
宇佐津彦清智
――日本書紀編纂過程に先行した王統と神話の骨格
はじめに
『古事記』とは何か。
この問いは、単に『古事記』の真偽や成立年代をめぐる論争にとどまらない。むしろ問題は、『古事記』を『日本書紀』とどのような関係に置いて読むかにある。『日本書紀』は、681年に編纂開始が命じられ、720年に完成した勅撰正史として、神代から持統朝までを漢文・編年体で貫く国家史の体裁を備えている。これに対して『古事記』は、序文の自己説明に従えば711年に筆録が命じられ、712年に献上されたことになるが、その後の公的運用の痕跡は薄く、現存最古の写本も真福寺本まで大きく隔たっている。完成した国家正史としては、どこか座りが悪いのである。
しかし、その不自然さをもって直ちに『古事記』全体を偽書とみなす必要はない。むしろ重要なのは、本文と、その成立を語る序文とを分けて考えることである。『古事記』本文には上代特殊仮名遣いの研究対象となる古い言語層が認められ、全面的な中世新作とは考えにくい。他方、成立事情を語る序文は、あまりに整いすぎていて、後代の正統化を疑わせる。したがって、本稿は『古事記』を、完成した独立史書としてではなく、『日本書紀』へ至る長い国家編纂過程の中で、一度先に切り出された王統と神話の骨格文書として読む可能性を検討する。
一 古事記と日本書紀は同じではない
『古事記』と『日本書紀』は、しばしば「記紀」と総称され、あたかも同じ内容を異なる文体で伝える双子の史書のように扱われる。しかし、両者をそのように理解することは適切ではない。両書の違いは、単に分量や記述の細かさの差ではなく、何を記し、何を見せ、何を国家の記憶として固定しようとしたかという、書物の機能そのものの差に及んでいる。
まず『日本書紀』は、明らかに国家の正史として構成されている。神代から持統朝までを漢文・編年体で貫き、王統の来歴を一つの連続した国家史として読ませる構造を持つ。そのため、各巻の記述は単なる人物伝ではなく、王権がいつ成立し、どのように外へ向かい、いかなる制度を整え、どのように列島を統合していったかを示す方向に強く傾く。欽明紀で百済関係が異様に厚くなるのも、推古紀で遣隋使・制度・仏教が集中的に配置されるのも、景行紀で九州遠征や巡幸が大きく膨らむのも、偶然ではない。そこにあるのは、古い王統の節目に対して、外交史・制度史・征服史という国家的意味を後から大きく実装するという日本書紀の編集原理である。
ここで重要なのは、日本書紀が「過去に起きた出来事をそのまま保存した書」ではなく、国家として意味のある過去へと再配列した書だという点である。すなわち日本書紀は、王たちを順番に並べただけでは終わらない。各王の時代を、後代の国家から見て必要な主題へ結びつける。ある王のもとでは対外関係を語り、ある王のもとでは制度の起源を語り、ある王のもとでは征服と巡幸を語る。こうして、日本書紀は古い王統の節目を、単なる系譜の切れ目ではなく、国家形成の節目へと読み替えていくのである。
これに対して『古事記』は、まったく別の性格を持つ。
『古事記』が示そうとするのは、完成した国家史ではなく、むしろ王統と神話の骨格である。全ての天皇を均等に詳述するのではなく、神武、崇神、景行、神功、仁徳、武烈、継体のように、王統の始まり、国家形成、支配拡大、危機、再接続といった節目だけが際立って厚くなる。逆に言えば、そこに当たらない箇所は驚くほど薄い。ここに見えるのは、史料の残存量の差というより、どこを王統の節目として見せたいかという編集上の強弱である。
たとえば、神武は王統の起点として厚い。崇神は「初国知らす」天皇として、国家形成の起点を担う。景行は列島支配の拡大局面として厚くなり、神功は王統接続と対外物語の節点を担う。仁徳は王権の理想像として大きく描かれ、武烈と継体は断絶と再接続の節目として重く扱われる。こうして見ると、『古事記』の厚さは「伝承が多かったから」ではなく、王統がどこで始まり、どこで揺らぎ、どこでつなぎ直されたかを示すための厚さであることが分かる。
しかも、この傾向は下巻の終わり方にも現れている。
『古事記』は推古で終わる。もしこれが、後の国家が自らの正統性を完成形として示す書であるなら、本来は天武・持統まで届いていてよいはずである。にもかかわらず、そこで終わるということは、『古事記』が後代国家の完成した自己表現ではなく、より早い段階で整理された王統の骨格を強く残していることを示唆する。推古で止まる中途半端さもまた、『古事記』の性格をよく物語っている。そこに見えるのは、完成品の均整ではなく、節目だけが先に固定された文書の手触りである。
さらに、神話の構造もこの違いを裏づける。
『古事記』では、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神という造化三神が、世界生成の根源に位置づけられている。ところが『日本書紀』では、この根源性が本伝の中心から後退し、より整理された国家神話の秩序へ再配置される。つまり神話の段階からすでに、『古事記』は根の深い骨格を示し、『日本書紀』はその骨格を国家の物語へ組み替えているのである。
したがって、両者の違いは単なる詳略ではない。
『古事記』は、何が王統の節目かを示す書である。
『日本書紀』は、その節目に国家的意味を与える書である。
前者は骨格を提示し、後者はその骨格に国家史・外交史・制度史・征服史を埋め込む。そう考えると、両書は「同じものを別の文体で書いた書」ではなく、同一の国家編纂方向の中で、異なる役割を分担した書とみる方がはるかに自然である。
二 古事記は「原型」ではないが、日本書紀ほど加工されていない
ここで注意すべきは、『古事記』をそのまま無垢の原型、あるいは「日本書紀に加工される前の下書き」と見てしまわないことである。そうした理解は、一見分かりやすいが、実際には古事記そのものの編集性を見落とす危険がある。古事記もまた、神話と王統を一定の秩序のもとに配列した編纂物であり、そこには当然ながら取捨選択と強弱づけがある。すなわち、古事記は自然に残った古伝の堆積ではなく、すでに一度整理され、見せたい構図に沿って形を与えられた書である。
このことは、古事記の神話部分を見ればすぐに分かる。古事記では、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神という造化三神が、世界生成の根源に位置づけられる。これに対し、日本書紀では多くの本文系統で別の創世秩序が前面に立ち、造化三神の根源性は相対的に後退する。つまり古事記もまた、無加工の素材集ではなく、何を世界の根本と見せるかという神学的・構造的判断をすでに含んでいるのである。違いは、古事記が編集されていないことではなく、日本書紀とは別の仕方で編集されている点にある。
また、王統叙述のあり方を見ても、古事記は決して「ありのまま」の記録ではない。すべての天皇が均等に詳しく扱われるわけではなく、神武、崇神、景行、神功、仁徳、武烈、継体のような、王統の起点・展開・危機・再接続を担う節目が厚くなる一方、その他の代は驚くほど簡略である。これは、たまたま史料が多かったり少なかったりした結果ではない。むしろ、どこを王統の切れ目として見せたいかが先にあり、その重要度に応じて叙述の厚みが決められていると理解すべきである。古事記は、全部の歴代を均等に記す書ではなく、王統の節目だけを強く浮かび上がらせることで、一つの王統像を示す書なのである。
しかし、そのような編集性を認めたとしても、なお古事記には、日本書紀ほどには国家史化されていない手触りが残る。ここが重要である。日本書紀は、六国史の第一として、神代から持統朝までを漢文・編年体で統一的に貫き、対外的にも提示しうる国家正史として整えられている。そこでは、王統の節目は必ず外交史・制度史・征服史の起点へと読み替えられ、古い王の時代に後代国家の意味が厚く書き込まれる。欽明紀に百済記事があれほど長く置かれること、景行紀に九州遠征が国家的規模で膨らむこと、推古紀に制度・仏教・遣隋使が集中的に載せられることは、その典型である。
これに対し、古事記は、同じ人物や時代を扱っていても、そこまで国家的意味を過剰に肉付けしない。たとえば推古は、日本書紀では国家形成と外交の大きな節点として可視化されるが、古事記では極めて薄い。これは、古事記が推古を重要人物とみなしていないというより、まだ推古の時代に国家史的意味を十分に実装していないことを示している。欽明についても同じで、古事記は王統上の位置を押さえる一方、日本書紀ほどには百済関係を執拗に展開しない。景行についても、古事記は節目としての王を示すが、日本書紀のように九州支配史の前史として大きく増幅はしない。要するに、古事記は節目を示すが、日本書紀ほどにはそこへ国家内容を書き込まないのである。
この違いをどう理解すべきか。
ここで最も自然なのは、古事記を「原型」とまで言わずとも、日本書紀ほど国家的加工を受けていない比較対象とみなすことである。すなわち古事記は、すでに一度編集された書ではあるが、日本書紀のような完成した国家正史に比べれば、なお古い骨格を保っている。だからこそ、古事記と日本書紀の差を比較することで、日本書紀がどこにどのような国家的意味を後から盛ったかが見えてくる。
さらに、この見方を裏づけるのが、古事記本文の言語層である。古事記は、上代特殊仮名遣いの研究で重要なテキストとされてきた。これは、本文が少なくとも古い言語的層を保持していることを示す。もし古事記全体が後世の整然たる創作物であるなら、こうした古層はもっと均質に整理されていてよい。しかし実際には、古事記は内容上も言語上も、どこか整理されきっていない。厚い部分と薄い部分の差が大きく、神話と天皇記の接続も、完成した国家正史ほど滑らかではない。この中途半端さこそ、古い素材と編纂意図がぶつかったまま残っている書の特徴と見ることができる。
したがって、古事記をどう位置づけるべきか。
それは「原型か完成品か」の二択ではない。古事記は原型ではない。だが、日本書紀のような完成した国家正史でもない。より正確に言えば、古事記はすでに編集された骨格であり、日本書紀はその骨格に国家の都合に応じた詳細を実装した書である。前者は節目を示し、後者はその節目に国家的意味を与える。この関係で捉えるとき、古事記の不揃いさ、日本書紀の過剰な完成度、そして両者の奇妙なズレは、初めて一つの編纂過程として理解できるようになる。
三 推古で終わることの意味
『古事記』が推古で終わることは、きわめて大きい。
単に「そこで筆が尽きた」というような偶然の問題ではなく、この書が何を目的としてどの段階で切り出されたのかを考える上で、最も重要な徴候の一つである。一般に『古事記』は上巻・中巻・下巻の三巻から成り、下巻は仁徳天皇から推古天皇に及ぶと整理されている。つまり、現存の古事記は、意識的に推古を終点としている。これは、偶然の欠落というより、そこまでを一つのまとまりとして見る編集感覚があったことを示している。
だが、もし『古事記』が天武・持統王権にとっての完成した正統書であるなら、本来は持統まで届いていてよいはずである。
というのも、『日本書紀』が実際に持統朝までを扱い、しかも天武・持統期を、国家形成と王統正統化の最重要局面として大きく組み込んでいるからである。日本書紀においては、壬申の乱、天武王権の成立、持統による継承秩序の安定化こそが、現王権につながる核心である。そうである以上、古事記だけがそこへ至らず、推古で止まってしまうのは、完成した現王権の正統史としては不自然である。むしろここには、古事記が現王権の完成版国家史ではなく、それ以前の段階で一度まとめられた文書であるという事情が表れている。
この不自然さは、推古の扱い方を見るとさらに鮮明になる。
『日本書紀』における推古朝は、後代から見てほとんど「初期国家完成の入口」として設計されている。そこには、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使、仏教興隆など、国家形成上の重要事績が集中的に配される。しかもそれらは、単なる政治事件としてではなく、倭国が東アジア世界の中で国家として自己を表現しはじめる節点として置かれている。だから日本書紀では、推古は単なる一代の女帝ではなく、天武・持統国家の前史を担う大きな人物として見えてくる。
ところが『古事記』では、その推古が驚くほど薄い。
これは非常に示唆的である。もし推古朝が、最初から国家形成史の中心として古代日本の記憶に固定されていたなら、古事記においてもそれに見合う厚みを持っていてよい。だが実際にはそうなっていない。ということは、推古朝が「国家形成の節点」として大きく見えるのは、少なくとも古事記の段階ではまだ十分に実装されておらず、後に日本書紀の国家史叙述の中で初めて重くされた可能性が高いのである。言い換えれば、推古は古代の記憶の中で最初から大きかったのではない。国家正史の構築の中で、大きく見えるようにされたのである。これは、前の研究ノートで述べた「推古は見えない人物ではなく、日本書紀によって見えるようにされた人物である」という結論とも一致する。
ここで注目すべきは、推古で終わるという事実が、単なる「不足」ではなく、古事記がどこまでの素材を骨格として先に固定していたかを示していることだ。
古事記の下巻後半は、全体として記述密度が落ちる。つまり、王統はなお続いているのに、その時代を国家史として膨らませる作業は、まだ十分には行われていない。これは、古事記が「全部を書ききれなかった本」というより、当時までに整理済みだった王統骨格を一度まとめた本と考える方が自然である。推古まででひとまずまとまり、そこから先、つまり天武・持統へつながる現王権の正統化、外交史・制度史・国家神話としての完成は、別の段階で行われた。その後段作業を担ったのが日本書紀だった、とみると、二書の役割差もよく説明できる。
さらに言えば、推古で終わることは、古事記が**「王統の骨格はここまでで一度整えられていた」ことの証拠とも読める。
神武から推古までを一つの大きなまとまりとして見れば、そこには神代から古代王統の節目が一通り並ぶ。神話、王統起源、初期国家形成、列島支配の拡張、王統危機と再接続、そして最後に推古という転換点までが収まる。つまり、推古で切ることによって、古事記は「神話から古代王統の基礎が固まるまで」**を一括して示しているとも言える。その意味で推古は終点であると同時に、そこまでが先行して固定された範囲を示す境界でもある。
したがって、『古事記』が推古で終わることは欠点ではない。
むしろそれは、長い編纂事業の中で、王統と神話の骨格が推古までの層で一度まとまり、その後の現王権に関わる国家史的肉付けは別工程に回されたことを示す徴候と読むべきである。『古事記』は「足りない」のではない。そこまでしか、まだ国家的完成形として実装されていなかったのである。
この意味で、推古で終わるという中途半端さは、『古事記』が完成した正史ではなく、日本書紀編纂過程に先行して切り出された王統と神話の骨格であることを、むしろ最もよく示している。
四 長い編纂事業の途中成果としての古事記
『古事記』序文は、天武天皇が帝紀・旧辞を正そうとして稗田阿礼に誦習させたこと、そして元明天皇が和銅四年九月に太安万侶へ筆録を命じ、翌和銅五年正月に献上されたことを語る。この自己説明を全面的に信じる必要はないが、少なくともここから読み取れるのは、『古事記』が711年から712年の数か月で無から創作された本ではない、ということである。むしろ、この序文が真実をそのまま伝えているかどうかは別としても、『古事記』が短期間の筆録の前に、すでに長い準備過程を背後に持つことだけは示唆している。『古事記』成立をめぐる研究でも、問題は本文そのものよりむしろ成立事情を語る枠組みに集中しており、序文の不自然さが古事記偽撰説・偽書説の論拠になってきたことが指摘されている。だが逆に言えば、その不自然さは、本文の背後により長い編纂蓄積があった可能性をも開く。
ここで重要なのは、『日本書紀』の編纂開始が681年に命じられ、完成が720年であるという、きわめて長い時間幅である。一般に『日本書紀』は養老四年に完成した最古の正史とされるが、その起点は天武朝にあり、国家的な史書編纂事業として構想されていた。つまり、681年から720年までには、およそ四十年近い編纂の時間が横たわっている。その中間に位置する712年の『古事記』を、これと無関係な単独作品として見るより、同一の長期編纂事業の途中で一度切り出された文書とみる方がはるかに自然である。
この理解に立つと、『古事記』に厚く残る節目天皇の叙述も説明しやすくなる。神武・崇神・景行・神功・仁徳・武烈・継体といった箇所が厚いのは、それらが偶然に伝承豊富だったからではない。そうではなく、長い整理過程の中で、王統のどこを切れ目として見せるべきかが、すでにかなり早い段階で定まっていたからである。王統の起点、国家形成、支配拡大、危機、再接続という節目は、後に国家正史を作るにせよ、その前段階でまず骨格として確定しておく必要がある。『古事記』は、その節目だけを先に文書として可視化したものと考えると、叙述の強弱がきわめてよく理解できる。つまり『古事記』は、すべてを均質に記す書ではなく、王統の節目を固定するための書なのである。
その一方で、『日本書紀』はその節目を引き継ぎながら、そこへ外交史、制度史、征服史、さらには国家神話としての順位づけを加えていく。前節で見たように、欽明では百済関係、景行では九州遠征、推古では遣隋使と制度整備が極端に厚くなる。これは、王統の骨格そのものを作っているのではなく、すでにある骨格を国家史として完成させる作業と考える方が自然である。したがって二書の差は、単なる文体の違いではなく、編纂段階の違いである。『古事記』は節目を固定し、『日本書紀』はその節目に国家的意味を実装する。そう見れば、両書のズレは欠陥ではなく、役割の差として理解できる。
この意味で、『古事記』を「日本書紀の原型」と呼ぶのは単純すぎる。原型と言えば、あたかも『日本書紀』が『古事記』をもとにそのまま拡張されたかのように聞こえるが、実際にはそうではない。『古事記』もすでに編集された書であり、しかも創世神話の重心、王統の強弱、天皇の厚薄などにおいて、日本書紀とは異なる独自の判断を含んでいる。したがって、より適切なのは「原型」ではなく、日本書紀編纂の途中成果、あるいは長い国家編纂事業の前半的到達点という理解である。そこでは神話と王統の骨格が先に整理され、その後、その骨格に国家史的詳細を盛る作業が続いた。『古事記』は、その前半のまとまりとして読むことで最もよく理解できる。
さらに言えば、ここで「途中成果」という語を使うのは、単に未完成という意味ではない。むしろ、その段階で一度提出しなければならなかったものという意味である。国家が自らの起源を整える際、外交史や制度史の細部は後からでも補える。だが、王統がどこから始まり、どこで区切られ、どの神話秩序の上に乗っているかという骨格は、先に固定しなければならない。そうでなければ、後に肉付けする国家史そのものの依って立つ土台が定まらないからである。『古事記』が推古で終わり、しかも推古そのものは薄いにもかかわらず、そこまでで一度閉じていることは、まさにこの「骨格の先行固定」を感じさせる。『古事記』は完成品ではないが、だからこそ、日本国家が最初に固定しようとした起源の骨格を、かえってよく保存しているのである。
したがって、『古事記』を「急ごしらえの小史」とみるのは誤りである。
そうではなく、681年に始まった長い史書編纂の中で、まず王統と神話の節目だけが整理され、その骨格が711–712年の段階で一度文書として現れた、と理解すべきである。その後、日本書紀はその骨格を引き継ぎつつ、国家正史として必要な外交史・制度史・征服史・対外秩序の意味づけを加え、720年に完成した。
このように見たとき、『古事記』は単なる前史ではない。
それは、日本書紀へ向かう長い編纂事業の中で、最初に可視化された国家起源の骨格なのである。
五 なぜ古事記は社会的に見えにくいのか
しかし、ここで新たな問題が生じる。
もし『古事記』が712年に成立した重要文書であり、しかも王統と神話の骨格を担う国家的な書であったなら、なぜその後の社会的痕跡はこれほど薄いのか。成立事情をそのまま信じるなら、『古事記』は和銅五年(712)に献上されたことになる。ところが、その後の奈良・平安期において、『古事記』が国家の表舞台で継続的に使われたことを示す材料はきわめて乏しい。よく知られているように、『続日本紀』には『日本書紀』完成の記事が見えるのに対し、『古事記』提出に対応する強い記事は見えにくい。また、現存最古の写本は真福寺本であり、その成立は1371–1372年である。すなわち、712年成立とされる書が、現存写本の上ではおよそ660年後になって初めて確かな姿を見せるのである。これは、完成した国家正史としてはあまりにも不自然である。
この不自然さは、単に「古い本だから写本が残らなかった」という程度では片づけにくい。
もし『古事記』が『日本書紀』と同じように、宮廷において公的に使用され、教育され、引用される書であったなら、もっと早い時期の引用、言及、書写の痕跡が、もう少し厚く見えてよいはずである。ところが、奈良時代に『古事記』を明示的に引く文献としてしばしば挙げられるのは、ほぼ『万葉集』に限られる。しかも、その参照は広範ではなく、軽太子関係の限られた箇所に集中する。つまり、『古事記』は「広く流通した本」として見えるのではなく、ごく限られた知識層だけが参照できた本文としてしか姿を現さないのである。これを「社会的に流通していた」と呼ぶのは無理がある。むしろ、『古事記』は早い段階から公的主流の運用から外れ、限定的な伝来の中で保持されたと見る方が自然である。
ここで重要なのは、この不自然さをもって直ちに本文全体の偽作へ飛ばないことである。
たしかに、こうした事情が古事記偽書説・偽撰説を生んできたことは否定できない。だが同時に、本文そのものには古い層を感じさせる事情がある。とくに古事記本文は、上代特殊仮名遣いなど、奈良時代相当の古い言語層の研究対象となってきた。もし『古事記』が鎌倉・室町期の全面的な新作であるなら、このような古い音韻・表記の層を全体として自然に保持することはきわめて難しい。したがって、ここで疑うべきはまず本文そのものではなく、その本文を「712年にこのような形で成立した勅命書」として見せる成立物語の方である。本文核は古い。だが、その由来を語る枠は後から整えられた可能性が高い。
このように本文と成立物語を分けて考えると、諸点はかなりきれいにつながる。
第一に、本文には古い神話と王統の骨格が残っている。第二に、その本文は712年以後ただちに国家の表看板として広く流通した形跡を持たない。第三に、それでも奈良時代の万葉集編纂層のような限られた知識圏では参照可能であった。第四に、後代のどこかで、その本文に対して「これは712年に勅命で成立した書である」という正統な由来づけが与えられた。つまり『古事記』は、最初から国家的完成書として流通したのではなく、主流の公的運用から外れた本文が長く限定的に保持され、その後に成立事情だけが正統化された書として理解しうるのである。序文だけが後代的であるという見方は、この構図に最もよく合う。
さらに、真福寺本が1371–1372年という比較的遅い時期に現れることも、この理解を補強する。
真福寺本は「最古の現存写本」であって、当然それ以前の本文伝来を否定するものではない。しかし、それでもなお、712年成立の書が現存資料の上では14世紀後半までほとんど姿を見せないという事実は重い。これは、宮廷や学界で広く共有され続けた標準テキストというより、細い系譜で生き延びた本文という印象を与える。真福寺本が最古であることは、古事記が社会の前面に出た書ではなく、長く周縁的に伝わった書である可能性を、むしろ強く示唆している。
したがって、『古事記』が社会的に見えにくい理由は、単なる偶然ではない。
それは、『古事記』が最初から『日本書紀』のような国家の正面史ではなかったからである。本文は存在した。しかも古い。だが、それは広く運用される国家テキストではなく、限定的な知識層の中で保持される文書にとどまった。そのため、公的記事にも、写本伝来にも、引用史にも、太い痕跡を残さなかった。逆に言えば、その見えにくさそのものが、『古事記』の特殊な位置を物語っているのである。推古で終わること、中途半端に厚いところと薄いところがあること、そして後に成立物語だけが整えられたらしいこと――これらはすべて、古事記が完成した国家正史ではなく、日本書紀編纂過程に先行して切り出された、王統と神話の骨格本文だった可能性とよく整合する。
六 万葉集が示すもの
この問題を考えるうえで重要なのが『万葉集』である。
『万葉集』巻二・90番歌には題詞に「古事記曰」が見え、軽太子・軽太郎女の話を古事記由来として明示している。さらに巻十三・3263番歌の左注には「檢古事記曰」とあり、この歌を木梨軽太子の自死時の作として古事記で確認したことが記される。すなわち、『万葉集』編纂層は、少なくとも古事記的本文にアクセスできた。これは事実として重い。しかも、奈良時代に『古事記』を明示的に引用する文献は『万葉集』のみであり、その引用箇所も巻二に二か所、巻十三に一か所とごく限られている、という整理がある。つまりここで見えるのは、広い社会的流通ではなく、限られた編纂知識圏における古事記的本文への接近である。
この点はきわめて重要である。
もし『古事記』が712年以後ただちに広く流通した国家的標準書であったなら、奈良時代の引用はもっと多く、もっと多様な主題にわたってよいはずである。だが実際にはそうなっていない。『万葉集』が古事記を引くのは、よりによって軽太子説話という、ごく古い王統危機の記憶に関わる箇所に偏っている。これは、『古事記』が当時すでに「社会に出た本」として共有されていたのではなく、特定の編纂層が必要なときだけ参照できる本文として存在していたことを示唆する。言い換えれば、『万葉集』は『古事記』の社会的流通を証明するのではなく、むしろその逆に、限定された知識人ネットワークの内部に本文が保持されていたことを証するのである。
さらに注目すべきは、軽太子説話そのものの古さである。
木梨軽太子の物語は、允恭天皇の皇子でありながら皇位に就けず、妹との禁忌的関係を理由に排除され、最終的に流罪と死へ至るという、王統の危機をむき出しにした伝承である。これは藤原氏の時代に新しく作られた物語ではない。むしろ王統の内部に古くから残る、継承失敗と断絶の記憶に属する。『万葉集』が古事記を通じてこの物語を引くという事実は、単に「古事記という本があった」という以上の意味を持つ。それは、奈良時代の編纂層が、古い皇統危機の記憶を含む本文核に現実に触れていた、ということだからである。ここで見えるのは編纂者の創作ではなく、本文核の古さそのものである。
しかし、ここからもう一段階先の可能性も見えてくる。
軽太子説話は古い。だが、古い物語であるからこそ、後代において新しい政治状況を照らす比喩として再読されうる。この点で、『万葉集』を最終的に整理した大伴家持の時代背景は見逃せない。奈良末には、天武系から天智系への皇統回帰という大きな転換が現実に起こる。770年の光仁天皇即位は、その象徴であった。研究でも、光仁朝はそれ以前の天武系皇統からの転換期として強く意識されている。
この政治的文脈の中に軽太子説話を置くと、その意味は単なる古伝の保存を超えうる。
木梨軽太子は、本来皇位に近い位置にありながら、そこから滑り落ちた人物である。彼の歌と物語は、王統の中に潜む危機、継承の失敗、そして別系統への移行の不吉さを強く帯びている。したがって、奈良末にこの物語を古事記から確認し、歌の由来として記録することは、単なる学識的作業にとどまらず、皇統の断絶や回帰を暗示する物語を意識的に保持する行為として読む余地がある。もちろん、ここから直ちに「軽太子説話は天武系から天智系への転換を暗示するために用いられた」と断定することはできない。しかし、少なくともそのような再読の可能性を否定する理由もない。古い王統危機の物語は、まさに王統転換期においてこそ新しい意味を帯びるからである。
この場合、古事記的本文が万葉集編纂層にどう渡ったかが問題となる。
ここで具体的な伝来経路を特定することはできない。だが、万葉集の最終集成者として大伴家持が有力視される以上、大伴家を含む編纂層が古事記的本文を手にしていたこと自体は認めてよい。問題は、その本文がどのような家や層から渡ったかである。ここで一つの可能性として浮かぶのは、藤原氏周辺から大伴家へ貸し出されたという仮説である。なぜなら、奈良末の皇統転換を主導しうる政治勢力は藤原氏であり、しかも大伴旅人・家持の家は、その中枢権力の周辺に位置しつつも、独自の歌と記憶の編纂を担いうる家門だったからである。もちろん、ここに直接証拠はない。だが、古事記的本文が宮廷の正式流通文書ではなく、限られた貴族層の備忘録的文書として保持されていたとするなら、その一時的貸与や限定的参照は十分に想定しうる。
ただし、この藤原氏ルート仮説も、本文核の古さを損なうものではない。
ここで大切なのは、軽太子説話そのものが藤原氏の創作だと言うことではない。そうではなく、古い王統危機の物語が、奈良末の新たな王統転換期において、再び意味を持つものとして参照された可能性である。もしそうなら、『万葉集』における「古事記曰」「檢古事記曰」は、単なる出典注記ではなく、古い王統記憶を現在の皇統政治の文脈へ接続する、きわめて含意の深いしるしとなる。軽太子の悲劇は、その古さゆえに、むしろ後代の権力にとって使いやすい。古いからこそ、そこに現代の政治を託すことができるのである。
したがって、『万葉集』が示すものは二重である。
第一に、それは『古事記』が奈良時代においてごく限定された編纂知識圏に実在していたことを示す。第二に、その参照箇所が軽太子説話のような古い王統危機に集中することは、古事記的本文が単に保存されていたのではなく、王統をめぐる政治的読解の素材としても機能しえたことを示唆する。ここにおいて『万葉集』は、『古事記』の社会的流通を証明するのではなく、むしろその限定的伝来と政治的再読の可能性とを、同時に物語る証拠となるのである。
七 古事記は何のために先に作られたのか
以上を踏まえると、問いへの答えはかなり明瞭になる。
『古事記』は、『日本書紀』に先立って、国家の表舞台に掲げるための完成した歴史書として作られたのではない。むしろそれは、長く進んでいた王統・神話編纂の過程の中で、まず骨格だけを整理し、固定し、内部で保持するために文書化されたものとみるべきである。そこにあったのは、対外的に読ませる正史の完成ではなく、国家がまず自らの内側で、どの王統が正しく、世界の始まりをどう語り、皇統をどこへつなぐかという根本構図を定める作業であった。
この意味で、『古事記』は最初から大きく世に出る代物ではなかった。
それは『日本書紀』のように、国家の完成した自己表現として広く運用されることを前提にした本ではなく、むしろ出る前の段階の本、あるいは表へ出すにはまだ早い段階の文書だったと考える方が自然である。だからこそ、『古事記』は完成した正史のような均整を持たない。神武から推古までを通しながら、厚い節目と薄い節目の差が極端であり、推古で不自然に終わり、しかもその後の社会的運用の痕跡は薄い。だが、これらは欠点ではない。むしろ、それが外へ向けた完成品ではなかったことの痕跡である。
考えてみれば、国家が自らの起源を整えるとき、最初に必要なのは外交史や制度史の細部ではない。
まず必要なのは、神話の始まり、王統の起点、継承の節目、危機と再接続の位置といった、起源を支える骨格の確定である。その骨格が定まらなければ、その上にどれほど外交史や制度史を積み重ねても、一つの国家史としては立ちにくい。『古事記』が先に担ったのは、まさにその骨格整理だったのではないか。言い換えれば、『古事記』は歴史を完成させるための本ではなく、歴史を完成させる前に、まず起源の枠組みを内側で定めるための本だったのである。
このように考えると、『古事記』の中途半端さはむしろ必然に見えてくる。
推古で終わること、節目だけが異様に厚いこと、社会的には見えにくいこと、それでも一部の知識層では参照できたこと、そして後に序文だけが正統な成立物語を語るようになること――これらはすべて、『古事記』が最初から完成した国家正史として作られたのではなく、長い国家編纂事業の途中で一度切り出され、限られた場で保持されるべき骨格文書だったとみることで、最もよく説明できる。
したがって、『古事記』は「先に完成した本」ではない。
また、『日本書紀』の単純な下書きでもない。
より正確には、『古事記』は、長い国家編纂の過程の中で、まだ公然とは流通すべきでない段階において、先に固定された起源の骨格である。国家が後に『日本書紀』として自らを完成した歴史の形で語るために、その前提としてまず内側で持っていなければならなかった、王統と神話の設計図――それが『古事記』だったのではないか。
この意味で、『古事記』は「出るべくして出た本」ではない。
むしろ、本来は表へ大きく出ることを予定しないまま、一度まとめられた本文だった可能性が高い。だからこそ、その痕跡は薄く、その姿は中途半端であり、それでもなお本文の奥には、後の『日本書紀』にはない古い骨格の感触が残ったのである。
『古事記』とは、完成した国家が自らを語る本ではなく、国家が自らをどう語るべきかを、まだ内部で定めていた時期の文書なのである。
おわりに
『古事記』とは何か。
本稿は、この問いを真書か偽書かという単純な二択で処理せず、日本書紀編纂過程に先行した王統と神話の骨格として位置づける可能性を検討してきた。問題は、『古事記』が完全な真作か、あるいは後世の偽作かということだけではない。むしろ重要なのは、この書が古代国家の自己形成のどの段階に立ち現れ、いかなる役割を担っていたのか、という点である。
本稿で見てきたように、『古事記』は無加工の原型ではない。
そこにはすでに編集があり、強弱があり、節目の選択がある。神話も王統も、自然に流れ込んだ材料そのままではなく、一度整理されたかたちで配列されている。その意味で、『古事記』は決して無垢の古伝集ではない。だが同時に、それは『日本書紀』のような完成した国家正史でもない。『日本書紀』が、王統の節目に外交・制度・征服・国家神話としての意味を厚く実装し、国家の完成した自己表現として整えられているのに対し、『古事記』はそこまで達していない。そこに見えるのは、王統と神話の節目だけが先に整理され、一度文書として現れた姿である。
この差を認めたとき、『古事記』の多くの不自然さは、単なる欠陥ではなく、その特殊な位置を示す徴候へと変わる。
推古で終わることは、未完成さのしるしであると同時に、そこまでが一度骨格としてまとまっていたことを示す。厚い箇所と薄い箇所の差が極端であることは、史料の偶然的残存ではなく、どこを王統の節目として固定したかを示している。社会的流通の痕跡が薄いことは、国家の表看板として広く運用された書ではなかったことを意味する。序文の成立事情が妙に整いすぎていることは、本文核とは別に、後から由来が正統化された可能性を示唆する。これらはすべて、完成した正史ではなく、長い国家編纂の途中で一度切り出された文書として『古事記』を理解するなら、きわめて自然に説明できる。
そして、この理解は『古事記』そのものの位置づけを変えるだけではない。
それは同時に、『日本書紀』とは何かという問いにも答えを与える。もし『古事記』が王統と神話の骨格であるなら、『日本書紀』はその骨格の上に国家の都合に応じた歴史を完成させた書である。『日本書紀』は、古い王統記憶をそのまま保存したのではなく、すでに整理された骨格に対して、外交史、制度史、征服史、国家神話としての秩序を加え、一つの連続した天皇国家の過去へと仕上げた。したがって、両書は対立物でも単純な原型と完成形でもない。より正確には、同じ長期編纂事業の中で、異なる段階と異なる機能を担った書なのである。
この見方に立つとき、『古事記』はたんなる「最古の歴史書」ではなくなる。
それは、日本国家がまず自らの内部で固定しようとした起源の骨格として現れる。どの王統が正しく、どの神話秩序が正当であり、継承のどこが節目であるか――そうした最も根本的な構図を、国家が最初に握ろうとした痕跡として、『古事記』は読まれるべきものになる。完成した歴史ではなく、完成した歴史を可能にする前提としての文書。それが本稿の到達した『古事記』像である。
したがって、本稿の結論は単純である。
『古事記』とは、日本国家が最初に固定しようとした起源の骨格だったのではないか。
それは完成した国家が自らを堂々と語るための本ではなく、国家がまだ自らをどう語るべきかを内部で定めていた時期に、一度まとめられた本文である。だからこそ中途半端であり、だからこそ社会的には見えにくく、だからこそ逆に、後の『日本書紀』には覆い隠される前の古い骨格の手触りを、いまなお残しているのである。
本稿の結論は、そこにある。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
関連テーマ
注
- 『古事記』序文の自己説明では、和銅4年9月18日に筆録が命じられ、和銅5年正月28日に太安万侶が献上したとされる。
- 『日本書紀』は681年に編纂開始が命じられ、720年に完成したと伝えられる。神代から持統朝までを扱う最古の正史として位置づけられる。
- 『古事記』本文は上代特殊仮名遣い研究の対象であり、本文に古い言語層が残ることは、全面的な中世新作説を弱める。
- 『古事記』の現存最古写本は真福寺本系統で、現存写本の見え方はかなり後代に偏る。
- 『万葉集』巻二・90番歌には「古事記曰」、巻十三・3263番歌には「檢古事記曰」とあり、万葉集編纂層が古事記的本文を参照しえたことが確認できる。
- 『万葉集』20巻本の最終集成に大伴家持が大きく関与したことは、今日ほぼ通説的理解である。
参考文献
一次史料
『古事記』
『日本書紀』
『万葉集』
参照資料
『古事記』序文関係資料。
『日本書紀』概説。
上代特殊仮名遣い関係論文。
真福寺本関係資料。
万葉百科(巻二・90番歌、巻十三・3263番歌)。
『万葉集』編纂と大伴家持に関する論文。


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