
宇佐津彦清智
――京築・中津・豊前に残る渡来系支配の痕跡
『隋書』倭国伝は、裴世清の行路を「竹斯國」に至り、さらに「東して秦王國に至る」と記す。この記述が重要なのは、隋側の認識の中で、倭が単一の均質な空間ではなく、少なくとも筑紫の東に別個に把握される政治空間を持っていたことを示すからである。福山裕夫はこれを、裴世清が筑紫国と秦王国、すなわち豊国を訪れた記事として読んでいる。秦王国をただちに空想上の名と片づけるより、まず九州内の実在的な地域秩序の痕跡として受け止めるべきであろう。
その候補地としてもっとも有力なのが、京築・中津・豊前を結ぶ一帯である。第一に、この地域には渡来系祭祀の濃さが古い文献に残る。『豊前国風土記』逸文では、香春神について「新羅の国の神、自ら渡り到来りて、この河原に住みき」と記される。香春神が新羅由来の神として語られている以上、田川・香春周辺は単なる内陸盆地ではなく、渡来系祭祀の強い浸透圏だったとみるのが自然である。
第二に、戸籍史料がきわめて強い。正倉院に残る豊前国戸籍断簡の再整理では、秦部と勝姓の人数比が、丁里で九四%、塔里で九六%、加目久也里で八二%に及ぶことが示されている。これは、豊前国の少なくとも一部では、渡来系由来の姓を持つ集団が圧倒的多数を占めていたことを意味する。京築・豊前において秦氏系・勝系勢力が厚かったという感覚は、もはや伝承レベルではなく、戸籍史料でも裏づけられる。
第三に、居住技術の面でも朝鮮半島系の痕跡が帯状に見える。行橋市長井丸尾遺跡では、古墳時代のオンドル状かまどを持つ竪穴住居跡が確認され、行橋市教育委員会自身が朝鮮半島との交流を考えるうえで重要な成果と述べている。さらに、豊前市塔田琵琶田遺跡ではオンドル遺構が多数検出され、九州歴史資料館の発掘速報でも、朝鮮半島にルーツを持つオンドル状煙道付きかまどの存在が強調されている。『行橋市史』は、築上郡池ノ口遺跡や豊前市小石原泉遺跡にもオンドル系遺構があることを指摘しており、京築・豊前一帯には、単発ではなく面的に渡来系居住技術が分布していたことがわかる。
第四に、中津・豊前北西部には独自に強い首長圏がある。穴ヶ葉山古墳は山国川左岸の丘陵に築かれた六世紀末から七世紀前半の円墳で、羨道西壁には木葉・魚・人物・虫・鳥などの線刻壁画が描かれている。福岡県教育委員会はこれを豊前地域の線刻装飾古墳の代表例として位置づけている。つまり、この地域には単なる移住民集落ではなく、地域首長層を支えるだけの政治的厚みがあった。秦王国を想定する際、渡来系痕跡と首長権力の双方が揃うことは大きい。
ここでさらに重要になるのが、屯倉の不在である。継体・安閑・宣化・欽明期の屯倉は、王権が地方へ介入し、資源・労働・流通を押さえる装置として理解されることが多い。だが、宇佐・中津・京築・豊前の中核地には、むしろ明瞭な屯倉が見えにくい。これは支配の空白ではなく、逆に王権が直轄化しにくい別格圏だったことを示す可能性がある。すなわち、王権はその中核を直接収公するより、周辺や結節点に屯倉を置いて外縁から押さえたのであり、中核そのものは強い在地勢力圏として残ったのではないか。この見方に立てば、京築・中津・豊前の一帯は、王権の単純な地方支配圏ではなく、渡来系支配層の厚い「秦王国」的中核地帯として浮かび上がる。
さらに、この地域秩序は大分市側へ伸びていた可能性がある。大分市坂ノ市の萬弘寺には、用明天皇の病気平癒祈願所として創建され、後に聖徳太子が父の供養のために伽藍を整えたという伝承が残る。寺伝そのものを同時代史料とはできないが、欽明―用明―聖徳太子という系譜が大分市側と深く結びついて記憶されていることは重要である。加えて、大分市海部地域は海を介して大和政権と結びつき、亀塚古墳を築いたと市の解説にある。大野川水系は大分平野から竹田盆地へ通じる広大な回廊であり、この終点に対外接遇や統治のための九州側拠点、さらには「都」に近い機能を持つ場所があったとみることも不可能ではない。秦王国から宇佐・国東半島を経て大分市へ至る線は、単なる地理ではなく、王統と渡来系勢力が交差する政治地理として読むべきである。
以上から、秦王国を完全な空想とみなす必要はない。『隋書』が秦王国を記し、豊前国戸籍が秦部・勝姓の集中を示し、香春神が新羅神として語られ、オンドル系遺構が京築・豊前に帯状に分布し、さらに中津・豊前北西部には強い首長圏が確認できる。これらを総合すると、京築・中津・豊前には、王権の表の皇統叙述とは別に、渡来系支配層の厚い実体的地域秩序が存在した可能性が高い。本稿はそれを、便宜上「秦王国」と呼ぶものである。『日本書紀』が書かなかったものは、必ずしも存在しなかったのではない。むしろ、皇統中心の歴史叙述の外にあったからこそ、別の史料群と遺跡群の中に痕跡として残ったのである。
注
- 本稿でいう「秦王国」は、近代的な領域国家を意味しない。京築・中津・豊前を中核に、渡来系支配層が厚く分布し、隋使が別個の地域秩序として把握しうる程度の政治的実体を持った圏域を仮称する。
- 香春神や萬弘寺に関する記述には、風土記逸文・寺伝など後代的伝承層を含む。本稿ではそれらを同時代の厳密な一次史料としてではなく、地域記憶の持続を示す補助線として用いた。
- 屯倉の不在をただちに「独立王国の証拠」とすることはできない。本稿は、屯倉の偏在を、王権が直轄化しにくい別格圏の存在を示す間接指標として用いる。
参考文献
福山裕夫「九州の歴史民俗を考える」。『隋書』の秦王国を豊国に読む視点を提示。
みやこ町歴史民俗博物館「正倉院に残る豊前国戸籍」。秦部・勝姓の比率を示す基本資料。
行橋市教育委員会『長井尾ノ花遺跡・長井丸尾遺跡』。京築におけるオンドル状かまどの確認。
九州歴史資料館「発掘新聞」「九歴だより」。豊前市塔田琵琶田遺跡のオンドル遺構多数検出。
福岡県文化財データベース「穴ヶ葉山古墳」。豊前北西部の強い首長圏を示す装飾古墳。
大分市公式案内「海部のまつり」「亀塚古墳関係資料」。海部勢力と大和政権の結びつき。


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