
宇佐津彦清智
――非連続化された交通線にみる国家編纂の意図――
『古事記』国生み条に見える「隠伎之三子島」は、一般には現在の隠岐諸島に比定される。國學院大學古事記学センターの解説でも、隠伎之三子島は隠岐国に比定されるが、隠岐諸島全体は四島から成るため、「三子島」とどう対応させるかが問題となり、通常は島前三島に比定すると説明されている。すなわち通説は存在するが、その比定は語義の上で必ずしも無理なく収まっているわけではない。むしろ「三子」という表現そのものが、なお再検討を要する問題を残している。
本稿は、この「隠伎之三子島」を島根県の隠岐諸島ではなく、豊前海に面した行橋市簑島の古い景観記憶として読み直す可能性を検討するものである。ただし、いま本文に現れている「隠岐」表記を直ちに全面否定することが目的ではない。問題にしたいのは、記紀編纂以前の神話古層において、いかなる海上景観がこの語の背景にあったのか、という点である。結論を先に言えば、簑島は「三子」の景観、背後の要港草野津、さらに神武伝承の分布という三条件を同時に満たす点で、きわめて有力な候補地である。
まず注目すべきは、簑島そのものが古く島であり、しかも「三つ」の景観記憶を伴っていたことである。行橋市の地域資料では、簑島は古くは海に浮かぶ島であり、現在の陸続きの地形は後代の架橋・干拓によって形成されたものとして理解されている。また簑島は、もとは三つの山から成るように見えるところから「三島」と呼ばれ、それが「蓑島」へ転じたと伝えられる。ここで重要なのは、「三子」を三つの独立島に限定せず、三峰・三塊・三児状の島景として捉える視点である。もし神話における命名が測量的な島数よりも航海上の見え方に依拠していたならば、簑島の「三島」景観は「三子島」の理解にきわめてよく適合する。
次に重要なのは、簑島が単独の島ではなく、その奥に草野津という要港を控えている点である。行橋市の案内では、草野津は「古代交通の主要港」とされ、市史でも草野津の位置は行橋市草野周辺が一般的な遺称地と説明されている。また行橋市史は、後の行事津・大橋津が古代の草野津の後身であり、この地域が潮の干満を利用して内陸と外海を結ぶ輸送体系を持っていたことを示している。つまり簑島の意味は、単に海上から目につく景観島というだけではなく、背後の草野津という具体的な寄港・上陸・輸送拠点へ導く前景のランドマークにあったと考えられる。
この点は、古代海上交通を考えるうえで決定的である。古代の航海では、海岸線のどこにでも自由に船を寄せられたわけではない。風向・潮流・補給の問題に加え、沿岸各地の背後には異なる勢力圏が存在し、友好的な浦とそうでない浦が複雑に入り組んでいた可能性が高い。したがって航海者にとって重要であったのは、単に九州の陸地を認識することではなく、安全に接近しうる具体的な上陸地点を見極めることであった。簑島は、その奥に草野津という受け皿を持つがゆえに、「九州の抽象的目印」ではなく、「上陸可能圏を知らせる実用的目印」として意味を持っていたとみるべきである。草野津が瀬戸内・周防灘航路上の主要港であったことは、この理解を強く支える。
さらに本稿の仮説を補強するのが、神武伝承の北部九州分布である。『古事記』『日本書紀』では、神武東征の九州段階において、まず宇佐に立ち寄り、そののち筑紫の岡田宮・岡水門へ至る構成が見える。宇佐神宮の解説でも、神武が豊国宇佐に到り、宇沙都比古・宇沙都比売の饗応を受けた伝承が紹介されている。他方、行橋市の簑島神社には、神武天皇が日向から北上して簑島に逗留し、天照大神を祀ったことに起源を持つという伝承が残る。つまり神武伝承は、宇佐、簑島、岡水門という北部九州の複数地点に分布しているのであって、これは東征神話の原形が、抽象的建国説話ではなく、具体的な海上移動の記憶をかなり濃厚に含んでいたことを示唆する。
この伝承分布を、仮に簑島・草野津周辺を不彌国、田川郡方面を伊都国、遠賀川河口方面を末盧国と見る作業仮説の上に重ねると、さらに興味深い像が浮かぶ。すなわち、簑島は海上から最初に認識される島景、草野津は受け皿となる港、内陸側は田川方面へ抜ける結節点、そして遠賀川河口は再び外海へ開く出口である。このとき問題は、各国の単独比定ではなく、それらがどう連続していたかに移る。国生み神話、神武東征伝承、魏志倭人伝の地名列は、個別には残っていても、一本の海陸交通線としては明示されない。むしろ本稿が重視したいのは、この「非連続」である。隠されたのは地点それ自体ではなく、北部九州東岸から外海へ伸びる交通線そのものだった可能性がある。
では、なぜこの交通線は神話の上で非連続化されたのか。ここで重要になるのが、編纂国家にとっての隠岐の位置である。國學院大學古事記学センターの解説は、隠岐国が『延喜式』民部式で「辺要」の国とされ、新羅に対する防衛の軍事拠点として重視されていたことを明記している。すなわち八世紀国家の地理認識において、隠岐は単なる離島ではなく、日本海側の対外前線として強い国家的意味を帯びた島であった。もし記紀編纂以前の神話古層に、簑島を起点として九州北部、壱岐、対馬へとつながる対岸航路の記憶が含まれていたならば、それを国家神話として再配置する際、局地的な航路景観である簑島よりも、国家防衛上の意味を持つ隠岐を前面化する方が、編纂上ははるかに都合がよかったはずである。
ここで見えてくるのは、単なる誤伝や偶然ではない。隠岐比定は、神話の舞台を全国化し、王権の空間秩序の中へ組み込むための再編集として理解できる。もともとは簑島―草野津―北部九州諸拠点―壱岐―対馬へと連続していた海上交通線が、編纂段階で国家地理にふさわしい島嶼へ置き換えられた結果、その連続性が切断され、表面には「隠岐」という国家前線の島名だけが残ったのである。四国から不自然に飛んで隠岐へ接続する現在の見え方も、この再配置の痕跡として理解しうる。壱岐・対馬が古来より大陸交流の要衝であったことを考えれば、簑島から対岸航路へ伸びる原初的な連続線の方が、交通史の実相にはむしろなじむ。
この地域の戦略的重要性は、古代神話のみに属するものではない。行橋市史および文化財解説によれば、馬ヶ岳は中世以来、九州北東部の要衝として大名たちが奪い合った山城であり、天正十五年には豊臣秀吉の九州攻めに伴って大規模な防御施設が整えられた。また背後地には豊前国府が置かれ、みやこ町の解説によれば、豊前国府は奈良時代に設置された豊前国の政庁として国作に所在していたことが発掘によって確定している。さらに行橋市史は、国府津として今井津が機能し、海上交通と内陸行政が一体であったことを示している。もちろん中世末や律令国家の状況をそのまま神話時代へ遡らせることはできない。しかし、簑島・草野津・馬ヶ岳・国府という組み合わせは、この一帯が長期にわたって海上交通、軍事、行政の結節点であり続けたことを示しており、本稿の地勢論を傍証する。
以上を総合すると、隠伎之三子島を現在の隠岐諸島に比定する通説は、八世紀国家の広域地理認識としては理解可能である。しかし、「三子」という語義の不自然さ、簑島の三島景観、草野津との一体性、神武伝承の分布、さらに北部九州東岸の交通線という観点を重ねるならば、神話の古層に記憶されていた島景は、むしろ豊前簑島であった可能性が高い。本稿の結論は、単に「隠岐は簑島である」と断定することではない。むしろ問題は、簑島・草野津・宇佐・岡水門、そして壱岐・対馬へと続くはずの交通線が、なぜ神話の上で非連続化されたのかという点にある。その背後には、対新羅前線として国家的意味を持つ隠岐を前面化し、北部九州海域に根ざした古い航路記憶を国家神話へと組み替えようとする編纂意図があった可能性がある。ここにおいて「隠伎之三子島」問題は、単なる地名比定の争いを超え、国家がいかに交通線を再構成し、神話化したかという問題へ転化するのである。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
関連テーマ
注釈
- 國學院大學古事記学センターは、「隠伎之三子島」を隠岐国に比定しつつ、隠岐諸島全体が四島構成であるため、「三子島」との対応自体が問題であることを示している。通説の側にも未解消の難点が残る。
- 簑島神社由緒にいう神武伝承は、記紀本文そのものではなく地域伝承の層に属する。したがって本稿では、これを直接の本文証拠ではなく、北部九州海域に神武伝承が広く分布していたことを示す補助線として用いた。
- 草野津の位置については草野周辺を一般的な遺称地とする説明がある一方、行事方面まで含める理解も存在する。本稿では地点の一点確定よりも、簑島の奥に古代港湾機能が展開していたという広い地勢認識を重視した。
- 隠岐を「対新羅前線」とみる点は、隠岐国が『延喜式』で「辺要」とされた事実に基づく。もっとも、これをそのまま記紀編纂意図へ直結させることはできず、本稿では「そのような再配置圧力が働いた可能性」として提示した。
- 高城山のニニギ降臨伝承や草野津周辺を神都とみる伝承は、本稿の主論と接続しうるが、論点が天孫降臨神話へまで拡散するため、今回は扱わなかった。別稿の課題とする。
- 福原長者原官衙遺跡の性格については、筆者は別ノートにおいて論じている。本稿では、その背後地が軍事・行政上の要域でもあったことを示す参照にとどめた。
参考文献
國學院大學古事記学センター「隠伎之三子島」
國學院大學古事記学センター「天之忍許呂別」
國學院大學古事記学センター「国生み」
行橋市「良処探訪ウォーキング」蓑島神社解説 PDF
行橋市「かやの津 直売所令和」
行橋市デジタルアーカイブ『行橋市史』草野津関係記事
みやこ町「豊前国府跡公園」
行橋市デジタルアーカイブ『行橋市史』馬ヶ岳城関係記事
行橋市文化財サイト「馬ヶ岳城跡」関係ページ


コメント