【研究ノート24】神功皇后像と宇佐大神氏

宇佐津彦清智

神功皇后は誰の記憶か――宇佐大神氏が第三殿に保持した女王的霊威について

問題設定

宇佐神宮において神功皇后は、単なる「応神天皇の母」として片づけられていない。八幡神・比売大神と並ぶ三所宝殿の一角を占め、中世の宇佐系伝承においては「人皇第十五代神功皇后」のように、ほとんど帝位相当の位置にまで引き上げられる。この高位化は、一般的な母子崇拝や后妃崇拝だけでは説明が難しい。母であることが重要なら、応神神話の内部で従属的に処理されてもよいはずである。ところが宇佐では、神功皇后は独立の霊威として保持され、しかも託宣伝承の中心に置かれる。

本ノートは、神功皇后を一人の実在皇后の素朴な伝記とは見ない。むしろ、『日本書紀』が複数の古い女王記憶を再構成し、皇統史の内部に組み込んだ「仮装された女王像」とみる。そのうえで、宇佐大神氏が第三殿に神功皇后を強く保持した理由を、血統祖の崇拝ではなく、託宣・呪術・巫覡的権威を体現する女王的霊威の保持として考える。言い換えれば、宇佐における神功皇后とは、応神の母である以前に、神意を受け、王権を媒介し、祭祀秩序を成立させる女性霊威の器であった、というのが本稿の中心仮説である。

一 神功皇后像は再構成された女王像である

神功皇后を考えるうえで、まず避けて通れないのは、『日本書紀』の叙述をそのまま単純な歴史記録として受け取ることの危うさである。神功皇后紀は、年代構成、外交記事、軍事記事、祭祀記事のいずれを取っても、あまりに整いすぎている。そこには一人の皇后の行動記録というより、複数の異質な記憶を一つの人物像の中に折り畳んだ編集の痕跡が見える。とくに重要なのは、神功皇后の治世が異様に長く設定され、その年代が中国史書にみえる倭女王の時代と重なり合うように構成されている点である。[注1]このことは、神功皇后像の背後に、卑弥呼・台与のような倭女王の記憶が流れ込んでいる可能性を強く示している。

ここで神功皇后という像を、実在人物の等身大の記録として読むのではなく、「女王記憶の編集物」として読む視点が必要になる。もし『日本書紀』が、倭国の古い女王的権威を、そのまま外部に置いておくのではなく、皇統史の内部に取り込み直そうとしたのだとすれば、神功皇后はそのための最も便利な器だった。彼女は皇后であり、母であり、喪を経て政治を執り、しかも異国との交渉や軍事行動を担う。こうした要素を一身に背負わせることで、『日本書紀』は在地的・巫女王的な女王の記憶を、王統に奉仕する「正統な女性権威」へと置き換えることができたのである。

つまり神功皇后とは、ある一人の女性の記録ではなく、古い女王伝承を王権史へ接続するために作られた複合的存在とみるべきである。彼女の中には、喪を司る大后の姿、託宣を受ける巫女王の姿、渡海を主導する軍事的指導者の姿、新王統を生む母体としての姿が重ねられている。[注2]この重層性こそが神功皇后像の本質であり、後世において彼女が単なる后妃ではなく、天皇に準ずる位置にまで押し上げられた理由でもある。神功皇后が「第十五代」という強い位置づけを受けるのは、その人格が歴史的に明証だからではない。むしろ、彼女が古い女王権の記憶を包み込む仮面だったからこそ、その仮面の内側にある正統性が大きく、強く、後世の政治神学に利用されえたのである。

この見方に立てば、神功皇后像の価値は「実在したかどうか」という問いに尽きない。むしろ重要なのは、その像が何を包み込み、誰にとってどのような権威の器として働いたかである。そして宇佐において問題となるのは、まさにその点である。大神氏が神功皇后に見ていたのは、一人の古代皇后の記憶ではなく、もっと古く、もっと曖昧で、それゆえに強力な女王的霊威の残響ではなかったか。この問いが、次章以下の出発点になる。

二 宇佐における神功皇后の本質は、母性より託宣性にある

宇佐神宮における神功皇后の位置づけを考えるとき、まず注目すべきは、彼女が単なる「母神」として祀られているわけではないことである。後世の神社説明では、神功皇后は応神天皇の母として整理され、安産・育児などの徳と結びつけられることが多い。しかし、この説明は後代の理解しやすい解釈であって、宇佐祭祀の古層をそのまま表しているとは限らない。むしろ宇佐系の伝承に分け入ると、神功皇后の像の中核は、母であることより、託宣を受け、神意を媒介することにあるとみる方が自然である。

『八幡宇佐宮御託宣集』などに描かれる神功皇后は、神に祈り、神意を聴き、それに従って行動する中心人物である。[注3]ここでの彼女は、王家の血をつなぐ存在である以前に、神と人間世界の境界に立つ女性である。彼女は自ら神意を聴受し、その内容を政治的決断へ変換する。つまり彼女の核心的機能は、出産そのものではなく媒介である。神功皇后が重要なのは、誉田皇子を生んだからだけではなく、その誕生に先立つ神意の秩序を成立させる役割を負っているからである。

このことは、宇佐系伝承において神功皇后がしばしば帝位相当に高位化されることと矛盾しない。[注4]なぜなら、古代において王権の成立は単純な血統継承だけで完了するものではなく、神意の保証を必要としたからである。喪、鎮魂、神託、軍事行動、王子誕生――これらを貫くのは、王統が神意に裏付けられていることの確認である。宇佐の神功皇后は、その確認を担う女性であり、いわば王権成立以前の条件を整える存在である。したがって彼女が「母」に留まらず、一種の女王的権威を帯びるのは当然である。

さらに言えば、宇佐における神功皇后は、王権の周縁的存在ではない。彼女は、王権そのものを成立可能にする祭祀的条件を体現している。もし応神天皇が王権の顕現した姿であるなら、神功皇后はその顕現以前に神意を引き受ける器である。この関係は、父と子のような直線的継承ではなく、神託を受ける女性と、その託宣によって成立する王の関係である。ゆえに宇佐で神功皇后が独立の殿舎を与えられ、高位化されるのは不思議ではない。彼女は王の付属物ではなく、王の成立条件そのものだからである。

ここまで来ると、神功皇后を「母神」とだけ理解することの不足が明らかになる。母であることは確かに重要な属性であるが、それは本質ではない。本質は、彼女が神意を受け、それを可視化し、王権へと媒介する女性である点にある。宇佐における神功皇后は、母性神よりもむしろ巫覡的主体であり、王権成立の呪術的中核を担う存在だったと考えるべきである。そしてこの理解こそが、大神氏がなぜ神功皇后像を第三殿で保持し続けたのかを解く鍵になる。

三 大神氏は血統祖を祀ったのではなく、女王的霊威の器を保持した

大神氏が神功皇后を重視した理由を考える際、注意すべきは「血統祖」という言葉に引きずられないことである。神功皇后を自家の始祖として明記した史料があるわけではないし、大神氏が自分たちの系譜をそのまま神功皇后に直結させたと断定することも難しい。だが、だからといって神功皇后祭祀を単なる母子崇拝に還元するのもまた不十分である。重要なのは、大神氏が神功皇后という名のもとに何を保持していたか、という問いである。

大神氏は宇佐宮祭祀の中心的担い手であり、宇佐の神意を解釈し、祭祀秩序を維持する家であった。[注5]そのような家にとって必要なのは、王権に従属するだけの母神ではない。必要なのは、神意を受け取り、それを政治秩序へ接続しうる女性霊威である。もし神功皇后像が古い女王的記憶を包み込んだ仮面であるなら、大神氏がそこに見ていたのは「仲哀の后」や「応神の母」という歴史的属性ではなく、その仮面の内側に宿る巫覡的権威であったと考えるのが自然である。

この点で、大神氏の神功皇后祭祀は、血筋の確認というよりも霊威の保持として理解されるべきである。霊威とは、神託を受ける力、祭祀秩序を成立させる力、神意と政治を結びつける力である。こうした力は、必ずしも明示的な系譜によってのみ担保されるわけではない。むしろ、特定の名と像に封じ込められ、それを祭祀として保持することによって継承される。神功皇后という像は、まさにそのような継承の器だったのではないか。[注6]

大神氏にとって重要なのは、神功皇后の実像を確定することではなかっただろう。彼らに必要だったのは、宇佐祭祀の中核にある女王的・巫覡的権威を、制度の内部で安定的に保持することだった。そのためには、古い在地女王の記憶をそのまま露出させるよりも、神功皇后という王統内部の名の下に祭祀化する方がはるかに有効である。これは隠蔽であると同時に保存でもある。大神氏は、神功皇后という仮装によって、古い女王霊威を消すのではなく、逆に存続させたのである。

したがって、大神氏が神功皇后を第三殿に祀り続けたことの意味は、血統祖先への敬慕ではない。それは、宇佐祭祀の深層を支える女王的霊威を、神功皇后という制度的に承認可能な像の中に封じ込み、守り続ける営みであったとみるべきである。この理解に立つと、大神氏のこだわりは単なる信仰心ではなく、祭祀政治上の必然として見えてくる。

四 第三殿の意味

宇佐神宮の第三殿をどのように読むかは、この問題全体の要である。もし第三殿の神功皇后が単なる「応神の母」であるなら、その存在意義は母子関係の確認に尽きる。しかし実際には、独立の殿舎を設けてまで神功皇后を固定する必要がなぜあったのか、という問いが残る。これは単なる配祀ではなく、祭祀構造の中で不可欠の位置を与えられていることを意味する。そこには、母子崇拝以上の意味がある。

第三殿とは、応神神話を完成させるための補助空間ではなく、神意を受ける女性霊威を安置する場として理解すべきである。[注7]宇佐祭祀においては、神が現れ、託宣が発せられ、その託宣に従って政治秩序が動く。この構造の中では、神功皇后は応神の前に立つ存在である。彼女は神託の受領者であり、王権成立の媒介者であり、神意が歴史化される接点である。第三殿は、この媒介機能を制度として保存するための場所とみることができる。

さらに、第三殿の意味は比売大神との関係からも考えられる。宇佐の三神構成は、単純な父母子の家族神話では説明しきれない。そこには、在地の女性神、王権化された男性神、そしてその両者をつなぐ女王的霊威という三層が重なっている可能性がある。神功皇后が第三殿に置かれるのは、在地女神そのものでもなく、完成した男性王神そのものでもない、中間的で媒介的な位置に立つからではないか。[注8]彼女は境界に立つ存在であり、だからこそ独立殿舎を必要とした。

第三殿はまた、大神氏が自らの祭祀権を可視化する空間でもあったと考えられる。大神氏が保持しようとしたのは、単なる社殿管理権ではない。彼らは神意の解釈権、すなわち宇佐の聖性をどのように理解し、表現し、秩序化するかという権利を保持しようとした。その権利の象徴として、神功皇后の第三殿祭祀は極めて重要である。神功皇后像を維持することは、大神氏が宇佐の神意を読み解く古層の記憶を保持していることの証でもあった。

したがって第三殿とは、母神を祀る場所ではなく、宇佐祭祀の深層に横たわる女王的・巫覡的霊威を制度化した場である。そこに神功皇后を固定することは、大神氏にとって祭祀秩序の核心を守る行為だった。ゆえに第三殿へのこだわりは強く、しかも持続的でなければならなかったのである。

五 仮説の到達点

以上を踏まえるなら、神功皇后とは宇佐大神氏にとって「誰であったか」というより、「何を担う像であったか」が重要である。彼女は単なる実在皇后の追慕対象ではない。『日本書紀』によって再構成され、宇佐によって保持された、古い女王的霊威の仮装された器である。その器の内部には、倭女王的記憶、在地女首長的記憶、大后的機能、巫女王的託宣能力など、複数の古層が沈殿している。そして大神氏は、その沈殿した霊威を宇佐祭祀の制度の中で失わせないために、神功皇后という像を必要とした。

このとき、大神氏が重視したのは血統の証明ではない。むしろ彼らが保持しようとしたのは、神意を受けて王権を媒介する女性権威そのものだった。神功皇后という名は、その権威を王統の外へ逸脱させず、しかも宇佐の内部で生かし続けるための最良の器であった。だからこそ神功皇后は、単なる応神の母に留まらず、第十五代に準じるような高位化を受け、独立の殿舎に安置され続けたのである。

本ノートの到達点は明確である。大神氏が第三殿に神功皇后を祀ったのは、母子崇拝のためでも、血統祖崇拝のためでもない。神功皇后という仮装された像のうちに、宇佐祭祀の核心である託宣・呪術・巫覡的権威が封じ込められていたからである。換言すれば、宇佐における神功皇后は「応神の母」ではなく、「神意を受けて王権を媒介する女王的霊威の器」なのである。

この仮説は、神功皇后の実像を即断するものではない。[注9]しかし、宇佐祭祀における彼女の異様な高位と持続的な重みを説明するうえで、母子関係や后妃崇拝よりもはるかに強い説明力を持つ。今後の課題は、この仮説を宇佐国造家の成立伝承、比売大神との関係、北部九州の女首長伝承、そして物部系の女性媒介的歴史意識と、さらに精密に接続することである。

本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。

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  1. 仁藤敦史「神功紀外交記事の基礎的考察」(『国立歴史民俗博物館研究報告』211、2018年)は、神功皇后紀の外交記事・年代構成を批判的に検討し、従来の史実視を再考する重要な論文である。本ノート第1章でいう「神功皇后像の再構成性」は、この問題意識に多くを負っている。
  2. 神功皇后像を、大后・巫女王・軍事的媒介者・新王統の母体という重層的機能の結合としてみる見方は、本ノートの統合仮説である。ただし、大后の機能については仁藤敦史「殯宮儀礼の主宰と大后」(『国立歴史民俗博物館研究報告』235、2022年)に示唆を受けた。
  3. 『八幡宇佐宮御託宣集』の性格と編纂事情については、新間水緒「『八幡宇佐宮御託宣集』について―原託宣集と現託宣集―」(『大谷學報』69巻2号、1989年)参照。
  4. 神功皇后を「第十五代」に近い位置にまで高位化する伝承は、『神道集』所収「宇佐八幡宮事」や『八幡宇佐宮御託宣集』系統の理解の中に確認できる。本ノートでは、この高位化を母子崇拝ではなく女王的正統の保持として読む。
  5. 宇佐神宮の現行祭神構成および三之御殿の説明については宇佐神宮公式サイト「ご祭神」「由緒」「歴史略年表」を参照。なお、現行説明は後代的整理を含むため、本ノートでは史料批判の対象として用いた。
  6. 神功皇后像を「継承の器」とみる点は本ノートの中心仮説であり、血統祖説とは異なる。明示的系譜ではなく、祭祀像への権威の封入と保持に注目する。
  7. 三之御殿に神功皇后を固定する意味について、宇佐神宮公式サイトでは弘仁14年(823)に三之御殿が完成し神功皇后を祀ると説明される。本ノートでは、その制度化の意味を再解釈している。
  8. 三神構成のうち、神功皇后を媒介的位置に置く理解は本ノート独自の仮説である。比売大神・八幡大神・神功皇后の関係は、家族神話としてではなく祭祀構造として読む必要がある。
  9. 本ノートは、神功皇后の実像を特定することを目的としない。むしろ、宇佐大神氏がどのような霊威を神功皇后像に仮託したかを問う作業仮説である。

参考文献

  • 新間水緒「『八幡宇佐宮御託宣集』について―原託宣集と現託宣集―」『大谷學報』69巻2号、1989年。
  • 仁藤敦史「神功紀外交記事の基礎的考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』211、2018年。
  • 仁藤敦史「殯宮儀礼の主宰と大后」『国立歴史民俗博物館研究報告』235、2022年。
  • 義江明子「古系譜にみる『オヤーコ』観と祖先祭祀」『国立歴史民俗博物館研究報告』41、1992年。
  • 宇佐神宮公式サイト「ご祭神」「由緒」「歴史略年表」。
  • 『八幡宇佐宮御託宣集』。
  • 『神道集』「宇佐八幡宮事」。

補記

本ノートで提示した「神功皇后=仮装された女王像」「大神氏=その像に託宣・呪術・巫覡的権威を保持した祭祀家」という理解は、既存研究の単純な要約ではなく、先行研究を踏まえた統合仮説である。したがって、今後は宇佐国造成立伝承、比売大神の性格、北部九州の女首長伝承との接続をさらに精密に行う必要がある。

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