ転化した政治主体として現れる。その結果、後に編纂された『日本書紀』は、この複雑な過程を「連続した天皇国家」の物語へと再編集したのであろう。
では、その再編の中で「ヤマト」はどのように現れたのか。ここで朝倉地域の意味が浮上する。朝倉市は、朝倉を中心とした地名と奈良県の大和朝廷地域の地名が非常に似ていることを、地域史の特色として紹介している。また、斉明天皇の朝倉橘広庭宮も、須川・山田・志波など朝倉市域に推定地が残されている。もし白村江後の再編の中で、九州側の政治・祭祀・人的基盤の一部が畿内へ移されたのであれば、そこで旧中心の記憶を地名群として移植した可能性は十分にある。ヤマトとは、自然発生的な古来地名というより、敗戦後に新しい中心を名指すために定着した政治的総称だったのではないか。
本稿の結論は明快である。ヤマトは、古代以来の自明な中心ではない。白村江敗戦後、唐の強い圧力の下で倭国が再編され、その過程で近江・大和へと新たな中心が形成され、やがてそれが「ヤマト」と総称されるようになったのである。水城・大野城・近江大津宮・壬申の乱・朝倉と大和の地名対応を一つの過程として見たとき、この理解が最も矛盾が少ない。ヤマトとは、発見されるものではなく、造られたものだったのである。
注釈
- 本稿でいう「ヤマト」は、奈良盆地東南部の限定地名ではなく、のちに政治的中心を指す総称として用いられた呼称を意味する。
- 「唐軍指示」は、現時点で直接命令文書が確認されるという意味ではない。白村江後の施設配置、施工時期、唐側使節の継続来倭という全体構造から導かれる復元モデルである。
- 朝倉と大和の地名対応は、単独地名の一致ではなく、地名群としての対応関係に意味がある。
- 本稿は『日本書紀』の叙述を全面否定するものではなく、勝者による編纂史書として相対化した上で読み替える立場を採る。
参考文献
・国立公文書館「日本書紀―歴史と物語」
・太宰府市公式ホームページ「水城跡(特別史跡)」
・大野城市資料『わたしたちの文化財』および「大野城をあるく(太宰府口城門)」
・大津市「大津京と大津宮」「『古都』大津Q&A」
・朝倉市「観光大使『女王卑弥呼』について」「朝倉橘広庭宮関連資料」
・近藤浩一「白村江直後における熊津都督府の対倭外交」『人文×社会』1巻4号、2021年。

コメント