
宇佐津彦清智
――徇葬・威儀財・神宝化から見る女王国の中枢層
『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼の死は、単なる一首長の死ではない。そこには「大作冢」「徇葬者奴婢百余人」と記され、巨大な墓と百余人の徇葬が伴っている。しかも卑弥呼は生前、魏から銅鏡百枚、刀、錦、帛、白絹、采物など、多量の威儀財を下賜されていた。これらを合わせて見ると、卑弥呼の時代の倭王権は、単に在地の首長社会の延長ではなく、中国王朝的な王権儀礼を理解し、それを自らの権威へ変換できる高度な中枢層を備えていたと考えるべきである。
本稿の狙いは、卑弥呼の時代に「物部氏」の名が史料に現れる、と断定することではない。そうではなく、卑弥呼政権を成立させるために必要だった機能――すなわち、威儀財の受領と管理、死の王権儀礼の執行、鎮魂、そして王権財の神聖化――を後代に最も濃く保存しているのが物部氏である、という点を明らかにすることである。後代史料に見える物部氏の性格を、卑弥呼時代の王権儀礼へ逆照射することで、卑弥呼を支えた「原物部的」な中枢奉仕層の存在を考えたい。
まず確認すべきは、卑弥呼の死に伴う徇葬の重さである。『魏志倭人伝』は、卑弥呼について「以死。大作冢。径百余歩。徇葬者奴婢百余人」と記す。これは、女王の死がその個人の終わりであるのみならず、彼女に従属する奉仕集団を巻き込む体制儀礼であったことを示す。倭人一般の墓制として、こうした大規模徇葬が広く確認されているわけではない。むしろ、日本列島の考古学的整理では、殉葬を一般的な墓制として確認することは難しく、陪塚や陪臣塚も直ちに殉死者の墓とは言えないとされる。そうであるならば、卑弥呼の徇葬は、倭人社会の平常的な埋葬習俗ではなく、きわめて特異な王権儀礼として理解すべきであろう。
ここで思い起こされるのが、中国世界の王侯葬制である。中国では古くから王侯の死に殉葬・徇葬が伴い、殷周以来、王の死に従者や奴婢を従わせる発想が存在した。秦漢以後には俑への置換が進むが、王の死に従属者を付すという観念自体は、東アジアの王権文化の中で広く知られていた。卑弥呼の死に見える「巨大な墓」と「百余人の徇葬」は、この中国的王権儀礼を思わせる。もちろん、卑弥呼の徇葬が中国儀礼の完全な模倣であったとまでは言えない。しかし、少なくとも倭王権が中国王朝的な死の演出を理解し、それを自らの権威表現として採用できた可能性は高い。徇葬が特異であればあるほど、それを執り行う層の存在は重くなる。
次に注目すべきは、卑弥呼が魏から受け取った威儀財である。『魏志倭人伝』には、銅鏡百枚、刀、真珠、鉛丹、各種の錦や帛、白絹、采物などが列挙される。ここで重要なのは、鏡や刀だけではなく、錦帛や采物のような布帛類がきわめて重視されていることである。これは単なる贈答品ではない。中国皇帝が周辺王権に下賜する、権威の視覚化・儀礼化に用いられる王権財のセットである。倭王権の側には、それを受け取るだけでなく、国内秩序の中で意味づけ直し、自らの王権の象徴へと変換する能力が必要だったはずである。
この点から、十種神宝との比較が立ち上がる。十種神宝は、鏡、剣、玉、そして蛇比礼・蜂比礼・品物之比礼などの比礼から成る。魏が卑弥呼に与えた威儀財と完全に一致するわけではないが、鏡・剣・布帛という中心要素は著しく近い。とくに比礼は、単なる布ではない。國學院の注釈でも、比礼は物部の鎮魂法に関わる布状の神宝と説明され、振ることで呪力を発揮するものとされている。すなわち、比礼は「王権を示す布」であると同時に、「魂を鎮め、災厄を祓う布」でもあった。ここに、魏から下賜された布帛類が、日本側で祭祀具・神宝へ再編される道筋が見える。中国側の語で言えば「采物」であったものが、倭王権の内部では「比礼」として神話化されたのではないか。
ここで初めて、物部氏が浮上する。後代の物部氏は、単なる軍事氏族としてではなく、石上神宮の神宝管理者であり、布都御魂剣を奉じ、鎮魂の祭祀に関与する氏族として現れる。國學院の解説では、石上神宮の神宝管理を物部連・物部首が担ったこと、また物部氏が鎮魂の祭祀と深く関わることが明確に示される。さらに、布都御魂そのものが、物部氏や石上神宮の鎮魂の効能を表す存在として解説されている。すなわち物部氏とは、武器を持つ氏族というより、神宝を管理し、剣神を奉じ、鎮魂を司る王権奉仕集団なのである。
この後代の物部氏の姿を、卑弥呼時代へ投げ返すとどうなるか。卑弥呼政権には、少なくとも次の機能が必要だった。第一に、魏からの威儀財を受け取って管理する機能。第二に、その威儀財を倭王権の神聖物へ変換する機能。第三に、女王の死に伴う巨大な徇葬儀礼を執行する機能。第四に、死後の鎮魂と体制の再統合を担う機能である。実際、卑弥呼の死後に男王を立てたが国中は服さず、千余人が死に、最終的に壹与を立ててようやく秩序が回復した。このことは、卑弥呼政権が単なる世俗首長制ではなく、特殊な祭政構造の上に成り立っていたことを示す。そこで必要なのは、女王その人ではなく、その女王権を支える儀礼・神宝・鎮魂の中枢層であった。
以上を踏まえれば、卑弥呼時代に物部氏の名が史料に出ないことは、致命的な弱さではない。むしろ問題は、卑弥呼体制に必要だった役割を誰が担ったかである。そして後代史料において、その役割を最も濃く保存しているのが物部氏である以上、卑弥呼政権の中核奉仕層の後身を物部氏に求めることは十分可能である。言い換えれば、卑弥呼を支えたのは、後代に物部氏として可視化されるような、神宝管理・鎮魂・王権儀礼を担う原物部的集団だったと考えられるのである。
本稿の結論は単純である。倭人一般は大規模徇葬を常態化していなかった可能性が高い。にもかかわらず、卑弥呼には百余人規模の徇葬が伴った。そこには中国王宮的な特別儀礼を導入し執行できる層が存在したはずである。さらに、魏から下賜された鏡・刀・帛・采物は、倭王権の中で神宝化され、鎮魂儀礼へ取り込まれていった可能性が高い。そして、この神宝管理と鎮魂の機能を後代に最もよく保存しているのが物部氏である。卑弥呼の時代に名は出ずとも、卑弥呼を支えた層の後身として物部氏を位置づけることは、決して無理な読みではない。
本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
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注
- 『魏志倭人伝』の卑弥呼葬送記事には「卑弥呼以死。大作冢。径百余歩。徇葬者奴婢百余人」とある。卑弥呼の死に徇葬が伴ったことは本文上明確である。
- 同じく『魏志倭人伝』には、卑弥呼への下賜品として銅鏡、刀、錦、帛、白絹、采物などが記される。これは外交贈答品であると同時に、王権の威儀財として理解できる。
- 日本列島の墓制一般として大規模殉葬が広く確認されているわけではなく、陪塚・陪臣塚も直ちに殉死者墓とは断定できない。したがって、卑弥呼の徇葬は特異な事例として重い。
- 十種神宝の比礼は、物部の鎮魂法に関わる布状神宝として説明される。比礼を、魏の采物・布帛類が日本側で祭祀化された姿とみる余地がある。
- 物部氏は、石上神宮の神宝管理者であり、布都御魂剣と鎮魂祭祀に深く関わる氏族として後代史料に現れる。卑弥呼政権に必要な中枢奉仕層の後身としてみる際の最大の根拠である。
- 卑弥呼の死後、男王擁立が失敗し、壹与擁立でようやく秩序が回復した点は、女王権が特殊な祭政構造だったことを示す。
参考文献
- 陳寿『三国志』魏書東夷伝倭人条(『魏志倭人伝』)
- 吉野ヶ里歴史公園「邪馬台国・卑弥呼関連解説」
- 國學院大學 古典文化学事業「布都御魂」「饒速日命」ほか神名解説
- 墳墓・殉葬に関する事典・研究整理
- 壱与・卑弥呼死後の秩序再編に関する倭人伝解説資料

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