【研究ノート23】なぜ白日別神官は豊日別に猿田彦神を祀ったのか

宇佐津彦清智

――継体朝から欽明朝への重心移動試論――

白日別神官が勅命によって豊日別に猿田彦神を祀ったという伝承は、単なる一地方の勧請説話として読むには重すぎる。問題は、なぜ「白日別」の神官でなければならなかったのか、また、なぜ祀る先が「豊日別」であったのかである。本稿は、この構図を継体朝から欽明朝への政治重心の移動として読む。結論を先に言えば、継体朝の重心は白日別側にあり、欽明朝はそれを豊日別側へ移した。その結果、白日別神官による豊日別での奉斎が必要になった、ということである。 

まず確認すべきは、白日別と豊日別が、そもそも九州島内部の並列した政治祭祀圏として把握されていることである。國學院大學の『古事記』神名解説では、筑紫島条において筑紫国を白日別、豊国を豊日別と呼ぶことが示されている。重要なのは、これが島外の異質な神ではなく、同じ筑紫島の「面」として並べられている点である。したがって、白日別から豊日別への移動は、遠隔地の神を新たに勧請した出来事ではなく、九州内部の重心移動として理解する方が自然である。しかも「別」のつく神名は、同解説でも後代的な政治秩序や統治観念と関わって論じられており、単純な自然神名ではなく、支配秩序と結びついた呼称として見る必要がある。 

次に、欽明朝そのものが再編王権であった可能性を押さえておきたい。日本大百科および関連事典の解説では、継体天皇の死の直前または直後に欽明が即位し、安閑・宣化朝と並立したとみる説が有力な見解として紹介されている。コトバンクの「継体・欽明朝の内乱」項目も、相矛盾する紀年の併存から二朝併立を構想する説を整理している。つまり欽明朝は、単純に既存王権を継承した朝ではなく、継体朝の後に新たな重心を確立していく再編王権として把握できる。ここに政治重心の移動を読む余地がある。 

この視点から豊日別宮系の伝承を見ると、構図はかなり明瞭になる。橋本昭雄の論文によれば、豊日別宮古文書は、欽明天皇の詔勅による創建と、初代神官としての神牟禰奈理、すなわち大伴牟禰奈理の任命を伝えている。さらに同系統の伝承では、牟禰奈理が神託を受け、猿田彦大神が現れ、豊日別大神を本宮、猿田彦を別宮として祀る構図が語られる。ここで重要なのは、猿田彦が独立して先に存在していたというより、豊日別宮成立の過程で、大伴牟禰奈理を媒介に前面化していることである。これは偶発的な勧請ではなく、王権の命令に基づく祭祀再編として読むべきである。 

したがって、勅命の意味も変わってくる。勅命とは神の単純な移動命令ではない。白日別から豊日別への祭祀主導権の再配分を、王権が正統化する政治的形式であった可能性が高い。もし継体朝の重心が白日別側にあったなら、その祭祀秩序は白日別神官によって保持されていたはずである。だが欽明朝の再編により重心が豊日別側へ移ったなら、新しい政治的中枢にふさわしい祭祀の付け替えが必要になる。その際、旧重心である白日別側の神官が、新重心である豊日別側へ赴き、勅命のもとで祭祀を立てることには明確な意味がある。それは、旧秩序から新秩序への連続性を保証する儀礼だからである。 

ここで猿田彦の意味も再定義される。一般に猿田彦は天孫降臨の道案内神として理解されるが、この伝承構造ではそれだけでは不十分である。今回の文脈で猿田彦は、王権の重心移動を成立させる境界神として現れる。旧重心から新重心へ、祭祀を正しく越境させ、接続し、定着させる神である。だからこそ、大伴牟禰奈理のような媒介者が必要であり、また勅命という政治的形式が必要だった。言い換えれば、猿田彦奉斎とは、欽明朝の重心移動を祭祀的に可視化する行為だったのである。 

ただし、ここで一つ慎重に残しておくべき論点がある。すなわち、この神が当初から「猿田彦」という名であったかどうかである。國學院大學の白日別・豊日別の解説自体が、こうした「別」神名の形成に後代的・編集的性格があることを示唆している以上、猿田彦もまた原初名ではなく、後に整理された神名である可能性が高い。本稿ではその古層神名を特定しない。むしろ重要なのは、神名そのものより、白日別から豊日別への祭祀再編があったという構造である。天武以前、この神には別の神名があった可能性は高いが、その具体名は現存史料から復元できない。 

しかし、神名は不明でも、その機能はかなり明確である。欽明朝は事典類でも対朝鮮問題と深く結びついた時代として整理されている。外圧と再編の時代において、九州王権の正統性は、単に軍事力だけでなく、境界管理と災厄制御の能力にも支えられていたはずである。九州が外来の人・物・病を最初に受け止める地域であったなら、疫病神を制御しうることは統治そのものの条件だった。白日別から豊日別への祭祀再編は、単なる地方神の移動ではなく、そうした王権機能の移動だった可能性がある。 

以上から、本稿の結論は明瞭である。継体朝の重心は白日別側にあり、欽明朝はそれを豊日別側へ移した。その結果として、白日別神官が勅命によって豊日別に猿田彦を祀る必要が生じたのである。ここで猿田彦とは、王権そのものではなく、王権の重心移動を成立させる境界神として理解されるべきである。ただし、その天武以前の古層神名はなお不明であり、その復元は今後の課題として残る。だが少なくとも、白日別から豊日別への奉斎は、欽明朝の祭祀再編を映す痕跡として読むことができる。

本稿で触れた点は断片に過ぎない。
全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。
その整理は『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。

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注釈

[1] 本稿でいう「白日別」「豊日別」は、『古事記』筑紫島条に見える島内秩序の区分に基づく。

[2] 欽明朝再編説については、継体没後に安閑・宣化系と欽明系の併立を想定する研究史上の整理を前提にした。

[3] 豊日別宮古文書の性格上、牟禰奈理・神託・勅命のすべてを同一史実として確定することはできないが、地域記憶の構造としては重視しうる。

[4] 本稿でいう「祭祀主導権の再配分」とは、神そのものの移動ではなく、どの政治祭祀圏がその神を代表して祀るかの移動を指す。

[5] 天武以前の古層神名は今回は不明とした。重要なのは神名の比定ではなく、後に猿田彦として整理された神格の配置転換である。

参考文献

橋本昭雄「豊日別宮古文書と古代豊国のキングメーカーの研究(1)」熊本学園大学。 

國學院大學 古典文化学事業「白日別」。 

國學院大學 古典文化学事業「豊日別」。 

國學院大學 古典文化学事業「建日別」。 

日本大百科全書・世界大百科事典「欽明天皇」。 

コトバンク「継体・欽明朝の内乱」。 

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