
宇佐津彦清智
――豊前・河内・宗像を結ぶ再編ネットワーク試論――
「空白の四世紀」という言い方は、日本古代史で繰り返し用いられてきた。だが、これは文字史料が乏しいことを示す語であって、社会そのものが停止していたことを意味しない。むしろ考古資料を見る限り、四世紀の列島社会、とりわけ豊前北部は、首長権力・軍事装備・海上交通・広域接続が大きく再編された時期として理解すべきではないか。本稿では、豊前の古墳と港湾的遺跡を起点に、河内・宗像へ連なるネットワークの形成を試論として整理したい。
まず、豊前宇佐の四世紀前半は、決して「空白」ではない。赤塚古墳は全長約57.5〜58メートルの前方後円墳であり、後円部中央の箱式石棺から三角縁神獣鏡五面、管玉、鉄刀片が出土した。これらの鏡はすべて舶載鏡で、同笵鏡が石塚山古墳や椿井大塚山古墳などにも見られることから、宇佐の首長層が早くから広域的な政治文化圏に接続していたことがわかる。[1] また免ヶ平古墳では、三角縁神獣鏡・斜縁神獣鏡に加え、刀剣などの鉄製武器、斧・刀子などの鉄製農工具、石釧・勾玉・管玉が出土し、さらに南側石棺からは女性人骨と鏡・玉・鉄刀子が確認されている。ここに見えるのは、単なる戦士の墓ではなく、武・生産・儀礼をあわせ持つ首長権力である。[2]
これを支える生活と統治の現場として重要なのが、小部遺跡である。同遺跡は古墳時代前期に突出部をもつ環濠集落として出現し、その後、環濠内に方形区画と大型掘立柱建物を備える居館へ展開した。これは、前方後円墳の被葬者を支えた在地支配の拠点を示す可能性が高い。[3] つまり、宇佐では四世紀前半の段階で、墳墓・居館・副葬品体系が一体となった首長秩序が成立していたのであり、「空白」というより、可視化された再編の始点とみるべきである。
さらに注目すべきは、その後およそ半世紀〜一世紀のうちに、豊前の武装のあり方が明らかに変質することである。行橋市の稲童古墳群出土品は、前期・中期の甲冑、刀剣、馬具などの金属製品を豊富に含むことで知られ、とりわけ十五号墳・八号墳・二一号墳からは短甲や冑などが出土している。[4] ここでは、赤塚・免ヶ平に濃厚だった鏡・玉中心の権威表現に比べ、甲冑を中核とする軍事的権威が前面に出ている。九州の中期甲冑出土古墳分布の中でも、豊前北部は目立つ位置を占めるとされ、これは偶然の偏りではなく、特定の軍事的機能を担った地域であったことを示唆する。[5]
この武装化は、陸路だけでは理解しにくい。甲冑や馬具をともなう主力の移動を考えると、味見峠のような内陸峠道は補助路ではあっても幹線たりえない。ここで重要になるのが、行橋の港湾性と船である。延永ヤヨミ園遺跡では、船の波除け板に加え、「準構造船部材出土状況」が報告書に明記されている。[6] これは、古墳時代の京都平野が、単なる内陸の首長圏ではなく、重装備や人員を運ぶ海上交通拠点であった可能性を強く示す。丸木舟的段階から、より積載・補強・操船に適した準構造船への移行が進んでいたとみれば、四世紀後半〜五世紀の武装化と海上輸送の再編は表裏の関係にあったと考えられる。[7]
ここで関門海峡の問題が浮上する。豊前側で整えられた馬・鎧・船を玄界灘側へ出すには、結局のところ関門海峡を越えねばならない。関門海峡、とくに早鞆瀬戸は現在でも強潮流で知られるが、同時に古来の交通要衝として認識されてきた。古代に近世的な制度化された水先案内人が存在したと断定はできないにせよ、少なくとも潮を読み、待機港を用い、通過時機を知る在地の先導者を欠いては安定的運用は不可能だったはずである。[8] 神功皇后と関門周辺を結びつける伝承が残ることも、史実の証明ではないにせよ、この海域が古くから「通るべき難所」として強く意識されていたことの反映とは言えるだろう。[9]
では、この海上ネットワークの先に何があったのか。宗像・沖ノ島である。沖ノ島では、四世紀後半から九世紀末まで、日本列島・朝鮮半島・中国大陸の交流に伴う航海安全祭祀が続いたことが、世界遺産関係資料でも明記されている。[10] ここから見えてくるのは、豊前・行橋が単独で半島接続を担ったのではなく、豊前が装備と兵站の前線、宗像が外洋接続の祭祀・航路拠点という機能分担である。豊前で武装が濃くなり、宗像で航海祭祀が濃くなることは、一つの広域運動の別々の面と理解できる。
さらに、このネットワークを支えた素材の流れを考えると、博多や河内も無関係ではない。福岡市資料には、古墳時代初頭の鉄素材と考えられる大形板状鉄製品や、博多遺跡群出土の鍛冶関連遺物が示されており、博多圏は鉄素材の受け口・再加工の節点とみられる。[11] 一方、河内では黒姫山古墳から大量の鉄製甲冑が出土し、五世紀後半の軍事装備集中を示している。[12] すなわち、博多が素材の入口、河内が大規模装備の中心、豊前が対外前線に近い展開拠点、宗像が外洋接続点という、相互依存的な機能分担ネットワークが想定されるのである。
以上から言えるのは、四世紀は空白ではなく、首長権力・軍事装備・船舶構造・航路祭祀が一体で組み替えられた再編の世紀だったということである。五世紀後半の倭王武的な軍事的自己表現は、この変化の原因ではなく、むしろその後に現れた政治的な完成形として理解すべきだろう。少なくとも豊前の考古資料は、四世紀を「沈黙の時代」ではなく、「広域ネットワークが立ち上がった時代」として再考すべきことを示している。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
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注釈
[1] 赤塚古墳の鏡群は、宇佐首長層の広域接続を示す典型資料である。
[2] 免ヶ平古墳では武器と農工具が併存し、首長権力の多面的性格がうかがえる。
[3] 小部遺跡は、古墳時代前期の環濠集落から居館成立までの変遷を示す。
[4] 稲童古墳群の甲冑副葬は、豊前北部の軍事色を考えるうえで重要である。
[5] 甲冑の偏在は、列島内一律の在地戦装備ではなく、特定地域への重点配備を示唆する。
[6] 延永ヤヨミ園遺跡の準構造船部材は、行橋の海上交通機能を考えるうえで重要である。
[7] 本稿では、準構造船の普及を武装化・兵站化と連動した現象として理解した。
[8] 古代関門海峡に制度化された水先案内人を示す一次史料は未確認だが、難所ゆえに先導知識の存在は強く推測される。
[9] 神功皇后伝承は史実の証明ではないが、関門海峡が古くから航路意識の対象だったことを示す補助線となる。
[10] 沖ノ島祭祀は、対外交流と航海安全の重なりを示す。
[11] 博多圏は鉄素材の流入・再加工拠点として理解できる。
[12] 河内は甲冑集中域として、五世紀的軍事秩序の中核に位置した可能性が高い。
参考文献
- 文化庁・文化遺産オンライン「赤塚古墳 三角縁唐草文帯二神二獣鏡」
- 文化庁「国指定文化財等データベース 大分県免ヶ平古墳出土品」
- 文化庁・文化遺産オンライン「小部遺跡」
- 宇佐市「小部遺跡が国指定史跡に指定されました」
- 文化遺産オンライン「福岡県稲童古墳群出土品」
- 行橋市「国重要文化財 福岡県稲童古墳群出土品」
- 行橋市『行橋市史』デジタルアーカイブ
- 福岡県教育委員会『延永ヤヨミ園遺跡』
- 福岡市埋蔵文化財センター年報13
- 福岡市博物館アーカイブズ「ものづくりの考古学」
- 文化庁「世界遺産『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」関連資料
- 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 公式サイト
- 堺市「黒姫山古墳出土甲冑類」


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