宇佐津彦清智
――なぜ「大和の巨大遺跡」は直ちに邪馬壹国にならないのか
邪馬壹国畿内説は、近年もっとも有力に語られる説の一つである。
纒向遺跡の巨大性、初期古墳群の存在、広域土器交流の痕跡などは、三世紀の畿内に特異な中心地があったことを示しているように見える。そこから、纒向を邪馬壹国の中枢と見なし、さらに箸墓古墳を卑弥呼墓とみる構図が広く流布してきた。
しかし、邪馬壹国畿内説には、なお大きな弱点がある。
しかもその弱点は枝葉ではない。むしろ説の根幹に関わる。
それは、考古学的に有力な中心地が存在することと、『魏志倭人伝』の邪馬壹国に比定できることとを、ほとんど一続きのものとして扱ってしまっている点である。
一 巨大遺跡の存在は、邪馬壹国比定の証明ではない
まず確認すべきは、纒向遺跡が重要であること自体は否定しにくいということである。
纒向遺跡は広大な範囲に展開し、各地系統の土器が集まり、一般的な小集落とは異なる様相を示す。桜井市の保存活用計画でも、その広がりと重要性が強調されており、研究史上も三世紀前後の畿内における特異な結節点として扱われてきた。外来系土器の多さは早くから注目され、山陰・瀬戸内・東海・北陸など広域との関係を示す材料とされてきた。
しかし、ここで立ち止まらなければならない。
遺跡が巨大であることは、その地点が重要だったことを示すにすぎない。重要であることと、邪馬壹国であることとは別である。巨大拠点は、交易の結節点であるかもしれないし、祭祀の中心であるかもしれない。諸地域の首長層が集まる会盟地であった可能性もありうる。つまり、遺跡の規模そのものから導けるのはせいぜい「広域的中心性」であって、「魏志倭人伝の女王国」という固有名への直結ではない。
ここで見落としてはならないのは、中心性には複数の種類があるということである。
政治的中心、祭祀的中心、物流的中心、儀礼的中心は、必ずしも同一ではない。後世の都城や国家中枢のイメージに引きずられると、「大きな中心がある以上、政治権力の首都であったはずだ」と考えがちになる。だが、三世紀の列島社会を考える場合、この発想自体が危うい。広域交流が集中していることは、ネットワークの節点であったことを示しても、その場に列島全体を統御する単一中心が存在したことまでは示さない。
纒向遺跡をめぐる議論で本当に問うべきなのは、
「大きいかどうか」ではなく、「その大きさが何を意味するのか」
である。
たとえば各地系統の土器が多いという事実は、広い範囲の人々や物資がそこへ関与していたことを示す。だが、それは同時に、纒向が多元的な交流の場であった可能性も示している。しかも、外来土器だけでなく、各地の型式を在地土で作った土器も問題になっており、そこには単なる物の流入以上の、人の移動や滞在、あるいは特定事業への動員まで想定されている。こうした現象は、纒向の重要性を高める一方で、その性格を単純な「王都」に固定しにくくもしている。
つまり、纒向遺跡の巨大性は、畿内説にとって有利な材料ではあっても、なお多義的な材料である。
それは、邪馬壹国説にだけ開かれているのではない。
祭祀中心説にも、広域結節点説にも、会盟地説にも、さらには複数勢力の協働空間という理解にも開かれている。にもかかわらず畿内説では、しばしばこの多義性が十分に吟味されないまま、
「巨大遺跡がある」
→「中心地である」
→「女王国の中心地である」
→「したがって邪馬壹国である」
という一方向の論理に整理されてしまう。だが実際には、この連結の各段階にそれぞれ別個の証明が必要である。
ここで重要なのは、考古学的中心地と文献上の固有名詞を混同しないことである。
考古学は、そこにどれほど特異な空間があったかを示すことはできる。だが、その空間が中国史書に書かれたどの名称に対応するかは、考古学だけでは決まらない。そこには文献読解、行程理解、外交構造の再検討が不可欠になる。畿内説の弱点は、まさにこの境界を曖昧にしやすい点にある。纒向の重要性が高まるほど、あたかもそのまま邪馬壹国比定の確実性まで高まったかのように見えてしまうのである。
したがって、この論点の核心は明確である。
纒向が重要であることは認められる。だが、重要であることそれ自体は、邪馬壹国であることの証明にはならない。
畿内説の第一の弱点は、まさにここにある。巨大遺跡の迫力が、その解釈の飛躍を覆い隠してしまうのである。
二 箸墓古墳は有力材料ではあっても、卑弥呼墓とは限らない
邪馬壹国畿内説が広く受け入れられる最大の理由の一つは、箸墓古墳の存在である。
纒向遺跡の近傍に、きわめて大規模な前方後円墳があり、その築造時期が三世紀中頃にかかる可能性が高い。歴博系の研究では、古墳出現期の炭素14年代測定をもとに、箸墓古墳を三世紀中頃に位置づける理解が強く打ち出されており、岸本直文も「箸墓古墳が3世紀中頃であることは¹⁴C年代により追認される」と述べている。桜井市側の保存活用資料でも、纒向古墳群や周辺古墳が三世紀の古墳出現を考えるうえで重要と位置づけられている。
このため、
「三世紀中頃の巨大古墳」=「卑弥呼墓」
という連想はきわめて生じやすい。
実際、卑弥呼の死が『魏志倭人伝』に記され、その時期に近いとみられる巨大古墳が存在する以上、箸墓が有力候補として注目されるのは自然である。問題は、その“自然さ”が、そのまま証明ではないという点にある。
まず整理しなければならないのは、年代の一致は、人物の一致を意味しないということである。
箸墓古墳が三世紀中頃だとしても、そこから言えるのは「その時期に畿内で巨大古墳を築く力を持つ勢力が存在した」ということまでである。その被葬者が卑弥呼であったのか、卑弥呼と同時代の別の首長であったのか、あるいは卑弥呼死後の秩序再編を象徴する新たな政治主体であったのかは、年代だけでは決まらない。つまり、ここで確認されているのは時間の近さであって、人格の特定ではない。
しかも、炭素14年代そのものも、しばしば誤解されやすい。
炭素14年代測定は強力な手法だが、古墳そのものに「卑弥呼」と書かれた銘札を与えるものではない。測定されるのは木材や有機物の年代であり、それを築造時期へどう接続するかにはなお解釈が介在する。歴博の共同研究でも、箸墓をめぐる年代論は単純な一点確定ではなく、測定対象・試料の位置づけ・築造過程との関係を含む総合判断として扱われている。したがって、¹⁴C年代が有力であることは認めてよいとしても、それをそのまま「卑弥呼墓の科学的証明」と言い換えるのは、明らかに踏み込みすぎである。
さらに重要なのは、箸墓古墳の大きさそのものが、逆に複数の解釈を可能にするという点である。
巨大古墳である以上、それはたしかに卓越した地位の被葬者を想定させる。だが、卓越した被葬者がただ一人しかありえないわけではない。三世紀後半から四世紀への転換点において、政治秩序そのものが大きく編成されつつあったとすれば、その象徴として巨大古墳が築かれた可能性もある。つまり箸墓は、卑弥呼個人の墓である可能性を含みつつも、同時に卑弥呼後の権力再編の記念碑である可能性も残している。規模が大きいからこそ、むしろ単純な個人比定では回収しきれないのである。
ここで畿内説が抱える方法論上の問題が見えてくる。
それは、箸墓古墳の魅力が強すぎるために、
「三世紀中頃の巨大古墳がある」→「卑弥呼墓に違いない」
という心理的短絡が生じやすいことである。
だが本来は、その間にいくつもの問いがある。
その古墳の築造主体は誰か。
被葬者は単独の女王か、それとも新秩序の首長か。
その地域が本当に『魏志倭人伝』の邪馬壹国と接続するのか。
これらを一つずつ検討しない限り、箸墓を卑弥呼墓と断ずることはできない。
加えて、ここには文献との距離という別の問題もある。
『魏志倭人伝』は卑弥呼の死後に「大いに冢を作る」と記すが、その記述だけで箸墓の具体的構造や所在地に到達できるわけではない。つまり、文献が示すのは「大規模墳墓が築かれた」という抽象度の高い情報にとどまり、それを奈良盆地の特定古墳へ結びつけるには、やはり別の論証が必要になる。箸墓古墳が大きいことは、この記述と相性がよい。だが、相性がよいことと、比定が証明されることは別である。ここでもまた、適合性と同一性が混同されやすい。
要するに、箸墓古墳は畿内説にとって確かに強い材料である。
しかしその強さは、
「三世紀中頃の畿内に巨大古墳を築く力を持つ中心があった」
ことを示す強さであって、
「その被葬者が卑弥呼である」
ことまで証明する強さではない。
この二つは似て見えて、まったく別である。
したがって、この論点の核心は次のように言える。
箸墓古墳は、卑弥呼墓候補として有力ではある。だが、有力であることと、確定できることとは違う。
邪馬壹国畿内説の第二の弱点は、まさにここにある。
箸墓の大きさと年代の魅力が、その比定の不確実性を見えにくくしてしまうのである。
三 最大の弱点は『魏志倭人伝』との接続にある
邪馬壹国畿内説の本当の難所は、考古学そのものではない。
むしろ最大の弱点は、纒向遺跡や箸墓古墳のような有力な考古学的材料を、どう『魏志倭人伝』に接続するかにある。『魏志』倭人伝の帯方郡から邪馬台国に至る行程記事は、研究史の中でもまさに中心的争点として扱われ続けてきた。鈴木靖民も、この行程記事が諸韓国と倭の関係・交流を考えるうえで重要な史料であると明言している。
まず確認すべきは、倭人伝の前半部が、帯方郡から韓半島南部、さらに対馬・壱岐・末盧国・伊都国へと進む流れを比較的連続的に描いていることである。こうした流れは、北部九州を中心とする海上交通圏の理解と親和性が高く、少なくとも記事の入口部分は、現実の地理的移動感覚と大きく離れていない。国立国会図書館系の地図案内でも、伊都国・奴国・不弥国などの比定地を行程記事と結びつけて参照することが前提になっている。
問題はその先である。
畿内説を成立させるには、この北部九州中心の交通世界を、どこかの段階で大きく畿内方向へ延ばさなければならない。すると必然的に、
- 方角をどう読むか
- 水行・陸行の日数をどう配分するか
- 里数を直線距離のように扱うのか、概数とみるのか
- 記事のどこまでが実見で、どこからが伝聞なのか
といった問題を、一つずつ再構成しなければならなくなる。つまり畿内説は、考古学的には魅力が強い一方で、文献の側ではかなり複雑な補助線を必要とする説なのである。行程記事そのものが研究史上の最大争点であり続けてきたことは、まさにそのことを示している。
ここで重要なのは、文献の自然読解と、考古学的有力地への接続は別問題だということである。
纒向が大きい。箸墓が大きい。だから倭人伝もそこへ向かっているはずだ。
畿内説はしばしば、この順序で理解される。だが本来の手続きは逆でなければならない。まず倭人伝の文言をできるだけ自然に読む。そのうえで、その読みがどの考古学的実体と接続しうるかを検討するべきなのであって、先に巨大遺跡を確定し、その後で文章の方をそこへ寄せていくのでは、方法論として脆い。
この点で畿内説は、どうしても
「纒向がある以上、倭人伝も最終的にはそこへ行くはずだ」
という逆流の論理を抱えやすい。
だが、その論理は、強い遺跡の存在によって初めて説得的に見えるのであって、倭人伝の本文自体が最初から畿内を自然に指し示しているわけではない。畿内説の弱さはここにある。つまり、説を支える中心は文献ではなく、考古学的魅力の側に置かれているのである。
さらに言えば、行程記事は単なる距離表ではない。
それは帯方郡から倭に至る外交・交流のルートを示した記事であり、倭の側の交通世界がどこを主要な接点としていたかをも映している。鈴木靖民が行程記事を「交流や交易を考えるための格好の史料」とするのもそのためである。そうである以上、記事の前半で濃密に現れる北部九州の世界を軽く扱い、後半だけを大きく引き延ばして畿内へ着地させると、史料全体の重心が崩れやすい。畿内説がしばしば受ける違和感は、まさにこの重心のずれから生まれる。
また、畿内説はしばしば「方角は厳密ではない」「里数は誇張を含む」「日数は断片的伝聞かもしれない」といった説明を用いる。こうした補正自体は、古代史料読解では不自然ではない。問題なのは、それらの補正が畿内に着地させるためにまとめて必要になる点である。個々の補正は可能でも、それが重なれば重なるほど、説全体は「自然に読めるからそうなる」ものではなく、「そうなるように調整した結果そう読める」ものへ近づく。ここに畿内説の文献的弱点がある。
要するに、倭人伝との接続における畿内説の弱点は、
一つの決定的誤読があることではない。
むしろ、畿内へ届かせるために小さな補正を幾重にも必要とすることにある。
そのため畿内説は、完成した図として見ると整って見えるが、そこへ至る途中の一つ一つを点検すると、かなり多くの仮定の上に立っていることが分かる。
したがって、この論点の核心は次のようにまとめられる。
纒向や箸墓のような強い考古学的材料があるからこそ、畿内説は魅力的に見える。だが、『魏志倭人伝』そのものは、そこまで素直には畿内へ届いていない。
邪馬壹国畿内説の第三の弱点は、まさにここにある。
考古学の強さに対して、文献接続の方がなお不安定なのである。
四 北部九州の現実地理との整合性で不利が残る
邪馬壹国畿内説の弱点は、単に『魏志倭人伝』の行程記事をどう読むかという問題にとどまらない。
より本質的なのは、倭人伝が描いている交通・外交の現実地理が、まず北部九州を重心として構成されているにもかかわらず、畿内説はその重心を途中から大和へ移し替えなければならない点にある。
この点は、伊都国の位置をどう考えるかで決定的に変わる。
もし伊都国を糸島のような沿岸拠点ではなく、田川郡周辺の内陸結節点として捉えるなら、倭人伝の地理構造は、外海から北部九州内部へ段階的に入り込んでいく体系として理解しやすくなる。
対馬・壱岐が海上の接点であり、末盧国が上陸点であり、伊都国がその先の統制拠点であると見るなら、そこから先に展開する諸国もまた、北部九州内部の交通網と政治構造の中で読む方が自然である。
とくに伊都国に「郡使往来常に駐まる」とある以上、そこは単なる港ではなく、情報と外交を統制する中枢的性格を持つ地点でなければならない。田川郡は、豊前から筑前・筑後へ抜ける内陸交通の要衝として、この条件に適している。
このように理解すると、倭人伝の世界は、
- 対馬・壱岐という海上接点
- 末盧国という上陸点
- 伊都国という内陸統制点
- その先に連なる北部九州内の諸勢力
という形で、一貫して北部九州の現実地理の上に組み立てることができる。
これに対して畿内説は、この北部九州を基盤とする交通世界をいったん受け止めながら、最終的にはその中心を奈良盆地に置こうとする。
そのため、前半では具体的な地理を踏みながら、後半では急に大きく読み替える必要が生じる。
つまり畿内説は、
前半は現実地理、後半は再構成された地理
という二重構造を抱えやすい。
ここに大きな弱点がある。
倭人伝の前半がこれほど具体的に北部九州の交通と接続している以上、その延長上にあるべき後半だけを畿内へ引き延ばすためには、相応の説明が必要になる。だがその説明は、多くの場合、纒向や箸墓といった考古学的魅力によって支えられているのであって、文献の自然な流れそのものから導かれているわけではない。
しかも、伊都国を田川郡に置くと、倭人伝の重心はさらに明確になる。
それは海岸線上の単純な移動ではなく、北部九州の内陸へ向かう政治的・外交的導線として読めるからである。
この場合、邪馬壹国もまた、その延長上の北部九州内部に求める方が、地理的にも構造的にもはるかに自然である。
したがって、畿内説の問題は、単に距離が合うか合わないかではない。
より重要なのは、倭人伝が描く交通と外交の現実地理の重心が北部九州にあるにもかかわらず、畿内説はその重心を途中で大和へ移し替えねばならないという点である。
一言でいえば、こうなる。
伊都国を田川郡に置くなら、倭人伝の地理構造は北部九州内部で一貫して理解できる。畿内説の弱点は、その一貫した地理構造から離れて、後半だけを大和へ延長しなければならないところにある。
五 畿内説は「説明力」が強いのではなく、「見た目」が強い
邪馬壹国畿内説が広く支持を集めやすい最大の理由は、纒向遺跡と箸墓古墳という、きわめて印象の強い考古学的材料を持っていることである。巨大な遺跡があり、巨大な古墳があり、その年代も三世紀に近い。これだけ条件が揃えば、多くの人がそこに邪馬壹国を重ねたくなるのは自然である。
だが、ここで注意しなければならないのは、印象の強さと説明の確かさとは別だということである。
畿内説は、一見すると非常に分かりやすい。
「三世紀の巨大拠点がある」
「近くに巨大古墳がある」
「ならばそこが卑弥呼の国であり墓だろう」
という構図は、直観的には強い。
しかし、学説として本当に問われるべきなのは、その構図がどこまで史料と無理なく接続しているかである。ここまで見てきたように、畿内説にはいくつもの飛躍がある。
第一に、纒向遺跡の巨大性は、その地が重要であったことを示しても、直ちに邪馬壹国であることの証明にはならない。
第二に、箸墓古墳の年代が三世紀中頃に近いとしても、それだけで卑弥呼墓と確定することはできない。
第三に、何より『魏志倭人伝』の行程記事は、そのまま自然に畿内へ届いているわけではなく、そこへ至るには複数の補正と再構成を必要とする。
第四に、伊都国を田川郡に置いて読むなら、倭人伝の交通・外交地理は北部九州内部で一貫して理解でき、畿内へ延ばす必要そのものが薄れる。
にもかかわらず畿内説が強く見えるのは、これらの論理上の問題が、考古学的な「見た目の強さ」によって覆い隠されやすいからである。
巨大な遺跡や古墳は、それ自体が強い説得力を持つ。人は目の前に明瞭な形を持つものに引き寄せられる。とくに邪馬壹国論争のように長く決着しない問題では、「はっきりとした候補地」が提示されること自体が、一つの安心感を生む。畿内説は、その安心感を与えやすい。
だが、ここに落とし穴がある。
巨大遺跡があることは、確かに魅力的である。
しかし魅力的であることと、史料的に最も妥当であることとは同じではない。
むしろ畿内説は、終点の迫力によって途中の不自然さが見えにくくなる説だと言える。
纒向と箸墓の存在が強烈であるために、そこへ至るまでの文献解釈の不安定さや、北部九州の現実地理とのずれが軽く扱われてしまう。
つまり畿内説の強さは、厳密には「説明力の強さ」というより、視覚化しやすさ、像を結びやすさの強さなのである。
これは逆に言えば、畿内説が本当に優れているなら、本来は考古学の迫力に頼らずとも、『魏志倭人伝』の行程・地理・外交構造を自然に説明できなければならないということである。だが実際には、畿内説はその肝心の部分で、なお多くの仮定を必要としている。
それゆえ、この説は「完全に成り立たない」のではないにせよ、見た目ほど自立的ではない。
結局のところ、畿内説が今日強く見えるのは、巨大遺跡と巨大古墳という、だれの目にも分かりやすい物証を握っているからである。
しかし、学問的に重要なのは、分かりやすさではない。
重要なのは、その物証がどこまで文献・地理・構造のすべてと整合するかである。
その基準で見るなら、畿内説はなお決定打を欠いている。
したがって、この説の本当の姿はこう整理すべきである。
畿内説は、説明力が圧倒的だから強いのではない。巨大遺跡と巨大古墳を持つことで、強く見えているのである。
結論
邪馬壹国畿内説は、一見するときわめて魅力的である。
纒向遺跡という巨大拠点があり、箸墓古墳という巨大墳墓があり、その年代も三世紀に近い。これだけの材料がそろえば、多くの人がそこに邪馬壹国を見たくなるのは自然である。
しかし、学説の強さは、遺跡の大きさや印象だけでは決まらない。
本当に問われるべきなのは、それが『魏志倭人伝』の記述とどこまで無理なく接続するかである。
この点で見るなら、邪馬壹国畿内説にはなお大きな弱点が残る。
第一に、纒向遺跡が巨大で重要であることは認められても、それだけで直ちに邪馬壹国と比定することはできない。
第二に、箸墓古墳が三世紀中頃の有力候補であったとしても、それだけで卑弥呼墓と確定することはできない。
第三に、『魏志倭人伝』の行程記事は、そのまま素直に畿内へ届くわけではなく、そこへ至るには複数の補正と再構成を必要とする。
第四に、伊都国を田川郡に置いて読むなら、倭人伝の交通・外交地理は北部九州内部で一貫して理解でき、後半だけを大和へ延ばす必要性は大きく後退する。
そして第五に、畿内説が強く見えるのは、これらの問題を克服したからではなく、巨大遺跡と巨大古墳という視覚的に分かりやすい材料を持っているからである。
要するに、畿内説の弱点は明白である。
それは、考古学的には強く見えながら、文献的・地理的にはなお飛躍を抱えているという点にある。
とくに重要なのは、『魏志倭人伝』が描く世界の重心である。
その交通と外交の構造は、伊都国を田川郡に置くことで北部九州内部において無理なく読み通すことができる。にもかかわらず畿内説は、その一貫した地理構造を途中で離れ、最終中心だけを奈良盆地に置こうとする。ここに、この説のもっとも大きな不自然さがある。
したがって、邪馬壹国畿内説は、決して自明の結論ではない。
むしろそれは、巨大遺跡の迫力によって魅力的に見えているにすぎず、史料の流れそのものから必然的に導かれる説ではない。
一言で言えば、こうなる。
邪馬壹国畿内説の弱点は、終点の印象は強いのに、そこへ至る過程がなお不自然であることにある。

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