
宇佐津彦清智
――宇佐王族の祭祀終焉と母体神の形成
一、はじめに
宇佐八幡の成立を考えるとき、私たちはどうしても、後世に整えられた祭神構成から逆算してしまいがちである。
八幡大神・比売大神・神功皇后という三座構成は、いま見える宇佐神宮の完成形としては重要である。だが、それをそのまま古層へ遡らせると、かえって見えなくなるものがある。
その最たるものが、比売神である。
比売神は、のちには宗像三女神として説明され、さらに系図類の中では天三降命のような整った祖神名へ接続される。しかし、それらは成立後の整理された姿であって、最初の姿ではない。
では、比売神とは、もともと何であったのか。
本稿が問いたいのは、この一点である。
宇佐神宮の深層には、御許山という神体山がある。宇佐市の文化財保存活用地域計画でも、御許山は三柱の比売神降臨説話で知られる山であり、山頂に巨石体をもつ磐座として位置づけられている。つまり宇佐祭祀の根には、まず山と石の神霊があった。
そして私は、この古い神霊が、六世紀半ばの大きな転換を経て、宇佐氏の担うより小さな祭祀へ再編されるなかで、比売神という母体神へと形成されていったのではないかと考える。
二、宇佐の王たちが担った祭祀
宇佐平野には、三世紀末から六世紀半ばまで、前方後円墳が連続して築かれている。
赤塚古墳は三世紀末に遡る県内最古級の前方後円墳であり、川部・高森古墳群には三世紀末から六世紀半ばまでの前方後円墳が継続して築かれた。そしてその最後に位置するのが、六世紀中頃の鶴見古墳である。宇佐市の文化財保存活用地域計画も、後期の鶴見古墳を最後に、宇佐で前方後円墳が築かれなくなったと整理している。
ここでまず確認すべきは、前方後円墳が単なる「墓」ではないということである。
前方後円墳は、被葬者の権力を可視化する巨大な政治的記念物であると同時に、その人物が地域共同体を統合する中心であったことを示す祭祀装置でもあった。とくに宇佐のように、三世紀末から六世紀半ばまで一貫して前方後円墳が築かれ続けた地域では、古墳の継続は首長権力の継続であるだけでなく、首長が担う祭祀秩序の継続でもあったとみるのが自然である。
重要なのは、その系列が鶴見古墳で終わることである。
もしこれが単なる埋葬形式の流行の変化であったなら、別の形で同等の首長墓が続いてもよいはずである。ところが宇佐では、赤塚古墳以来続いてきた前方後円墳による首長表現が、六世紀半ばを境に終息する。ここには、単なる墓制変化では説明しきれない、首長権力の見せ方そのものの変化があったと考えられる。すなわち、宇佐の王たちは、この時期まで、自らの政治的権威と祭祀的権威を古墳という形で一体的に表現していたのである。
では、その王たちは何を祀っていたのか。
ここで注意すべきは、後世の宇佐八幡の完成形を、そのまま古墳時代へ遡らせてはならないということである。八幡大神・比売大神・神功皇后という三座構成は、奈良時代以後に整えられた宇佐神宮の姿であって、赤塚古墳や鶴見古墳の時代にそのまま置くことはできない。むしろ、宇佐の古い祭祀層としてまず想定すべきは、御許山を中心とする山・石の神霊である。宇佐神宮関連の保存活用計画でも、御許山は神殿を持たず、山頂に巨石体をもつ磐座を中心とする神体山として説明されており、宇佐祭祀の最深部に人格神以前の自然神霊層が存在したことを示している。
この点から見れば、赤塚古墳以来の宇佐の王たちが担っていた祭祀とは、後の八幡神そのものではなく、御許山に象徴される山・石の神霊を共同体の中心で奉じる祭祀であった可能性が高い。
宇佐の王たちは、単に政治を担ったのではない。彼らは、宇佐という地域の中心神霊を奉じ、その神威を背景に統治を行う存在でもあったのである。赤塚古墳から鶴見古墳までの古墳系列は、そのことを物的に示す連続した痕跡とみることができる。
したがって、鶴見古墳を最後に前方後円墳が途絶えるという事実は、単なる墓の終わりではない。
それは、赤塚古墳以来の宇佐の王たちが担っていた首長祭祀の時代の終わりを意味する。
そして問題は、その時、祭祀の対象だった神霊がどうなったかである。
神霊そのものが消えたとは考えにくい。消えたのは、あくまでそれを王たちが巨大古墳と結びつけて表現する仕組みであり、神霊は別の形で引き継がれたはずである。比売神成立の問題は、まさにこの「祭祀の引き継ぎ」がどのように行われたかを問うところから始まるのである。
三、王たちの祭祀はなぜ終わったのか
六世紀半ば、宇佐では前方後円墳による首長表現が終息する。
宇佐市の文化財保存活用地域計画も、後期の鶴見古墳築造を最後に、宇佐では前方後円墳が築かれなくなったと整理している。これは、赤塚古墳以来続いてきた古墳時代的首長制が、この時期を境に大きく形を変えたことを意味する。
ここでまず押さえるべきは、終わったのが神霊そのものではなく、王たちが巨大古墳を背景として神霊を担う形式だったということである。
前方後円墳は、単なる埋葬施設ではない。首長が地域支配を可視化する政治的記念物であると同時に、その首長が共同体の祭祀中心であったことを示す装置でもある。したがって、その系列が途絶えるということは、墓の形式が変わったという以上に、王と祭祀が一体であった時代の終焉を示している。
では、なぜその形式では続けられなくなったのか。
おそらく理由は、六世紀の日本列島全体に見られる王権構造の再編にある。中央では継体・欽明期を経て王権秩序が再構成され、地方首長がそれぞれ独自に政治と祭祀を大きく担う構造は、次第に維持しにくくなっていった。宇佐でもまた、赤塚古墳以来の王たちが担っていた祭祀は、そのままでは続けられなくなった可能性が高い。ここで想定すべきなのは、王たちの滅亡というより、王たちが行っていた国家的・広域的祭祀の維持不能である。
つまり、ここで起きたのは断絶ではなく、縮小再編である。
古墳時代の宇佐の王たちは、御許山を中心とする山・石の神霊を、大きな首長祭祀として担っていた。しかし、その政治基盤が揺らぐと、その祭祀も同じ規模・同じ形式では維持できない。にもかかわらず、御許山の神霊そのものは消えない。神霊は、地域共同体にとってなお必要だったからである。
ここで新たに求められたのは、王族の大きな祭祀に代わって、より小さく、より持続的に神霊を祀る方法であった。
それは、巨大古墳を背景とする王的祭祀ではなく、特定氏族が継続的に担いうる氏族祭祀の形である。宇佐の古い神霊は、この段階で王の祭祀から切り離され、よりコンパクトな祭祀へ移されたのではないか。
このとき前面に出てきた担い手として考えられるのが、後の宇佐氏である。
もちろん、現存史料だけで宇佐氏と宇佐王族の血統的連続を直接証明することはできない。だが、奈良時代に至って比咩神が宇佐氏側の古い神として前面に出てくることを考えれば、宇佐氏が王族祭祀と無関係な外部勢力であったとは考えにくい。むしろ、もともと王たちの祭祀圏の中で神事を担っていた層が、王族祭祀の縮小とともに前面化したとみる方が自然である。
この視点に立つと、六世紀半ばの転換の意味が見えてくる。
それは、宇佐の神霊信仰の終わりではない。
むしろ、赤塚古墳以来の王たちが担っていた祭祀が、別の担い手と別の形式へ移り変わる転換点だったのである。
したがって問題は、「王たちの祭祀がなぜ終わったか」というだけではない。
より正確には、なぜ王たちの祭祀は、そのままの形では続けられず、別の層によって再編されなければならなかったのか、である。
比売神成立の問題は、まさにこの再編の帰結として理解されるべきなのである。
四、宇佐氏はどこから現れたのか
奈良時代の宇佐では、比咩神がすでに明確な位置を占めている。
中野幡能の研究では、宇佐宮の古い祭祀構造は、宇佐氏の比咩神と大神氏の八幡神という二つの神格の併存として理解されており、比咩神宮寺や神封をめぐる争いも、比咩神が奈良時代の宇佐で独自の重みを持っていたことを示している。比咩神は、八幡神に従属する陪神のような存在ではなく、宇佐氏が古来保持してきた神格として前面に出ていたのである。
では、その宇佐氏は、宇佐王族とはまったく無関係に、後から外部から現れた勢力なのだろうか。
私はそうは考えない。
もちろん、現存する史料だけで、宇佐氏と赤塚古墳以来の宇佐王族との血統的連続を直接証明することはできない。ここは本稿の弱い部分であり、無理に断定すべきではない。だが一方で、奈良時代に比咩神が「宇佐氏の古い神」として前面化している以上、宇佐氏を宇佐の古い祭祀秩序と無関係な新来勢力とみるのも不自然である。少なくとも、宇佐氏は宇佐の中心祭祀と深く結びついた層であったとみるほかない。
この点で示唆的なのが、後代の系図・縁起類である。
たとえば「宇佐氏系図」には宇佐国造家の出自が記され、また宗像アーカイブズ掲載論文が整理するように、そこでは宇佐川上流に天三降命を祭る理解が示されている。さらに『宇佐八幡宮彌勒寺建立縁起』系の伝承では、比咩大御神の前住の霊がまず宇佐郡馬城峰に現れ、その後に祭祀の場が展開していくという説明がみえる。これらはもちろん、そのまま古代の事実を語る一次史料ではない。むしろ後代の再構成を強く含んでいる。だが、それでもなお宇佐国造家の出自や比咩神の古さを引きずっている以上、宇佐氏と宇佐の古い祭祀秩序との接点自体は、かなり深いところにあったと考える方が自然である。
つまり問題は、宇佐氏が「どこから来たか」を血統だけで問うことではない。
むしろ問うべきは、誰が古い神霊祭祀を引き継ぐ立場にあったのか、である。
赤塚古墳以来の宇佐の王たちが、御許山を中心とする山・石の神霊を首長祭祀の核として担っていたとすれば、六世紀半ばにその首長祭祀が維持できなくなったあとも、その神霊そのものは消えなかったはずである。神霊を消さず、しかも旧来の巨大な祭祀形式に代わる新しい形で継続するには、王族の近くで神事を担っていた層が前面に出るほかない。宇佐氏とは、まさにそのような層だったのではないか。
この見方に立つと、宇佐氏の出現は「突然の交代」ではなく、祭祀の担い手の前面化として理解できる。
王たちが政治と祭祀を一体として担っていた時代には、宇佐氏はその内部で神事を支える位置にいた。だが六世紀半ば、前方後円墳に象徴される王的祭祀の形式が終わると、王たち自身は従来の国家祭祀を維持できなくなる。そこで、王族祭祀の内部で神霊奉斎を担っていた宇佐氏が、より小さく持続可能な祭祀の主体として前面に出たとみると、奈良時代における比咩神の位置ともよく符合する。
したがって、宇佐氏を理解するうえで重要なのは、宇佐王族との直線的血統を証明することではない。
重要なのは、宇佐氏が、王たちの古い祭祀を引き継ぐに足るだけの位置にいたということである。
そのことは、奈良時代の比咩神の重み、後代系図が引きずる宇佐国造家の出自、そして宇佐祭祀の構造そのものが、十分に示唆しているのである。
五、比売神はどのように成立したのか
ここで比売神成立の問題が出てくる。
御許山の神霊は、もともとは山そのもの、石そのものに宿る自然神霊として受け止められていた。
それは特定の人格を備えた神ではなく、場所と一体化した強い神威であり、王たちが大きな首長祭祀の中でこれを奉じていたと考えられる。
この段階では、神はまだ「誰それ」という名を持つ必要がなかった。重要だったのは、御許山という場そのものに神威が宿っているという事実であり、それを王たちが共同体の中心祭祀として取り扱うことであった。
しかし、六世紀半ばを境に、そうした王たちの祭祀はそのままでは維持できなくなる。
前方後円墳に象徴される首長祭祀が終わるということは、王が巨大な祭祀の主として神霊を担う時代が終わることを意味する。
すると問題になるのは、神霊そのものではなく、その神霊をどう祀り続けるかである。
御許山の神霊は、王たちの祭祀が終わったからといって消えるものではない。むしろ地域共同体にとっては、なお祀り続けるべき中心神であったはずである。
だが、そのままでは、王的祭祀の終焉後に日常的かつ持続的に奉斎するには不安定である。
山と石に宿る神威は強いが、強いままでは扱いにくい。
そこで必要になったのは、自然神霊を、より小さく、より継続的で、より共同体にとって受け止めやすい形へ変えることであった。
このとき起きたのが、自然神霊の人格化である。
神霊は、単なる山や石の力としてではなく、共同体の内側で呼びかけ、祈り、受け止めることのできる神格へ変えられていく。
その人格化の結果として成立したのが、比売神だったのではないか。
私は比売神を、単なる女性神、あるいは最初から宗像三女神だった存在としては見ない。
そうではなく、御許山の強い自然神霊を受け止め、包み込み、共同体の中で持続的に祀りうる形に変えた母体神として理解したい。
ここでいう「母体神」とは、生殖神一般を意味しない。
それは、自然神霊を内に抱え込み、その荒々しさを和らげ、共同体が日常的に扱える人格神へと変換する女性神格である。
言い換えれば、比売神とは、自然神霊を否定する神ではなく、それを内包する神であった。
この点で、比売神は祟り神そのものではない。
むしろ、荒々しい神威をそのまま外へ噴き出させる神ではなく、それを受け止め、和らげ、祭祀秩序の内側に包み込む神である。
王たちの時代には、御許山の神霊は巨大な首長祭祀の中で奉じられていた。
しかしその形式が終わったあと、神霊はより小さな祭祀の中へ移されなければならなかった。
その移し替えの中で、自然神霊は比売神という人格神へ変わったのである。
だから比売神は、古い石体信仰と後の神社祭祀のあいだをつなぐ中間神格として成立した。
それは、御許山の神霊が消えたことを意味しない。
むしろ、御許山の神霊が生き残るために、比売神という形をとったのである。
六、比売神はいつ三女神になったのか
比売神は、成立した後もそのまま固定されたわけではない。
御許山の自然神霊を受け止める母体神として成立した比売神は、宇佐の在地祭祀の中では十分に機能したとしても、中央神話の秩序の中ではなお位置づけが曖昧であったと考えられる。
自然神霊を人格化した母体神というだけでは、王権の神話体系の中でその神格を整理しにくい。ここに、後代の神名整理が必要となった理由がある。
その大きな契機となったのが、七二〇年の『日本書紀』成立であろう。
『日本書紀』において、宗像三女神はすでに明確な神話枠組みの中に置かれている。宗像市の文化財保存活用地域計画でも、『古事記』『日本書紀』には宗像三女神の誕生を伝える神話が見えると整理されており、少なくとも八世紀初頭の中央神話秩序の中では、三女神の枠が確立していたとみてよい。
宇佐の比売神も、この中央的な神話秩序の中で宗像三女神と結びつけられていった可能性が高い。
ただし、ここで注意すべきは、比売神が最初から三女神だったわけではないということである。
比売神の古層は、あくまで御許山の自然神霊を母体神として受け止めた宇佐の祭祀再編にある。
三女神化とは、その古い比売神に対して、『日本書紀』成立後の中央神話が上から重ねられた整理とみるべきである。
このことは、宇佐関係の後代史料のあり方からも示唆される。
宗像アーカイブズ掲載の野木雄大論文は、「宇佐氏系図」では宇佐川上流に**天三降命(宗像三女神)**を祭るとし、中野幡能が宇佐氏の祖先神がのちに宗像三女神へ転化したことを指摘していると紹介する。さらに『宇佐八幡宮彌勒寺建立縁起』には、比咩大御神前住の霊がまず馬城峰に現れ、その後に祭祀の場が展開したと記される。ここから見えてくるのは、比売神がもともと宇佐固有の古い神でありながら、後代には宗像三女神という中央的神話枠の中へ組み込まれていったという流れである。
しかし、三女神化で終わったわけではない。
さらに後には、天三降命のような神名が前面化する。
ここが重要である。もし宇佐の比売神が宗像三女神として整理されただけであれば、その神格は宗像氏の神話秩序に従属する形で理解されやすい。
ところが実際には、宇佐ではそこからさらに、三女神を宇佐独自の祖神名へと引き寄せる再整理が行われたように見える。
その結果現れたのが、天三降命という名称ではなかったか。
野木論文が示すように、「宇佐氏系図」は宇佐川上流に天三降命を祭るとする。
この事実は、単に三女神信仰が宇佐へ入ったことを意味するのではない。
むしろ、比売神に重ねられた三女神の枠組みが、さらに宇佐の祖神秩序の中で言い換えられ、宇佐氏の側へ引き寄せられていったことを示唆している。
天三降命とは、比売神の原初名ではなく、三女神的整理をさらに宇佐独自の祖神名へと再構成した後代の整理名と見る方が自然である。
ここで注意すべきは、天三降命の方が古いように見えて、実はそうではない可能性である。
比売神は御許山の自然神霊を受け止める宇佐の母体神として成立し、その後に三女神化が起き、さらに天三降命化が起きた。
つまり、見かけの整った神名ほど後から与えられた可能性が高い。
この点を見誤ると、宇佐の古層は見えなくなる。
したがって、比売神の三女神化とは、宇佐の古い母体神が『日本書紀』以後の中央神話秩序の中で宗像三女神の枠へ接続された段階を指し、さらに天三降命化とは、その三女神的整理を宇佐独自の祖神名へと再び引き寄せ直した段階を指す。
この二重の整理を経て、比売神は後世の宇佐祭祀の中で位置づけ直されていったのである。
七、結論
本稿で見えてきたのは、比売神が最初から整った神名を持つ神ではなかったということである。
宇佐の古い祭祀の根にあったのは、御許山に宿る山・石の神霊であり、赤塚古墳以来の宇佐の王たちは、その強い自然神霊を首長祭祀の中で担っていたと考えられる。六世紀半ば、鶴見古墳を最後に前方後円墳による首長表現が終わると、その祭祀は従来の形では維持できなくなったが、神霊そのものが消えたわけではなかった。
むしろこの転換の中で起きたのは、古い神霊祭祀の断絶ではなく、その縮小再編であった。
王たちが担っていた大きな祭祀は終わっても、御許山の神霊は地域にとってなお必要であり、別の形で祀り続けられなければならなかった。その担い手として前面に出たのが宇佐氏であり、その再編の中で、自然神霊を受け止め、共同体の内部で持続的に祀りうる人格神として形成されたのが比売神だったとみるのが最も自然である。比売神とは、単なる女性神ではなく、御許山の神霊を包み込み、祭祀秩序の中へ移し替えるための母体神だったのである。
その後、比売神は中央神話の秩序の中で宗像三女神の枠組みに接続され、さらに平安前期の系譜秩序の中で天三降尊のような整理名へと転化していった。だが、それらは比売神の起源ではない。起源にあるのはあくまで御許山の自然神霊であり、比売神とは、その古い神霊が政治秩序の変化の中で生き残るためにとった、新しい祭祀形態の名であった。
したがって、宇佐八幡成立前史において問うべきなのは、「比売神とは誰か」ではなく、「古い自然神霊が、どのようにして比売神という人格神へ再編されたのか」である。
本稿は、その再編の契機を、六世紀半ばの宇佐王族祭祀の終焉と、その後の宇佐氏による祭祀継承の中に見た。比売神の成立とは、宇佐の古い神霊信仰が失われたことではなく、むしろそれが新しい秩序の中で生き延びたことを意味しているのである。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
関連テーマ
注
- 宇佐市文化財保存活用地域計画は、川部・高森古墳群について、後期の鶴見古墳を最後に宇佐で前方後円墳が築かれなくなったとする。 (city.usa.oita.jp)
- 赤塚古墳が三世紀末に遡る県内最古級の前方後円墳であること、および川部・高森古墳群に三世紀末~六世紀半ばの前方後円墳が六基あることは、公的解説による。 (millennium-roman.jp)
- 御許山が三柱の比売神降臨説話で知られ、山頂に巨石体をもつ磐座であることは、宇佐神宮関連保存活用計画に拠る。 (sitereports.nabunken.go.jp)
- 比咩神を宇佐氏の古い神、八幡神を大神氏の奉斎神として把握する整理、および比咩神宮寺・神封をめぐる問題は中野幡能の研究による。 (geitan.repo.nii.ac.jp)
- 「宇佐氏系図」に見える天三降命と宗像三女神の接続については、宗像アーカイブズ掲載論文の整理が参考になる。 (munakata-archives.asia)
- 本稿でいう「母体神」とは、生殖神一般ではなく、御許山の自然神霊を受け止める女性神格という構造的仮説である。
- 宇佐氏と宇佐王族の血統的連続は、現存史料から直接立証できない。本稿は、王族祭祀の内部にいた神事担当層が前面化した可能性として論じる。
- 六世紀半ばの政治再編と宇佐王族祭祀の縮小を直接語る一次史料はない。本稿の理解は、古墳系列の終息と後代の祭祀構造からの推論である。
参考文献
中野幡能「とくに八幡神像を中心として」『大分県立芸術短期大学研究紀要』13、1976年。 (geitan.repo.nii.ac.jp)
宇佐市『宇佐市文化財保存活用地域計画』2023年。 (city.usa.oita.jp)
宇佐神宮境内社叢保存活用計画関連資料。 (sitereports.nabunken.go.jp)
野木雄大「中世における宗像神信仰の展開」宗像アーカイブズ掲載論文。 (munakata-archives.asia)
大分県北部地域観光ガイドマニュアル。 (millennium-roman.jp)


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