
宇佐津彦清智
――王統・陵墓・記録国家の成立をめぐって
はじめに
天武・持統朝は、日本古代国家の形成史において特別な位置を占める。
この時期、王統の記憶は文字化され、『日本書紀』編纂の起点となる命令が出され、さらに陵墓管理も制度化されていく。天武10年(681)には「帝紀」と「上古諸事」の史実確定が命じられ、『日本書紀』は養老4年(720)に完成した。すなわち、天武・持統朝とは、国家が自らの過去を公的に編み直し始めた時代であった。
しかし、ここで一つの強い違和が生じる。
それほどまでに王統を整理し、歴史を固定しようとした政権が、なぜ自らに先立つ先王たちの陵墓連続性を、後世に明瞭なかたちで残していないのか。
公式には、舒明天皇陵は押坂内陵、天智天皇陵は山科陵、天武・持統天皇陵は檜隈大内陵とされる。だが、その「分かっている」とは、国家の治定としての「分かっている」にすぎず、古代以来疑いなく連続した記憶がそのまま保存されていたことを意味しない。実際、舒明天皇陵や天武・持統天皇陵は宮内庁書陵部の調査・整理の対象となっており、現在見えている陵墓像が、後代の検討と再固定を含んでいることを示している。
しかも問題は、単に初期天皇陵が不明瞭だという一般論ではない。
天武朝は、王統の記憶を編纂し、陵墓管理を制度として整えた政権であった。持統5年(691)には、天皇陵に五戸、その他の王墓に三戸の陵戸を置く制度が明文化される。つまりこの時代、国家は王墓を管理し、王統を可視化する仕組みを自ら作っていたのである。にもかかわらず、天武以前の先王陵は、後世から見ると必ずしも強い物的連続性を示さない。この非対称は偶然の欠落ではなく、むしろこの時期に王統そのものが再編されていたことを示す徴候ではないか。
本稿の問いはここにある。
天武朝は本当に先王の陵墓を把握していたのか。
もし把握していたのなら、なぜその連続性はこれほど見えにくいのか。
もし十分に把握していなかったのなら、なぜそれでも強い王統叙述を成立させえたのか。
さらに言えば、王統とは本来、祖先墓の認識と祭祀の継承を伴うものではないのか。
だとすれば、先王陵の曖昧さを抱えたまま成立した天武・持統朝の王統とは、いかなる性格のものだったのか。
本稿は、この問題を単なる陵墓比定の可否としてではなく、王統の記憶がいかに編纂され、制度化され、再構成されたかという観点から考察するものである。
その先には、天武朝が固定したものと同時に、あえて曖昧にした前史が何であったのか、という問題も浮かび上がるであろう。
一 王統にとって陵墓とは何か
王統とは、単に名が縦に並ぶことではない。
本来それは、祖先の記憶、祭祀の継承、墓所の認識、そしてそれを共同体が承認する構造を伴う。とりわけ古代の王権において、陵墓は単なる埋葬地ではなく、祖先祭祀と正統性の物的基盤であった。後代の律令国家が陵墓管理を制度化したこと自体、王墓が王統秩序の周辺ではなく、その中心にあったことを示している。持統5年(691)に天皇陵五戸・王墓三戸の陵戸規定が明文化されるのは、その最も分かりやすい証拠である。
この点から見れば、王統の強さとは、単に史書に名が残ることではなく、
祖先墓がどこにあり、誰の墓として認識され、いかなる祭祀の対象となっていたか
まで含めて考えられなければならない。
言い換えれば、王統とは文字の中にのみ存在するものではなく、土地・墓・祭祀に支えられた立体的な記憶なのである。
それゆえ、陵墓の所在や連続性が曖昧であることは、単なる考古学上の小問題ではない。
もし王統が自然な祖先継承として存在したのであれば、少なくとも直前世代の先王陵は、比較的強い物的連続性をもって把握されていてよいはずである。実際、地域首長層の古墳群には、一定の系譜的連続性を読みうる例が少なくない。各地の古墳群では、墳丘の配置、規模、築造順序から、地域権力の継承や首長系列の推移をある程度たどることができる。巨大古墳の被葬者が最終的に誰であるかは別としても、少なくとも「その地域の支配層の墓制が連続している」ことは、しばしば確認されるのである。
だとすれば、逆に問わねばならない。
なぜ中央王権の先王陵だけが、これほど見えにくいのか。
これは「古い時代だから仕方ない」というだけでは済まない。
天武・持統朝は、まさに記録国家へ移行しつつある時代であった。史書編纂が進められ、王統秩序が文字で固定され、陵墓管理までも制度化される。にもかかわらず、その王統の直前に位置する先王たちの墓所連続性は、後世から見ると必ずしも明瞭ではない。ここにあるのは、単なる記録不足ではなく、文字化された王統と、物的に継承された王統とのあいだのズレではないか。
したがって、本稿において陵墓問題は、単なる比定の可否を争うために置かれるのではない。
むしろそれは、天武・持統朝が成立させた王統が、物的祖先記憶に支えられた王統であったのか、それとも編纂と制度によって再構成された王統であったのかを見極めるための試金石として置かれるのである。
王統が真に王統であるためには、祖先の名だけでなく、その墓の記憶もまた継承されていなければならない。それにもかかわらず、天武朝の先王陵認識が後世に明瞭に見えないとすれば、問題は陵墓の所在ではなく、王統そのものの成立過程にある。
二 天武朝は王統記憶を文字化した
天武朝の特質は、王統の記憶を単なる口承や祭祀の継続に委ねず、国家の文字記録として固定しようとした点にある。
その象徴が、天武10年(681)3月17日条に見える、「帝紀」および「上古諸事」を記し定めよという命令である。『日本書紀』の完成は養老4年(720)であるが、その出発点が天武朝に置かれていることは明白であり、ここに、王統の過去を国家の管理下に置こうとする強い意思が表れている。
この点は、単なる史書編纂事業として理解するだけでは不十分である。
問題は、なぜこの時期に、わざわざ「帝紀」や「上古諸事」の史実確定が命じられねばならなかったのか、ということである。
もし王統の過去が自明であり、祖先の系譜と記憶が安定して継承されていたなら、国家がここまで強いかたちで過去の整理と固定に乗り出す必要は薄い。
むしろここに見えるのは、王統の記憶そのものが整理を必要としていたという事実である。
しかも、天武朝の再編は史書編纂だけにとどまらない。
同じ時期には、王位継承儀礼や祭祀秩序も整えられていく。たとえば大嘗祭については、持統朝において、践祚と一定の時間的距離を置いて挙行される後代的な形式が整えられたと解されている。つまり、天武・持統朝とは、王の即位を政治的事実としてだけでなく、神話的・祭祀的秩序の中に位置づけ直す時代であった。王統の記憶が文字化されるのと並行して、その正統性を支える儀礼の形もまた制度化されていくのである。
このことは、王統の意味を大きく変える。
それまでの王統が、墓・祭祀・地域共同体の記憶に支えられていたとしても、天武朝以後は、それだけでは足りない。
王統は、国家が承認した文字記録の中に位置づけられ、国家が定めた儀礼体系の中で再確認されるものとなる。
言い換えれば、ここで起きているのは、王統の自然な継承ではなく、王統の国家的再定義である。
この再定義の結果、王統は一面で強くなった。
『日本書紀』は、諸伝承や諸系譜を一本の王統史へ統合し、天武系王権の正統性を大きく支える文書となった。
しかしその強さは、物的祖先記憶の強さと必ずしも一致しない。
むしろ、文字化された王統が強くなればなるほど、それ以前の曖昧な過去は整理され、選別され、場合によっては後景化される。
この意味で、天武朝の文字化は、単に王統を保存したのではなく、王統の前史に対して編集権を行使することでもあった。
したがって、天武朝が王統記憶を文字化したという事実は、単に文化史的な進展を意味しない。
それは、どの過去を正史として固定し、どの過去を曖昧なまま退けるかという選択の始まりでもあった。
先王の陵墓連続性が後世から見てなお見えにくいのだとすれば、その理由は、記録が足りなかったからだけではない。
むしろこの時代、国家が過去を文字に置き換える過程で、物的記憶の一部が、編纂された王統叙述の背後へ退いた可能性を考えるべきである。
三 持統五年の陵戸制は何を意味するか
天武・持統朝における王統再編を考えるうえで、持統5年(691)の陵戸制はきわめて重要である。
この年、天皇陵に五戸、その他の王墓に三戸の陵戸を置くことが定められた。しかも不足があれば百姓を充て、一定年限で交替させるという具体的規定を伴っている。これは単なる理念の表明ではなく、王墓管理を国家制度として整備する意思が明確に示されたものと理解すべきである。研究でも、この規定がその後の令制に取り込まれ、天皇陵・皇族陵に陵戸が配置されていたことが確認できるとされている。
このことの意味は大きい。
第一に、ここで問題となっているのは、単に墓を守る人員の確保ではない。
陵戸とは、王墓が国家秩序の内部に正式に位置づけられたことを示す制度である。
王統が国家によって文字化されるだけでなく、その祖先墓もまた国家の管理対象として再編される。
言い換えれば、持統5年の陵戸制は、王統の記憶が史書の中に固定されるのと並行して、王墓の秩序もまた行政的に固定され始めたことを示している。
第二に、この制度化は、古来から自明に存在した祖先墓秩序の単なる確認とみるべきではない。
むしろ逆である。
もし先王の陵墓が、誰の墓であるか、どこにあり、どのように守られるべきかという点で、古くから一貫して明瞭だったなら、ここまで具体的な規定を新たに置く必要は薄い。
とりわけ、不足分を百姓で補うという発想は、自然発生的に継承されてきた陵墓祭祀共同体の存在よりも、国家が新たに王墓管理体制を作り上げている状況を想起させる。
この点で、陵戸制は継承の制度というより、再編の制度として読むべきである。
第三に、この制度化は、王統の性格そのものの変化を示している。
古い王統においては、墓所の認識と祭祀は、地域共同体や氏族秩序の中で支えられていた可能性が高い。
しかし持統5年の陵戸制においては、それが国家の命令と戸数配分の論理の中に置き換えられている。
ここでは、祖先墓は共同体の自然な記憶である以上に、国家が守るべき正統性の装置となる。
つまり、王墓の秩序はもはや自生的なものではなく、王統と同様に、国家が制度として維持すべきものへと変質しているのである。
この点は、本稿の主題にとって決定的である。
なぜなら、天武・持統朝が王墓を制度化しているという事実は、逆に、それ以前の王墓秩序が後世の想定ほど自明でも固定的でもなかった可能性を示すからである。
ここで制度化されているのは、「昔から当然存在していた王墓秩序」ではなく、この時代に新たに国家が整序し直した王墓秩序である。
しかもそれは、『日本書紀』編纂とほぼ同じ政治時間の中で進んでいる。
史書によって王統を定め、制度によって王墓を守る。
この二つは別個の事業ではなく、王統の記憶を文字と制度の両面から固定する一つの国家的再編として理解されるべきである。
したがって、持統5年の陵戸制は、「天武・持統朝は先王の陵墓を把握していた」ということの単純な証明にはならない。
むしろ、その逆である。
国家がそこまで制度化しなければならなかったということは、王墓の連続性が自明ではなく、国家が改めて先王陵の秩序を作り直す必要に迫られていたことを示唆する。
この意味で、陵戸制は王統の安定の証拠であると同時に、王統の不安定さを覆い隠し、再構成しようとする政治的技術でもあったのである。
四 なぜ先王陵の連続性が見えにくいのか
ここまで見てきたように、天武・持統朝は王統の記憶を文字化し、王墓の秩序を制度化した。
それにもかかわらず、天武以前の先王陵は、後世から見ると必ずしも強い連続性をもって立ち現れない。
この事実は、単なる考古学上の未確定ではない。
むしろ、王統をもっとも強く固定しようとした時代の直前に位置する先王たちについて、なぜ墓の連続性だけがこれほど見えにくいのか、という構造的問題として考えるべきである。
まず確認すべきは、先王陵が「全く分からない」のではなく、公式には定められているということである。
たとえば、舒明天皇陵は押坂内陵、天智天皇陵は山科陵、斉明天皇陵は越智崗上陵、天武・持統天皇陵は檜隈大内陵とされている。しかも舒明陵と天智陵はいずれも上円下方墳であり、天武・持統陵は八角墳である。つまり、現在の国家秩序の中では、王統と陵墓とは一応対応づけられている。
だが、問題はまさにそこにある。
その「分かっている」が、古代以来疑いなく継承された結果なのか、それとも後代国家による再固定の結果なのか、という点である。
実際、宮内庁書陵部は舒明天皇押坂内陵の墳丘遺構を研究対象とし、天智天皇山科陵についても墳丘遺構や修繕工事に伴う立会調査を重ねている。これは、現在の公式治定が単なる伝承の自明な継承ではなく、調査と再確認の対象であり続けていることを示している。
さらに分かりやすい例が斉明天皇陵である。
宮内庁は越智崗上陵を斉明天皇陵としているが、一方で考古学的には牽牛子塚古墳を斉明天皇陵の有力候補とみる議論がある。つまり、公式の陵名があることと、その比定に疑問の余地がないこととは別なのである。ここではじめて、問題の性格が見えてくる。曖昧なのは初代神武のような遠い時代だけではない。天武の父母世代に近い斉明でさえ、墓の実態はなお揺れているのである。
このことは、天武以前の先王陵が見えにくい理由を、「古代が遠いから」とだけ説明できないことを示す。
もし問題が単なる時間的距離にあるなら、初期天皇全般に均等に現れるはずである。
しかし本稿が問題にしているのは、記録国家へ移行しつつある時代の直前に位置する先王たちである。
天武朝には681年の史実確定命令があり、持統朝には691年の陵戸制がある。すなわちこの時代、国家は過去を編み、王墓を守るための仕組みを自ら作っていた。にもかかわらず、その直前に位置する舒明・斉明・天智らの陵墓連続性は、後世から見ると必ずしも物的に強く立ち上がらない。
ここにあるのは、単なる記録不足ではなく、文字化された王統と、墓に裏づけられた王統とのずれである。
また、この見えにくさを単純な「忘却」として理解すべきでもない。
巨大古墳の主が分からなくなる例は古代に珍しくないが、それは墓が小さいからでも、住民が記憶力に欠けていたからでもない。
地域社会の再編や移動によって墓主の具体的記憶が薄れ、その上に後代国家が「この墓はこの天皇」と名を与え直すという、二段階の再編が起こりうるからである。
実際、仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳のように、巨大な墳丘は存在しても被葬者を実証的に確定しにくい例はよく知られている。
つまり、墓が巨大であることと、その墓主記憶が切れずに継承されることとは別問題なのである。
しかし、天武朝の問題はそれでもなお重い。
なぜなら、この時代はすでに国家が王統と王墓を固定し始めているにもかかわらず、その直前の先王陵が、なお調査・再整理・比定の揺れを含んでいるからである。
言い換えれば、ここで起きているのは単なる忘却ではない。
何を王統の正統な過去として固定し、何を曖昧な前史のまま後景化するかという選択なのである。
したがって、先王陵の連続性が見えにくい理由は、単に資料が乏しいからではない。
むしろ、天武・持統朝が王統記憶を文字と制度によって再構成する過程で、物的祖先記憶の一部が、編纂された正統叙述の背後へ退いたからだと考えるべきである。
『日本書紀』が強い王統叙述を持ちながら、なお先王陵の連続性を明瞭には立てないとすれば、それは記録国家の失敗ではない。
むしろ、記録国家が成立するまさにその過程で、墓と土地に結びついた旧王統の記憶が、新しい王統秩序の中で選別され、配置し直されたということなのである。
五 墓の記憶より、編纂された王統が優先された
ここまでの検討から明らかなのは、天武・持統朝が単に過去を保存したのではなく、過去を選び、並べ替え、固定し直したということである。
681年の史実確定命令と、691年の陵戸制の制度化は、そのことを最も端的に示している。前者は王統記憶を文字化し、後者は王墓秩序を行政的に管理可能なものへ変えた。つまりこの時代、国家は王統の時間軸と王墓の空間秩序を同時に掌握しようとしていた。
では、そのとき天武朝が固定したものは何か。
第一に固定されたのは、一本化された王統叙述である。
『日本書紀』は、諸伝承・諸系譜・諸政治勢力の記憶を、連続した歴代天皇の秩序へと編み上げる。そこでは、壬申の乱は単なる内乱ではなく、新しい正統王統を成立させる決定的転換点として位置づけられる。天武は、過去を受け継ぐ王である以上に、過去に秩序を与える王として立つ。
第二に固定されたのは、国家が承認する王墓秩序である。
持統5年の陵戸制は、王墓を国家管理下に置き、天皇陵・王墓を制度的に区別し、その維持に必要な人的基盤まで定めた。ここで固定されたのは、単なる墓守の配置ではない。どの墓がいかなる秩序の中に置かれるべきか、という王統の空間的配置そのものである。王墓はもはや、地域社会の記憶に委ねられた祖先墓ではなく、国家が守るべき正統性の施設となる。
第三に固定されたのは、王統の正統性を支える儀礼秩序である。
大嘗祭の整備に見られるように、王位は単なる政治的継承ではなく、神話的・祭祀的正統性の中で再確認されるべきものとなった。ここでは、王統は血筋だけでなく、国家が規定した儀礼によって保証される。王の正しさは、祖先との自然な連続だけではなく、国家が設定した秩序の中で可視化されるのである。
これに対して、曖昧にされたものもまたはっきりしている。
第一に曖昧にされたのは、先王陵の物的連続性である。
舒明・天智・天武らには現在公式治定の陵が与えられているが、その「分かっている」は、古代以来の自明な継承を意味しない。後代の調査・治定・再固定を含む以上、そこには物的祖先記憶の断絶、あるいは再編の可能性が残る。天武朝は王墓秩序を制度化したが、そのことは逆に、制度化以前の王墓連続性が後世の想定ほど自明ではなかったことを示唆している。
第二に曖昧にされたのは、天武以前の前史そのものである。
天智の前史が比較的厚く描かれるのに対し、天武は壬申の乱以前の像が薄い。生年すら定まらず、どのようなかたちで先王たちと接続されていたのかが見えにくい。この非対称は偶然ではない。天武系王統を正統化する叙述は、壬申の乱以前の大海人皇子を濃く描くより、壬申の乱以後に王として立ち上がる天武を強調する方を選んだと考えられる。ここで曖昧にされているのは、単なる個人史ではなく、天武王統が接続していたかもしれない別の前史である。
第三に曖昧にされたのは、墓と土地に結びついた旧王統の記憶である。
文字化された王統が強くなればなるほど、王統は土地や墓の具体性から相対的に切り離される。『日本書紀』において重要なのは、「どこに墓があるか」より「誰が正しい王統であるか」である。したがって、国家が固定したのは墓の実在そのものではなく、墓を含む過去に国家が与えた意味であった。ここで王統は、物的継承から編纂された秩序へと重心を移す。
このように見ると、天武朝が行ったのは、過去の忠実な保存ではない。
それは、正統王統に必要なものを固定し、それに従わないものを曖昧化する作業であった。
系譜は固定される。儀礼も固定される。王墓管理も制度化される。
しかし、その背後で、墓と土地に結びついた旧い記憶の一部は、国家の公式叙述の外へ退けられていく。
この意味で、天武・持統朝は、王統を完成させたのであると同時に、王統の前史を切り詰めた政権でもあった。
おわりに
本稿は、天武・持統朝が先王の陵墓をどこまで把握していたのか、という問いから出発した。
しかし検討の結果、問題は単純な知識の有無ではないことが明らかとなった。
天武・持統朝とは、王統の記憶を文字化し、王墓の秩序を制度化し、さらに王位の正統性を儀礼の中で再確認することによって、王統そのものを国家的に再構成した時代であった。681年の史実確定命令と691年の陵戸制は、そのことを最も端的に示している。王統はここで単に継承されたのではなく、文字・制度・儀礼の三つの面から編み直されたのである。
その意味で、天武朝は先王の陵墓を「知っていたか」「知らなかったか」という二択だけでは捉えられない。
むしろ重要なのは、先王陵をどのような秩序の中に置き直したかである。
舒明陵・天智陵・天武陵のように、現在の国家秩序の中では先王陵はそれぞれ定められている。だが、その「定まり」は古代以来疑いなく連続した物的記憶を意味するのではなく、後代の調査・治定・再固定を含む。したがって、天武・持統朝が完成させた王統は、自然な祖先墓継承の上に自明に立つ王統というより、編纂された記憶を基礎に成立した王統と見るべきである。
ここで改めて重いのは、先王陵の物的連続性が後世から見てなお見えにくいことである。
もし王統が墓・祭祀・土地の記憶を伴って自然に継承されていたなら、記録国家化の直前に位置する先王たちの陵墓は、もっと明瞭に立ち現れてよいはずである。
しかし実際には、文字化された王統叙述は強く完成する一方で、先王陵の連続性は後景に退く。
この非対称は、単なる記録欠落ではなく、王統の再編過程そのものが、何を固定し何を曖昧なまま退けたかを示している。
天武・持統朝が固定したのは、正統な王統叙述、国家の承認する王墓秩序、そしてそれを支える儀礼体系であった。反対に曖昧にされたのは、墓と土地に結びついた旧い王統記憶であった。
このことは、本稿の最後に一つの可能性を開く。
それは、天武朝が曖昧にした前史が、単なる失われた記憶ではなく、畿内の連続王統だけでは説明できない別の王権基盤に関わっていた可能性である。
もし天武の王統基盤が九州にも存在していたなら、なぜ先王陵の物的連続性が畿内で自明に見えないのか、なぜ681年に王統の文字化が必要であったのか、なぜ691年に陵墓管理が制度化されねばならなかったのか、これらはより自然に理解できる。
もちろん、この点はなお仮説の域を出ない。
しかし少なくとも、天武・持統朝が固定した王統秩序の背後に、九州側の旧王権記憶が曖昧化されている可能性は、十分に考察に値する。
したがって、本稿の結論は次のようにまとめられる。
天武・持統朝は、先王の陵墓を単に受け継いだ政権ではない。
彼らは、王統の記憶と王墓の秩序を文字と制度によって再編し、新しい国家にふさわしい王統を構成した。
そのとき成立したのは、自然な祖先継承としての王統ではなく、編集され、制度化され、儀礼化された王統であった。
そして、その成立の陰で曖昧にされた前史の中にこそ、天武朝の真の出自を考える手がかりが残されているのである。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
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注
- 天武10年(681)3月17日条に見える「帝紀」「上古諸事」の史実確定命令について。『日本書紀』の完成は720年だが、その編纂の起点は天武朝に置かれる。
- 舒明天皇陵を押坂内陵とする宮内庁の公式案内。陵形は上円下方。
- 舒明陵は宮内庁書陵部でも調査対象になっており、公式治定と実証上の問題は分けて考える必要がある。
- 天武天皇陵は宮内庁では檜隈大内陵とされる。持統天皇と合葬。
- 檜隈大内陵の調査整理報告では、天武・持統陵が八角五段であることが示される。
- 持統5年(691)の陵戸制については、研究上、天皇陵・皇族陵への実施が確認され、その後の令制にも取り込まれたと整理されている。
- 691年の大嘗祭と践祚の関係について、持統朝に後段の大嘗祭形式が整えられたとする解釈。
- 明治4年(1871)の陵墓調査命令と、その後の未治定陵墓の治定作業について。現在の陵墓連続性には近代国家の再固定が強く含まれる。
参考文献
- 宇陀市文化財課「日本書紀」
- 宇陀市「『古事記』『日本書紀』『万葉集』と宇陀市(上)」
- 宮内庁「舒明天皇 押坂内陵」
- 宮内庁「天武天皇 檜隈大内陵」
- 宮内庁「持統天皇 檜隈大内陵」
- 宮内庁書陵部『書陵部紀要』第46号「舒明天皇押坂内陵の墳丘遺構」
- 宮内庁書陵部『書陵部紀要』第76号「附 昭和34~36・50年における檜隈大内陵調査成果の整理報告」
- 宮内庁書陵部ギャラリー「皇父后妃皇子皇女 御陵墓委詳記」
- J-STAGE 掲載論文「大嘗祭と天皇制」

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