
宇佐津彦清智
――邪馬壹国後の倭国ネットワーク形成
宇佐赤塚古墳は、大分県宇佐市高森の台地上に築かれた全長約57.5〜58メートルの前方後円墳である。後円部中央の箱式石棺からは、三角縁神獣鏡五面、管玉、鉄刀片などが出土しており、九州でも最古級、あるいは大分県域では九州最古級の前方後円墳の一つと位置づけられている。しかも、その鏡の同笵・同型関係は、福岡県石塚山古墳や京都府椿井大塚山古墳など広域の首長墓群に及んでいる。赤塚古墳は、宇佐の一地方的墓制の問題ではなく、広域的な政治関係の中で理解すべき古墳である。
だが、重要なのは「前方後円墳である」という分類上の確認ではない。問うべきは、なぜ宇佐において、この古墳が前方後円墳でなければならなかったのかという点である。赤塚古墳は川部・高森古墳群の中でも最古の前方後円墳であり、古墳群全体は駅館川東岸の、宇佐平野を一望する段丘上に営まれている。しかもこの古墳群は、前期の赤塚古墳・免ヶ平古墳から中期以降の古墳へと年代的に連続し、文化庁はこれを宇佐平野で活躍した古代豪族歴代の墳墓とみている。したがって赤塚古墳は、単に新形式を試した一基ではなく、宇佐の首長権が自らの墓制を定着させる起点だったとみるべきである。
ここで注目すべきは、埋葬施設としては箱式石棺という旧来性を保ちながら、墳丘だけが前方後円墳として大きく立ち上がっている点である。つまり、急激に変わったのは葬法そのものではなく、むしろ被葬者の示し方であった可能性が高い。もし墓の役割がただ埋葬だけであれば、低い円墳や在地的な墓制でも足りたはずである。にもかかわらず、赤塚古墳では墳丘が高く大きく築かれた。ここには、被葬者を平地に埋めるのではなく、人民が見上げるべき高みへ置くという新しい要請があったと考えられる。
この「高さ」は、単なる壮大さの誇示ではない。首長や王的存在が、かつて自然の高所や川上の立地そのものによって尊貴性を示しえた段階から、交通・生産・交流に有利な中流域・平野部へ居館の重心を移した段階へ移ると、日常空間そのものでは貴賤差を示しにくくなる。そこで必要になったのが、人工的な高みとしての墳丘であった。赤塚古墳が平野を一望する段丘上に築かれていることは、この墓が単なる埋葬施設ではなく、首長権の高さを地形の上に固定する装置であったことを示している。墳丘の高さは、被葬者の格を視覚化するもっとも直接的な方法だったのである。
しかし、前方後円墳の意味は高さだけでは尽きない。前方後円墳が各地でほぼ同時期に広がったことを考えるなら、その本質は型の共有にもあったとみるべきである。各地の首長が同じ墳形を採れば、彼らが同じ政治的ネットワークの住人であることが一目で分かる。他方で、大きさは同じではない。すなわち、墳形の共通性は所属を示し、規模の差はその内部の序列を示す。文化庁や自治体の文化財説明でも、前方後円墳は政治的秩序や、より大きな共同体への参加を表現する形式として理解されている。赤塚古墳が前方後円墳でなければならなかったのは、宇佐の首長が高い格を示す必要があっただけでなく、同じ広域秩序の一員であることを示す必要もあったからである。
この点で、赤塚古墳の成立は邪馬壹国後の政治再編と深く関わる。『魏志倭人伝』系の理解では、卑弥呼の死後に男王が立てられたが国中が服さず、再び乱れ、宗女壱与・台与が擁立されて秩序が再安定した。また、266年には晋への遣使記事がある。つまりトヨの時代は、卑弥呼の後継が立っただけの時代ではなく、連合秩序が再安定し、広域的な関係が組み直された時期として理解できる。赤塚古墳は3世紀末〜4世紀初頭、あるいは4世紀前半最古級に置かれており、この再編の時間帯と近接する。したがって、赤塚古墳の前方後円墳化は、トヨ個人の墓かどうかという問題とは別に、トヨ時代に進んだ倭国ネットワーク形成の宇佐における可視化として読むことができる。
ここで宇佐の位置は重要である。邪馬壹国の位置関係から見れば、宇佐は中核から外れた辺境に見えるかもしれない。だが、辺境であることは、新たな広域秩序の中で自らの所属を示す必要をむしろ強めた可能性がある。実際、赤塚古墳の近傍にある小部遺跡では、古墳時代前期の豪族居館とみられる大型建物や環濠が確認され、近畿や吉備の土器も多く出土している。宇佐は孤立した在地社会ではなく、瀬戸内海を隔てた交流拠点の一つだった。赤塚古墳が最初期から前方後円墳として成立したのは、宇佐の首長がこの新たな倭国ネットワークの中で、自らの位置を明確に示す必要があったからだろう。
以上から、宇佐赤塚古墳が前方後円墳でなければならなかった理由は、単なる模倣や流行ではない。第一に、それは被葬者の格を高さによって可視化するためであった。第二に、それはその首長が同じ広域秩序の住人であることを、共通の墳形によって示すためであった。赤塚古墳は、尊貴性の表示とネットワーク所属の表示を同時に担う墓として築かれたのであり、その背景には、邪馬壹国後、とりわけトヨ時代に進んだ倭国ネットワーク形成があったと考えられる。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
関連テーマ
注
- 赤塚古墳の規模、出土遺物、同笵鏡の広域的連関については、国立文化財機構 e国宝および文化遺産オンラインの解説による。
- 赤塚古墳が川部・高森古墳群中の最古の前方後円墳であること、また鏡の同型関係が石塚山古墳・椿井大塚山古墳に及ぶことについては、宇佐市の文化財説明による。
- 川部・高森古墳群が駅館川東岸の段丘上にあり、前期から中期へ年代的に連続し、宇佐平野の豪族歴代の墳墓とみなされることについては、文化庁の国指定文化財等データベースによる。
- 赤塚古墳が県域では九州最古級の前方後円墳の一つで、3世紀末〜4世紀初めに築造されたとする整理は、大分県文化財保存活用大綱による。
- 小部遺跡が赤塚古墳とほぼ同時期の豪族居館とみられ、近畿・吉備系土器を伴う交流拠点であることについては、宇佐市公式解説による。
- 壱与・台与が卑弥呼死後の混乱を収めた宗女であり、266年の遣使がその時代に属することについては、国史大辞典等の事典解説による。
- 前方後円墳を政治的秩序や共同体参加の表現とみる理解については、文化庁・自治体の文化財解説資料を参照した。
参考文献
宇佐市教育委員会「小部遺跡が国指定史跡に指定されました」
文化庁「国指定文化財等データベース 川部・高森古墳群」
文化遺産オンライン「赤塚古墳 三角縁獣文帯三神三獣鏡」
国立文化財機構 e国宝「赤塚古墳 三角縁獣文帯三神三獣鏡」
大分県「大分県文化財保存活用大綱」
JapanKnowledge「邪馬台国」「壱与」解説
文化遺産オンライン「百舌鳥・古市古墳群‐古代日本の墳墓群」
木津川市「木津川市文化財保存活用地域計画」


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