【研究ノート36】大隅正八幡宮の原初層と宇佐八幡成立

宇佐津彦清智

―豊前移住・神名再編・記紀編纂体制をめぐって―

第一章 問題の所在――宇佐八幡成立以前の大隅正八幡宮をどう捉えるか

本稿の出発点は、大隅正八幡宮の原初層を、完成後の宇佐八幡の分祀としてではなく、より古い祭祀層として捉え直すことにある。現在の鹿児島神宮の祭神構成を見ると、主祭神は彦火火出見尊・豊玉比売命であり、いわゆる応神天皇中心の八幡宮とは構造が異なる。霧島市の文化財解説でも、鹿児島神宮は社伝では和銅元年(708)創建とされ、主祭神を彦火火出見尊・豊玉比売命とし、平安時代に八幡神が勧請されて「八幡正宮」「大隅正八幡宮」と呼ばれるようになったと説明されている。すなわち、大隅正八幡宮の現実の中核は、少なくとも表面上は彦火火出見尊系の社であって、後世に典型化した宇佐八幡の姿とは一致しない。

この点は重要である。もし大隅正八幡宮が最初から宇佐八幡の完成形と同質のものであったなら、主祭神が応神天皇ではなく彦火火出見尊・豊玉比売命であることは説明しにくい。むしろ、大隅側には八幡化以前の古い祭祀層が保存され、その上に後代の「八幡」解釈が重ねられたと考える方が自然である。鹿児島神宮公式由緒も、社の基本的性格を「海幸山幸神話の社」として語っており、八幡神は相殿神に含まれるにとどまる。ここに見えるのは、八幡神が本体なのではなく、後世に八幡が接続された複合社の姿である。

他方、宇佐側では八幡神の公的認知が比較的遅い。高寛敏は、「八幡」の名が正史に現れる天平9年(737)が、弥勒寺造営とも重なる画期であると指摘している。すなわち、宇佐はこの頃にはじめて国家に対して「八幡」を用いうる段階に達したとみられる。もしそうなら、708年ないし714年の豊前―大隅間移動の時点で持ち込まれた祭祀は、まだ後世のように整備された宇佐八幡そのものではありえない。むしろ、宇佐八幡成立以前の、より古い豊前系祭祀が大隅へ運ばれたとみるべきである。

この視点をとると、問題は「大隅正八幡宮は宇佐八幡のどの段階を写したか」ではなく、**「宇佐八幡成立以前に豊前側で祀られていた何らかの古層祭祀が、大隅でどのように定着し、のちに彦火火出見尊として、さらに八幡として再編されたか」**に置き換わる。そこでは、神名そのものを額面通りに受け取ることはできない。現在見える祭神表記はすでに後代的編集を受けた可能性を含んでおり、原初層の神格は別名・古称で把握されていた可能性が高いからである。したがって本稿では、大隅正八幡宮の原初層を、豊前移住・海神系祭祀・記紀編纂体制による神名整理の三点から再検討する。

注釈

  1. 本稿では「大隅正八幡宮」を、主として現在の鹿児島神宮につながる社伝・祭神構成の問題として扱う。
  2. 「宇佐八幡成立」は、宇佐神が国家的に「八幡」として認知される段階を重視し、天平9年(737)前後を画期として捉える。
  3. 現在の祭神表記は、成立当初の神名をそのまま保存しているとは限らない。

第二章 豊前から大隅への移住と、宇原神社との祭神対応

大隅正八幡宮の原初層を豊前系祭祀と考えるうえで、まず重視すべきは、豊前国から大隅国への移住の史実である。和銅7年(714)に豊前国から200戸が大隅国へ移されたことは、自治体史・地域資料でも確認されている。これは単なる人口移送ではなく、隼人支配・国府防衛・地域経営と結びつく政策的移住として理解されている。したがって、そこに移った人びとが、それまでの氏族祭祀・共同体祭祀を持ち込んだと考えるのは自然である。人は土地を移るとき、神もまた移す。国家的移住であればなおさら、祭祀は共同体維持の要であったはずである。

このとき比較対象として重要になるのが、苅田町の宇原神社である。宇原神社公式由緒によれば、同社は彦火々出見尊・豊玉姫尊を祀り、さらに苅田の地を「日向の神田」として位置づける。公式解説でも、彦火々出見尊・豊玉姫尊と、その子である彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊へとつながる海神系・日向系の神統が明確に示されている。つまり宇原神社は、海神宮―豊玉姫―彦火々出見尊の系譜を豊前の地に保存する神社である。

これに対し、鹿児島神宮の主祭神は彦火火出見尊・豊玉比売命である。主祭神の二柱が宇原神社とほぼ一致している以上、この近似は偶然とは考えにくい。しかも大隅側では、後代に八幡神が加わって「正八幡」を名乗るようになる一方、中心神格はなお彦火火出見尊・豊玉比売命のままである。ここから見えてくるのは、大隅正八幡宮の原初層が、応神八幡ではなく、豊前側に既存した海神系祭祀だったという可能性である。宇原神社と大隅正八幡宮を直接結ぶ一次史料は未確認だが、祭神構成の近似と移住史実を重ねると、豊前系祭祀移植説はかなり強い。

ここで大事なのは、神名の一致そのものよりも、豊玉姫の存在である。八幡神起源を論じるとき、応神天皇だけに注目すると大隅正八幡宮の実像を見誤る。むしろ、彦火々出見尊と対になる豊玉姫が、大隅でも豊前でも核に残ることこそが、祭祀の連続性を示す。豊玉姫は海神系世界への入口であり、その名が保存されているということは、神社の根幹が単なる後代八幡化では説明できないことを意味する。したがって、本稿では、大隅正八幡宮の原初層は豊前から持ち込まれた海神系祭祀であるという作業仮説を採る。

もっとも、この段階で現在の神名表記をそのまま708年や714年の実態へ遡らせることはできない。宇原神社も鹿児島神宮も、現存する由緒・祭神表記はすでに後代的編集の結果である可能性を免れない。したがって「彦火々出見尊・豊玉姫」という表記は、原初神格のそのままの呼称ではなく、後に記紀神話の語彙によって整序された可能性をはらむ。すなわち第二章の祭神対応は有力な傍証であるが、その神名表記自体が第五章の神名再編論へ接続する、という留保が必要である。

注釈

  1. 宇原神社と大隅正八幡宮を直接に結ぶ一次史料は、現時点では未確認である。
  2. したがって本章の議論は、移住史実と祭神構成の対応からなる傍証的推論である。
  3. ただし、豊玉姫の一致は単なる付随神ではなく、祭祀核の共有を示す指標として重い。

第三章 記紀編纂体制と神名の再編――ヤハタ神から彦火々出見尊へ

以上の検討を踏まえると、次に問うべきは、大隅へ持ち込まれた時点の神が、なぜ現在は「彦火々出見尊」として把握されているのかという問題である。ここで重要なのが、712年『古事記』、720年『日本書紀』の編纂である。『古事記』序は、諸家に伝わる帝紀・旧辞について「正実に違ひ、多く虚偽を加ふ」とし、「偽りを削り実を定め」て後世に流そうとする国家意思を明言する。これは単なる編纂事業ではなく、皇統の神聖性に沿って伝承秩序を選別・再配置する事業であった。したがって、その規範が地方神話や氏族神にも及んだと考えるのは自然である。

さらに、國學院の神名研究では、彦火々出見尊に対応する名群のうち、「火遠理命」と「天津日高日子穂々手見命」はもともと性格の異なる神格を表し、それが後代の王権神話の形成過程で統合された可能性があるとされる。つまり、「彦火々出見尊」という現在の記紀的神名自体が、すでに編集・統合の産物である可能性が高い。そうであれば、708年あるいは714年の時点で大隅へ持ち込まれた神が、はじめから完成済みの記紀神名で呼ばれていたとみる必要はない。むしろ、原初には別の古称があり、それが後に記紀編纂体制の下で整理されたとみる方が合理的である。

ここで本稿は、次の仮説を置く。
708年に大隅へ持ち込まれた神は、当初はヤハタ神、あるいはそれに近い古称で把握されており、後に記紀編纂体制の進行とともに彦火々出見尊へと再編・整理された可能性が高い。
この仮説の利点は二つある。第一に、708年や714年の移住段階で、まだ宇佐八幡の完成形が存在しないという年代関係と矛盾しない。第二に、現在の鹿児島神宮が主祭神を彦火火出見尊・豊玉比売命としながら、なお「正八幡」を名乗るという二重構造を説明しうる。すなわち、原初にはヤハタ神系の神があり、記紀体制下では彦火々出見尊として整序され、後には再び八幡として政治宗教化されたという三段階構造である。

もっとも、ここでいう「ヤハタ神」は、現時点で直接史料に現れるわけではない。したがって本文では強く主張しつつも、注記では史料上の限界を明示する必要がある。つまり本章の主張は、「708年段階の神名は彦火々出見尊ではない可能性が高い」という点では比較的強く、「その古称が具体的にヤハタ神であった」とする点ではなお作業仮説である。しかし、記紀編纂体制が地方神名の再編を促したという大枠は、『古事記』序の理念からみて十分に支持しうる。ここに本稿の神名再編論の核心がある。

注釈

  1. 「ヤハタ神」は、本稿では記紀神話による整理以前の古層神格を指す作業仮説上の名称である。
  2. 直接史料の欠如を理由に退けるのではなく、神名編集の痕跡から逆算して設定した仮説である。
  3. ただし、現在確認できる祭神表記自体がすでに後代的編集を受けた可能性を含むため、この点は神名表記の問題として慎重な扱いを要する。

第四章 737年の宇佐――なぜこの時に「八幡」が公的に現れるのか

大隅正八幡宮の原初層を以上のように考えたとき、最後に問うべきは、なぜ宇佐では天平9年(737)に至って「八幡」が公的に現れるのかという点である。ここで注目されるのが、『続日本紀』天平9年4月条の「八幡二社」である。朝廷が「八幡二社」に奉幣したこの記事は、宇佐の神がこの時点で国家に対して「八幡」として認識されていたことを示す。高寛敏が指摘するように、これは「八幡」の名が正史に現れる最初期の例であり、宇佐神の国家的地位の確立を意味する。

また、宇佐ではこの前後に弥勒寺造営が進み、神仏習合を伴う制度的再編が進行していた。神宮寺としての弥勒寺の本格化が737年前後に位置づけられることは、宇佐がこの頃に単なる在地祭祀から、朝廷と接続する政治宗教拠点へ転化したことを示している。すなわち、宇佐がこの時期にはじめて「八幡」を公的に名乗りえたのは、単に神名があったからではなく、それを国家的言語として運用できる制度的条件が整ったからである。

この点を第三章と重ねると、全体の構図はより明確になる。
708年や714年に大隅へ動いた祭祀は、まだ完成後の宇佐八幡ではない。そこでは、古層のヤハタ神系祭祀が地方共同体の守護神として存在していた可能性が高い。720年の『日本書紀』編纂以後、その古層祭祀は中央規範のもとで彦火々出見尊として整理された。他方、宇佐では737年に国家が「八幡二社」としてこれを認知し、逆に八幡神という名称を公的に使用できる段階へ移行した。つまり、同じ古層祭祀が、大隅では一時的に記紀神名へ整理され、宇佐ではのちに八幡として国家宗教化されたのである。

この理解に立てば、大隅正八幡宮と宇佐八幡は、単純な本末関係ではなく、同じ古層祭祀が異なる時点・異なる政治条件のもとで別様に表現された二つの相として捉えられる。大隅の原初層は豊前移住民が持ち込んだ海神系祭祀であり、それが記紀編纂体制下で彦火々出見尊に整理された。宇佐はそれをさらに国家的に吸収し、737年以後には「八幡」として表現しえた。この意味で、宇佐八幡成立は起源そのものではなく、古層祭祀の国家的命名の完成段階だったと位置づけることができる。

注釈

  1. 「八幡二社」の条文解釈には細部の議論がありうるが、本稿では少なくとも737年時点で「八幡」が国家的に通用する神名となっていた事実を重視する。
  2. 宇佐八幡成立を737年前後に置くのは、創祀伝承の否定ではなく、公的成立段階の重視である。
  3. 本稿の結論は、宇佐を八幡の唯一絶対の起点とみる見方を相対化する。

結論

以上の検討から、次のようにまとめることができる。
第一に、大隅正八幡宮の現実の祭神構成は、応神八幡よりも彦火火出見尊・豊玉比売命を中心としており、その原初層は海神系祭祀にあった可能性が高い。第二に、苅田町の宇原神社もまた彦火々出見尊・豊玉姫尊を祀っており、和銅期の豊前から大隅への移住史実と重ねると、豊前系祭祀が大隅へ持ち込まれたという見方は有力である。第三に、712年『古事記』・720年『日本書紀』に象徴される記紀編纂体制は、地方伝承・神名表記にも規範圧力を及ぼしたと考えられ、708年に大隅へ持ち込まれた神は、当初はヤハタ神、あるいはそれに近い古称で把握されており、後に彦火々出見尊へ再編された可能性が高い。第四に、宇佐は天平9年(737)に至って正史上「八幡」として現れ、この時点で初めて国家的に八幡神を名乗りうる段階に入った。

したがって、宇佐八幡成立とは、起源の発生そのものではなく、豊前系古層祭祀が国家的言語のなかで「八幡」として完成する段階だったとみるべきである。本稿の新しさは、大隅正八幡宮の彦火々出見尊系祭祀、豊前から大隅への移住、宇原神社との祭神対応、記紀編纂による地方神名再編の可能性、そして宇佐八幡宮の天平9年前後の公的成立を、単一の歴史過程として統合的に把握しようとする点にある。

本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。

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関連テーマ

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参考文献

宇原神社「宇原神社とは」「苅田の歴史と宇原神社」
鹿児島神宮「由緒について」
霧島市「指定文化財の概要【隼人】」
高寛敏「八幡神の成立と展開」
上田正昭「神仏習合史の再検討」
北野達「『古事記』と『帝紀及び上古の諸事』」
山田連「『古事記』成立時の疑問について」

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