【研究ノート4】宇佐八幡成立期における大神氏の前面化について

宇佐津彦清智

―その前史・可視化・築上郡基盤をめぐる試論―

 宇佐八幡成立史を考える際、宇佐氏と辛島氏に比べて、大神氏だけがきわめて捉えにくい。宇佐氏には『日本書紀』神武紀の菟狭津彦・菟狭津媛という神話的祖形があり、辛島氏にも豊前国における秦系勢力の痕跡や関連神社をたどりうる余地がある。これに対して大神氏は、後代には大宮司家として重い位置を占めながら、創建以前の同時代的痕跡が薄く、対応神社も曖昧である。この不均衡は、単なる史料散逸として処理するより、大神氏の成立・前面化の仕方そのものを示す可能性がある。[1]

 大神氏についてまず注目すべきは、749年の賜姓と754年の「本姓」復帰である。『続日本紀』系の整理によれば、天平勝宝元年(749)、八幡大神禰宜の杜女と主神司田麻呂に「大神朝臣」の姓が与えられた。他方、天平勝宝六年(754)、厭魅事件に連座した両名は処分され、「本姓に従う」とされた。ここから少なくとも、749年以前の彼らが一貫して公的に「大神朝臣」を名乗っていたわけではなく、ある時点で中央の氏姓秩序の中に改めて位置づけられたことが分かる。[2] この点は重要である。大神氏は8世紀に突然創出された家というより、それ以前から存在した祭祀集団が、宇佐再編と国家祭祀化の過程で初めて「大神」として可視化されたと見る方が自然である。

 この仮説を補強するのは、大神氏だけが対応する古社を見出しにくいという事実である。宇佐氏には薦神社・妻垣社のように古層祭祀を想起させる社があり、辛島氏にも乙女社・泉社など秦系祭祀圏との関係を考えやすい材料がある。ところが大神氏については、鷹居社・瀬社などが後代文脈で現れるものの、いずれも宇佐宮再編後の像が濃い。すなわち大神氏は、最初から「この社の氏族神を祀る家」として見えるのではなく、別の神名・別の祭祀層に潜んでいた可能性が高い。[3]

 ここで注目されるのが、豊前東部から京築・香春にかけての地域である。香春は古代から採銅の地として知られ、疾疫鎮護とも結びつく重い宗教地帯であった。苅田町の白庭神社は、饒速日命・大己貴命・罔象女命を祀り、社地は御所山古墳に重なる。ここには、物部系祖神・地主神・水神・古い首長墓が一点に集まっている。これは、宇佐氏や辛島氏とは別系統の、荒神処理・祓い・境界神祭祀を担う濃い前史的基盤を感じさせる。[4] 加えて、行橋・築上方面には応神天皇系八幡伝承を持つ神社が散在し、香春―苅田―築上ライン全体が、金属祭祀と高格祭祀の複合地帯として浮かび上がる。

 さらに重要なのは、大神氏の後代基盤が築城郡・仲津郡に確認できることである。『宇佐大鏡』所載の「宇佐宮大宮司公順処分状案」によれば、伝法寺はもと宇佐宮祝大神宮方の私領であり、承徳二年(1098)に神寛が継承し、天永元年(1110)に宇佐宮へ売却されるまで大神氏系私領として保持されていた。伝法寺庄は築城・仲津両郡にまたがる一帯に比定されるから、少なくとも平安後期には、大神氏の基盤の一部がこの地域に存在したことは確かである。[5] また、小山田文書には、小山田社司大神敦貞、大神宇貞の名が見え、大神氏が社職・知行・修理所別当職を通じて実地基盤を持っていたことがわかる。[6]

 この築城郡側の基盤を考えるうえで、大楠神社の存在も無視できない。大楠神社は本庄にあり、宇佐神宮一之殿の御杣始祭の場とされる。地域史によれば、元慶四年(880)以後の式年遷宮では、築城郡伝法寺が一之殿の杣山に選ばれ、大楠の下で造営開始の御杣始祭が行われた。つまり、大楠神社下流域は、単なる周辺農村ではなく、宇佐神宮造営の実務線上にある神聖地であった。[7] その下流域に大神氏系私領が存在した以上、大神氏は後代においてこの地域の宗教的・実務的中核を担っていたとみてよい。

 では、彼らはいつ、いかなる名のもとに前面化したのか。ここで示唆的なのが、宇佐大神比義伝承と豊日別宮伝承が、ともに欽明天皇後半期を起点に置いている点である。宇佐神宮の年表では、欽明三十二年(571)に大神比義の前へ八幡大神が顕現したとされる。他方、豊日別宮の研究整理でも、欽明朝に大伴牟禰奈理が初代神官として立つという伝承が語られる。両者の直接関係は未詳だが、後代伝承の水準では、豊前国の高格祭祀圏は同じ起源時間に属するものとして理解されていたことになる。[8] ここから推すなら、大神氏前史の集団は、宇佐の外にある高格祭祀圏、すなわち豊前北部の祓い・境界・金属祭祀帯に属し、その後宇佐再編の中で「大神」として名を現したと考えられる。

 以上を総合すると、大神氏は「どこから来たか」よりも、「いつ表に出たか」で捉えるべきである。彼らは創建以前から別名・別位相の祭祀集団として存在し、749年の賜姓を経て初めて公的に「大神朝臣」として可視化された。その実地基盤の一部は平安後期には築城郡・仲津郡に確認でき、香春・苅田・築上の金属祭祀・物部系・水神的背景は、その前史を考える有力な補助線となる。したがって、大神氏とは、宇佐で突然成立した家ではなく、豊前東部の広域的祓い・荒神処理ネットワークが、宇佐放生会と八幡宮再編の中で名を得て前面化した祭祀家であった可能性が高い。[9]

[1] 宇佐神宮の祭神構成と比売大神の先行性については宇佐神宮公式サイトを参照。 

[2] 749年の「大神朝臣」賜姓、754年の「本姓」復帰については國學院大學デジタルミュージアム所載の宇佐宮関係史料整理による。 

[3] 宇佐神宮創祀伝承・大神比義の位置づけについては宇佐神宮公式年表・由緒による。 

[4] 白庭神社の祭神・御所山古墳との関係は宇原神社系の由緒説明による。 

[5] 伝法寺庄が「もと宇佐宮祝大神宮方の私領」であったことはコトバンク所収「伝法寺庄」による。 

[6] 小山田社司大神敦貞、大神宇貞の知行・社職についてはコトバンク所収「小向野村」による。 

[7] 大楠神社と宇佐神宮御杣始祭、伝法寺杣山との関係は築上町歴史散歩ガイドによる。 

[8] 豊日別宮創建伝承と大伴牟禰奈理については橋本昭雄論文による。大神比義の欽明朝伝承は宇佐神宮年表による。 

[9] 本稿の結論は、以上の史料・研究に基づく再構成であり、大神氏前史の具体像についてはなお仮説を含む。 

参考文献

宇佐神宮「由緒」「歴史略年表」。 

橋本昭雄「豊日別宮の起源と展開」。 

コトバンク「伝法寺庄」「小向野村」。 

築上町歴史散歩ガイド「本庄の大楠」。 

宇原神社「白庭神社由緒」。  

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