
宇佐津彦清智
――天武王権による一系天皇史の再編集と隋書倭国伝の齟齬
序章
隋書倭国伝を読むとき、まず目につくのは、後世の通念ほどには推古が見えないという事実である。倭国の外交主体として前面に出てくるのは、あくまで「王」であり、日本書紀が描くような「推古天皇の国家外交」という構図は、そのままでは現れない。この齟齬は、単なる記載漏れとして処理すべきではない。むしろ、後に成立した日本書紀の歴史叙述そのものを問い直す入口とみるべきである。隋書は倭国の主体を「王」として把握しており、日本書紀のような推古中心の外交叙述とは構造を異にする。
本ノートは、日本書紀を史実復元の基準史料として用いない。日本書紀は720年に完成した国家的編纂史書であり、編纂の開始は天武朝にさかのぼると考えられている。また、その内容は多様な材料を取り込みつつ、中国正史や古典による潤色を受けており、とりわけ古い時代の記事は、そのまま史実の直写とはみなしがたい。したがって、日本書紀からのみ派生した人物像、宮都比定、事績配列は、まず疑われるべきものである。
この前提に立つなら、推古朝を最初から「天皇の時代」として受け取ることもできない。そもそも「天皇」号の成立については、かつて推古朝説が有力であったものの、現在では天武朝末期、制度的には飛鳥浄御原令の段階に位置づける見解が有力である。日本書紀に見える推古期の「天皇」表現も、8世紀編者の潤色を含む可能性が高い。ゆえに、推古を自明の「天皇」として出発点に置くのではなく、後代の国家理念によって再表現された存在として扱う必要がある。
本ノートの中心仮説は明快である。天武王権は、自らを正統な継承王朝に見せるため、過去を一系の天皇史へ再編集した。その結果、本来はより複雑であったはずの王権構造や外交主体は、歴代天皇を中軸とする滑らかな国家史へ組み替えられた。推古朝もまた、その再編集の中で重要な位置を与えられたと考えられる。すなわち、推古が先に歴史の中に確固として存在し、その事績が記録されたのではなく、天武王権の歴史構成の中で、推古という女性統治者像が政治的に見えるよう配置された可能性を考えるのである。天武朝は681年から律令と史書の編纂事業を進め、後継政権がそれを継承して完成させたとされる。
このとき重要なのは、推古の実在を先に断定したり否定したりすることではない。問うべきは、なぜ日本書紀が推古をこのように描かなければならなかったのか、という点である。なぜ隋書では「王」として見える外交主体が、日本書紀では「推古朝外交」として整理されるのか。なぜ日本書紀は、女性統治者の巻に重大外交や国家的転換を集中させるのか。こうした問いをたどるとき、推古は「見えない人物」ではなく、むしろ後代の王権編纂によって「見えるようにされた人物」として浮かび上がる。
本ノートは以上の立場から、第一に天武王権による一系天皇史の再編集という問題を確認し、第二に隋書倭国伝に見える外交主体を検討し、第三に日本書紀が推古朝をどのように再配置したかを考察する。目的は、推古朝の実態を日本書紀の枠内で復元することではない。むしろ、日本書紀が構成した推古像の政治的意味を解明することにある。
第一章 天武王権は過去を一系の天皇史へ再編集した
本ノートの出発点は、日本書紀をそのまま古代史の基準に置かないという点にある。日本書紀は、単に古い伝承を集めた記録ではない。天武天皇十年(681)に編纂が命じられ、最終的に養老四年(720)に奏上された国家的編纂史書であり、その成立事情そのものが、すでに政治的意図を含んでいる。すなわち、日本書紀は「過去を伝えた書」である以前に、「国家が必要とした過去を整序した書」として読まれねばならない。
ここで重要なのは、編纂の開始が天武朝に属していることである。壬申の乱によって成立した天武王権は、単なる前王権の自然継承ではなく、強い再編性をもった政権として現れる。実際、後代の研究でも、天武朝以後に王権の性格が大きく変化し、日本書紀の最終編纂もまた天武以降の皇統の正統性を示す性格を持つと論じられている。つまり、天武王権には、自らを「新たに成立した支配権力」としてではなく、「正統に継承された中心王権」として見せる必要があったのである。
そのためには、過去を断片のまま残すことはできない。地域差のある伝承、複数の王統記憶、外交主体の揺らぎ、祭祀権と政治権力の重なりといった古い王権の複雑さは、国家の正統史としては扱いにくい。必要だったのは、神代から持統に至るまでが一続きの統治史として読める構造である。日本書紀が、神代から持統までを貫く長大な一系叙述として構成されているのは偶然ではない。そこには、過去の複数性を削り、王権の連続性を前景化する意図がある。
この再編集を考えるうえで、称号の問題はきわめて大きい。現在では、「天皇」号の始用は推古朝ではなく、天武朝末期、制度的には飛鳥浄御原令の段階に位置づける見解が有力である。コトバンクの整理でも、推古朝に「天皇」号があったとする根拠は後代の刻銘や日本書紀の潤色を含むため信用しにくく、近年では天武朝からの使用とみる説が有力とされている。つまり、日本書紀が神武から推古以前の君主までを一様に「天皇」として叙述していること自体が、同時代の実態をそのまま写したものではなく、後に成立した君主号を過去へ遡及的に適用した結果である可能性が高い。
この点は、本章の主張をさらに強くする。もし「天皇」号それ自体が天武朝以後に整えられたものであるなら、日本書紀における歴代「天皇」の整然たる配列は、少なくともそのまま古い時代の自己認識ではありえない。そこに見えるのは、古代の君主たちが最初から同じ制度・同じ称号・同じ統治原理のもとに並んでいた姿ではなく、天武王権が自らの時代に成立させた君主理念を、過去へ投影した歴史像である。日本書紀が一系の天皇史として読めるのは、過去がもともとそうであったからではなく、そう読めるように再編集されたからである。
さらに、日本書紀の編纂目的は、単なる国内向けの家系整理にとどまらない。研究上は、最終編纂段階の日本書紀が、東アジア外交を有利に展開するための勅撰史書という側面を持つことも指摘されている。つまりこの書物は、国内の王統整理であると同時に、対外的に示しうる国家の来歴書でもあった。だからこそ、外交主体が曖昧であったり、王権の中心が多元的であったり、称号が揺れていたりする過去は、そのままでは不都合だったのである。必要とされたのは、「日本には古来より一貫した君主権が存在し、その君主権は現在の王権へと正統に継承されている」という形の歴史であった。
このように見ると、日本書紀の問題は、個々の記述が真実か虚偽かという二択ではない。むしろ重要なのは、どのような編集原理によって過去が一つの国家史へ変換されたかである。天武王権は、壬申の乱後の再編国家を正統な継承王朝として見せるため、過去を一系の天皇史へと組み替えた。その結果、かつてはより複雑であったはずの王権構造、称号、外交主体、女性統治者の位置づけまでもが、後代の国家理念に沿って整え直されたと考えられる。
したがって、推古朝を考える場合にも、最初から日本書紀の叙述を基準に置くことはできない。問うべきは、「書紀にそう書いてあるから推古はこうであった」ということではなく、なぜ日本書紀は、推古をそのように一系天皇史の中へ配置しなければならなかったのか、という点である。次章ではこの問題をさらに進め、隋書倭国伝において倭国の外交主体がどのように記されているかを検討する。そこから、日本書紀に見える推古朝外交との構造的な齟齬が、いっそう明瞭になるはずである。
第二章 隋書倭国伝の外交主体は推古ではなく「王」である
推古朝をめぐる問題を考えるうえで、まず優先されるべきは、日本側の後代史書ではなく、同時代に近い対外史料である。隋書倭国伝は、その点で最重要の史料の一つである。そして、この史料を素直に読む限り、倭国の外交主体として前面に現れるのは、推古ではない。あくまで「王」である。『隋書』巻八十一東夷俀国条は、開皇二十年条で「俀王、姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」と記し、倭国の使者の説明として、その王の政務や后、太子、官制にまで言及している。ここでは主体は一貫して「王」であり、日本書紀のような女性君主中心の叙述は見えない。
この点はきわめて重要である。隋書は、倭国の統治構造について誤認や単純化を含んでいた可能性はあるにせよ、少なくとも隋の担当者が把握した外交上の相手は「王」であった。しかもそれは、抽象的な「君主」ではなく、「阿毎」「多利思比孤」「阿輩雞彌」というかなり具体的な表現を伴っている。つまり隋書の記述構造において、倭国は女性君主推古を前面に立てて中国と交渉した国としては描かれていないのである。
続く大業三年条でも、この構造は変わらない。隋書は「其王多利思比孤、遣使朝貢」と記し、その国書に「日出處天子、致書日沒處天子、無恙云云」とあったとする。ここでも、隋が受け取った外交行為の主体は「其王多利思比孤」であって、推古ではない。のちに日本史で極めて有名になるこの国書も、隋書の文脈では「推古天皇の国書」ではなく、「多利思比孤という王の国書」として現れている。
この隋書の記述は、日本書紀の叙述と明らかにズレる。日本書紀では、推古十五年条に「大礼小野臣妹子を大唐に遣わす」とあり、さらに翌年には「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」とする返書記事が置かれている。つまり日本書紀の表面構造では、遣隋使は推古天皇の治世における国家外交として整然と配列されている。だが、隋書側の把握はそうではない。隋が見ていたのは「王」であり、日本書紀が描くような「推古中心の外交」ではなかった。ここに、両史料のあいだの本質的な齟齬がある。
もちろん、この齟齬をただちに「隋書が正しく、日本書紀が虚構だ」と単純化するべきではない。隋は倭国の内部構造を十分理解していなかったかもしれないし、共同統治的な権力構造を中国的な「王」に翻訳した可能性もある。また、実務担当者や実権者を「王」とみなした可能性もある。しかし、ここで重要なのは、説明の最終形を急ぐことではない。重要なのは、隋書には推古が見えないという事実そのものである。もし推古が後世の通念どおり、自明の外交主体であったなら、少なくともここまで徹底して「王」だけが前景化されるのは不自然である。
このことは、前章で述べた「天武王権による一系天皇史への再編集」という仮説と深く結びつく。すなわち、隋書が見ていたのは、なお称号も主体も固定しきらない倭国の王権であり、その外交主体は「王」として把握された。他方、日本書紀は、その複雑な現実を後代の天皇史の中へ収める必要があった。その結果、もともとは多元的・分担的であったかもしれない外交主体は、推古天皇の治世に属する国家外交として整理されたのである。隋書と日本書紀のズレは、単なる伝聞の誤差ではなく、歴史叙述の再編集が生んだ構造的なズレとして読むべきであろう。
しかも、ここでさらに留意すべきは、当時なお「天皇」号そのものが制度的に確立していなかった可能性が高いことである。そうである以上、日本書紀が推古を当然のように「天皇」として据え、遣隋使をその国家外交として配列している構図は、同時代の自己表現をそのまま保存したものとは考えにくい。隋書の「王」と、日本書紀の「推古天皇」との落差は、まさにこの後代的再表現の痕跡として理解されるべきである。
したがって、本章の結論は明確である。隋書倭国伝における倭国の外交主体は、推古ではなく「王」である。しかもその王は、具体的な名と称を伴って記されている。この事実は、日本書紀に見える推古朝外交の構図を、そのまま同時代の実態として受け取ることを困難にする。次章では、この齟齬をさらに押し進め、日本書紀がいかにして複雑な権力構造を「推古朝の天皇史」へ組み替えたのかを考察する。
第三章 日本書紀は複雑な権力構造を推古朝の天皇史へ組み替えた
前章で確認したように、隋書倭国伝において倭国の外交主体は一貫して「王」である。そこに、日本書紀が描くような「推古天皇を中心とする国家外交」は、そのままの形では現れない。だとすれば、ここで問うべきは、隋書が誤ったのかという単純な二者択一ではない。むしろ、日本書紀が、当時なお複雑であったはずの権力構造を、どのようにして「推古朝の天皇史」へ組み替えたのか、という点である。
仮に日本書紀の叙述に従えば、推古朝はきわめて整然とした時代として現れる。推古は即位し、そのもとで厩戸皇子が政治を補佐し、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使、仏教興隆といった国家形成上の諸事績が次々に配される。だが、この整然さ自体が、まず疑われねばならない。なぜなら、こうした叙述は、後代の律令国家から振り返ったときに初めて意味をもつ制度史的配列であり、同時代の権力のあり方をそのまま反映したものとは限らないからである。『日本書紀』は720年に完成した勅撰史書であり、その編纂は681年に始められた。したがって、推古朝記事は、推古朝そのものの自己表現ではなく、天武以後の国家理念を通して再配置された歴史像として読む必要がある。
この点で特に重要なのが、推古朝における「皇太子」と「摂政」の扱いである。日本書紀は、厩戸皇子を推古のもとで政務を補佐する中枢人物として描き、後世の理解ではこれが「聖徳太子摂政」という形に固定されてきた。しかし、現在の研究では、推古朝に後世的な意味での「皇太子」や、天皇大権を全面的に代行する制度化された「摂政」が存在したとそのまま認めることには慎重であるべきだとされる。つまり、日本書紀が示す推古・厩戸皇子の関係そのものが、後代の政治制度に照らして整理された可能性が高いのである。
ここから見えてくるのは、推古朝の権力構造が、本来は日本書紀の描くほど単純ではなかったということである。推古という女性君主がいただけではなく、その周囲には蘇我馬子のような有力氏族の首長、厩戸皇子のような王族政治主体、さらに対外交渉を実際に担った使節や地方拠点が複合的に存在していたはずである。隋書が外交主体を「王」として把握したのは、こうした複数的な権力構造のうち、隋側から見て最も代表的に映ったものを単純化して記した結果であった可能性がある。だが、日本書紀にとって必要だったのは、そのような複合性を残すことではなかった。必要だったのは、それらをすべて「推古天皇の治世」に属する国家事業として収め直すことであった。
この再配置は、単なる人物の書き換えではなく、権力の中心の書き換えである。もともと誰がどの程度の実権をもち、誰が外交の実務を担い、誰が宗教的権威を帯びていたのかは、同時代の一次的な日本側史料が乏しい以上、簡単には復元できない。だが、少なくとも隋書の段階では「王」が前面にあり、日本書紀の段階では「推古朝」という枠が前面にある。この差は、単なる呼称の違いではない。前者が外交現場で把握された主体であるのに対し、後者は後代の王統史の中で整えられた主体だからである。すなわち、日本書紀は、複雑な政治の実態をそのまま伝えたのではなく、後代の天皇中心国家にふさわしいよう、推古を軸に再編集したのである。
しかも、この再編集は、推古という人物一人だけを立てることにとどまらない。推古朝には、国家形成を象徴する事績が集中的に配されている。冠位十二階、十七条憲法、遣隋使、仏教受容の進展などは、いずれも後代の律令国家から見れば「国家の起点」として意味づけやすい項目である。日本書紀は、それらを一つの時代へ集約することによって、推古朝を「天武・持統国家の前史」として読める形にした。言い換えれば、推古朝は、過去の断片を寄せ集めた時代なのではなく、国家形成の起点として後から編集された時代として現れているのである。
ここで、女性統治者としての推古の意味も見えてくる。前に触れたように、日本書紀は神功皇后・推古天皇・斉明天皇という女性統治者の巻に、重大外交や対外危機を集中的に配している。この構造に照らすなら、推古は単なる在位者ではなく、「女性でも国家外交を担いうる」という歴史的先例として機能している。もしそうであるなら、日本書紀が推古朝の権力構造を単純化し、外交主体を推古の治世へ統合したことには、単なる整理以上の意味がある。それは、持統を含む後代の女性君主制を正統化するための歴史叙述上の布置である。推古は、そのような先例として“見えるように”置かれた可能性が高い。
さらに重要なのは、この時期においてなお「天皇」号そのものが制度的に確立していなかった可能性が高いことである。現在では、「天皇」号の始用は推古朝ではなく天武朝末期に求める見解が有力であり、日本書紀に見える推古以前の「天皇」像は、後代の称号を遡及的に付与したものとみられる。そうである以上、日本書紀が描く「推古天皇の治世」という枠そのものが、同時代の自己認識の保存ではなく、後代の国家理念による整形であると考えねばならない。隋書の「王」と日本書紀の「推古天皇」とのあいだには、称号の違い以上に、歴史の組み替えが介在しているのである。
したがって、本章の結論は次のようになる。日本書紀は、推古朝の実態をそのまま保存した史書ではない。むしろ、本来は複合的で、なお固定しきらない王権構造を、天武以後の天皇中心国家に適合する形へ整理しなおした史書である。その再編集の中で、外交主体は「王」から「推古朝の国家外交」へ、複数的な政治主体は「推古天皇の治世」へ、そして流動的な権力関係は「一系天皇史の一時代」へと組み替えられた。推古が歴史の中に最初から明瞭に存在したのではなく、日本書紀が推古を明瞭に見える位置へと据えたのである。
次章では、この推古像の再配置が単独の現象ではなく、日本書紀全体における女性統治者の配置戦略の一部であることを検討する。神功皇后、推古、斉明に重大外交や国家的危機が集中する構造を見れば、推古が「見えるようにされた」理由はいっそう明確になる。
第四章 なぜ推古でなければならなかったのか
――女性統治者に重大外交と国家的転換が配される構造
ここまで見てきた問題は、推古一人の特殊事情として片づけるべきではない。むしろ日本書紀全体の構造の中で見ると、推古はある反復の中に置かれている。その反復とは、重大外交、対外危機、国家的転換が、女性統治者の巻に集中的に配されるという事実である。神功皇后には三韓出兵の物語が与えられ、推古には対隋外交と国家形成の起点が与えられ、斉明には白村江前夜の国家動員が与えられる。これを偶然の並びと見るより、書紀編纂の政治的な配置と見る方が自然である。神功皇后の対外出兵譚は『日本書紀』における神功伝承の初期形として強い位置を占め、後世にも繰り返し利用されたことが指摘されている。
この配置の意味を考えるとき、まず重要なのは、女性統治者が日本書紀の中で単なる「中継ぎ」として処理されていないことである。推古・皇極/斉明・持統といった女性君主は、日本の王統の中で現実に大きな位置を占めており、しかも7世紀前後の王位継承は不安定であったことが指摘されている。したがって、女性君主の存在は後代の編纂者にとって消し去るべき例外ではなく、むしろ正統な王権の一部として意味づけ直す必要のある事実だった。
ここで推古が持つ意味は大きい。前章で見たとおり、隋書倭国伝の外交主体は「王」であって、推古ではない。にもかかわらず、日本書紀は推古朝を、遣隋使・制度整備・仏教興隆の時代として整然と構成している。これは単なる年代整理ではない。むしろ、女性統治者のもとでも国家は外交を行い、制度を整え、外へ向かって自らを表現できるという像を、過去の中に埋め込む作業であったと見るべきである。推古は、後代の女性君主制を歴史的に支える先例として、きわめて都合のよい位置に置かれている。
このことは、持統の位置を考えるとさらに明瞭になる。持統は現実の女性君主であり、しかも天武王権の継承と安定化にとって決定的な役割を果たした。そのような王権が過去を一系の天皇史へ再編集するとき、女性統治者の存在を単に認めるだけでは足りない。女性でも王権を担いうること、さらに外交や国家的危機の局面においてもそれが可能であることを、歴史叙述の中で先例化する必要があったはずである。7〜8世紀初頭の日本では、女性天皇の存在は唐制の単純な模倣では説明しきれず、すでに推古・皇極/斉明・持統といった先例をもつ政治文化の中で理解されるべきことが指摘されている。
この観点から見ると、神功・推古・斉明の並びは、一つの物語的装置として読める。神功は神意を受けて外へ向かう女性統治者、推古は外交と制度化を担う女性統治者、斉明は国家総動員の入口に立つ女性統治者である。三者は性格を異にするが、共通しているのは、女性であっても国家の外向きの局面を担いうるという一点である。日本書紀は、この像を断続的に配することで、女性君主を異例の例外ではなく、歴史の節目を担う正統な主体として見せている。
しかも、この配置は単なる女性礼賛ではない。むしろ、王権の不安定さを包み込み、継承の断絶をなめらかに見せるための装置として機能している。壬申の乱を経て成立した天武王権にとって、過去を断絶ではなく連続として語ることは不可欠だった。その際、女性統治者は、強力な男性実力者どうしの対立をそのまま表に出さず、王統の連続を表象するための媒介として有効だったと考えられる。推古朝においても、実際の権力がより複合的であったとしても、それを「推古天皇の治世」という安定した一時代へ収めることで、王権の連続性は見えやすくなる。ここでも推古は、実態の反映というより、王統史の中で安定を演出する節点として機能している。
このように考えるなら、推古が日本書紀において強く見える理由は明らかになる。推古は、実際の外交主体がどうであったかという問題とは別に、女性君主でも国家外交を担いうることを示すために、見えるよう配置されたのである。これは単に推古を美化したという話ではない。持統を含む女性君主制の現実を、過去の先例によって正統化するための歴史叙述上の操作である。日本書紀が女性統治者の巻に重大外交や国家的転換を集中させているのは、そのためである。
したがって、本章の結論は次のとおりである。推古が日本書紀において大きく見えるのは、隋書が記した現実の外交主体をそのまま保存したからではない。そうではなく、神功・推古・斉明という女性統治者の連なりの中に推古を組み込み、女性でも国家を統べ、外交を遂行し、危機に対処しうるという歴史像を構成するためであった。推古は、そのような先例化の中で可視化された存在なのである。
結論
推古は「見えない人物」ではなく、日本書紀によって「見えるようにされた人物」である
本ノートがここまで追ってきたのは、推古という人物の実在そのものではなく、なぜ推古が歴史の中でこれほど明瞭に見えるのかという問題であった。隋書倭国伝において、倭国の外交主体として前面に現れるのは一貫して「王」であり、日本書紀が描くような「推古天皇の国家外交」は、そのままの形では見えない。ここにあるのは単なる記録の不足ではなく、二つの史料が異なる歴史構造を示しているという事実である。すなわち、隋書は外交現場で把握された主体を「王」として記し、日本書紀はそれを後代の一系天皇史へ組み替えている。推古の鮮明さは、この組み替えの結果として理解されるべきものである。
第一章で見たように、日本書紀は古い伝承を無垢に保存した書ではない。681年に編纂が命じられ、720年に完成した勅撰史書として、それは天武王権以後の国家理念を帯びている。そこでは過去の複数的な王権記憶や流動的な称号、複雑な権力構造が、神代から持統に至る一続きの「天皇史」へ再編集された。とりわけ、「天皇」号そのものが天武朝末期に制度化した可能性が高い以上、日本書紀が推古以前の君主たちを当然のように「天皇」として並べていること自体、後代の君主理念の遡及適用と考えるほかない。推古は、最初からそのような形で存在したのではなく、天武王権が必要とした歴史形式の中で「天皇」として立ち現れたのである。
第二章では、隋書倭国伝の記述構造を確認した。そこでは、倭国の主体は「王」であり、その名は多利思比孤とされる。たとえこの表記が誤認や単純化を含んでいたとしても、少なくとも隋が相手取ったのは、日本書紀のような「推古天皇」ではなかった。ここで重要なのは、隋書が完全に正しいかどうかではなく、日本書紀の推古朝外交という構図が、同時代の対外史料とそのままは一致しないという点である。このズレは、後代の編纂によって外交主体が整理し直されたことを示唆する。
第三章では、日本書紀がこのズレをどのように処理したかを見た。推古朝には、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使、仏教興隆といった国家形成上の重要な事績が集中的に配されている。だが、その整然さは、同時代の実態をそのまま示すというより、後代の律令国家から見て意味のある事績を一つの時代へ集約した結果とみるべきである。推古朝の権力構造は、本来、女性君主、王族、蘇我氏、有力氏族、外交使節などが交錯する複合的なものであった可能性が高い。しかし日本書紀は、それを「推古天皇の治世」という単一の天皇史へ収め直した。ここにおいて推古は、複雑な政治現実の一要素であるより、国家形成の起点を担う人物像として再構成されたのである。
第四章では、推古の再構成が孤立した現象ではないことを示した。日本書紀は、神功皇后、推古天皇、斉明天皇という女性統治者の巻に、重大外交、対外危機、国家的転換を集中的に配している。この配置は偶然ではない。むしろ、女性でも国家を統べ、外交を遂行し、危機に対処しうることを歴史叙述の中で先例化するための布置と考える方が整合的である。天武・持統王権が女性君主の存在を現実に抱えていた以上、日本書紀が過去の中にその先例を必要としたことは十分に理解できる。推古は、その連なりの中で、女性統治者による国家外交の典型として可視化されたのである。
以上を踏まえると、結論は明快である。推古は、「もともと歴史の中に明瞭に見えていた人物」ではない。隋書の段階では、倭国の外交主体は「王」として把握されており、日本書紀が示すような推古中心の国家外交像は、そのままには存在しない。推古が大きく見えるのは、日本書紀が彼女を、天武王権にとって都合のよい一系天皇史の中へ再配置し、国家形成と対外外交を担う女性統治者として描きなおしたからである。すなわち、推古は「見えない人物」なのではなく、日本書紀によって「見えるようにされた人物」である。
このことは、推古だけにとどまらない。むしろ本ノートの最も重要な帰結は、天武以前の天皇像を、日本書紀の叙述どおりに受け取ってはならないという点にある。日本書紀は、天武王権の正統化のために過去を一系の天皇史へ組み替えた史書であり、その中で人物像、称号、宮都、事績、外交主体までもが後代の国家理念に照らして整形されている。したがって、今後の課題は、日本書紀から歴史を復元することではなく、日本書紀がどのような政治的必要からその歴史を構成したのかを解読することにある。推古は、その解読の入口として、きわめて象徴的な存在なのである。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
関連テーマ
注
- 『隋書』巻八十一「東夷伝 俀国」には、開皇二十年条に「俀王、姓阿毎、字多利思北孤、号阿輩雞弥」とあり、大業三年条にも「其王多利思北孤遣使朝貢」とある。少なくとも隋側の把握において、外交主体は推古ではなく「王」であった。
- 『隋書』同条に見える「日出處天子、致書日没處天子」の国書は、日本史上しばしば推古朝外交の象徴として扱われるが、隋書本文ではあくまで「其王多利思北孤」の国書として記されている。したがって、これを直ちに「推古天皇の国書」とみなすことはできない。
- 日本書紀の編纂は、一般に天武天皇十年(681)の史書編纂命令に始まり、養老四年(720)に完成したとされる。ゆえに、日本書紀は推古朝同時代の自己記録ではなく、天武以後の王権理念を経た編纂史書として読む必要がある。
- 推古朝について、日本書紀が描く「皇太子」「摂政」の構図をそのまま制度史上の事実とみることには慎重であるべきだという見解が近年の研究で有力である。東野治之は、現在の古代史研究では、推古朝に「皇太子」という地位や、天皇大権を全面的に代行する「摂政」が存在したことは否定されていると述べている。
- 以上の点から、本ノートでは日本書紀を史実復元の基準史料とはせず、隋書のような対外史料と、日本書紀の叙述構造との齟齬そのものを検討対象とした。とくに推古朝については、日本書紀的な「推古天皇中心史観」が後代の再編集である可能性を重視した。
- 本ノートでいう「推古は見えない人物ではなく、見えるようにされた人物である」という命題は、推古の実在そのものを直ちに否定するものではない。そうではなく、隋書が示す外交主体の把握と、日本書紀が示す推古朝叙述のあいだに構造的な再配置が存在する、という意味で用いている。
参考文献
一次史料
- 『隋書』巻八十一「東夷伝 俀国」
- 『日本書紀』
研究文献
- 東野治之「聖徳太子の人物像と千三百年御忌」『天台学報』77巻1号、2022年。
参考
- 日本書紀編纂事情、天武朝から養老四年成立までの一般的整理については、各種古代史概説・事典類を参照。


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