歴史研究会

【研究ノート35】日本書紀における歴史改ざん

邪馬壹国は、正面から否定されなくても歴史から消しうる。 そのためには、邪馬壹国そのものを抹消する必要はない。末盧国・伊都国・不彌国・投馬国と連なる道筋を見えなくし、そこへ至る地理と記憶の線を別の物語へ組み替えればよい。そうなれば、邪馬壹国は「存在しなかった国」ではなく、「どこにあるのか分からない謎の国」へ変わる。問題は、まさにこの変質が、いかなる叙述の力によって起きたのかという点にある。 本稿は、この問題を『日本書紀』の編纂原理と、景行天皇伝承・神功皇后伝承の働きから考える。『日本書紀』は720年に成立し、翌721年から講筵という朝廷行事の中で読まれた、日本最初の正史である。したがってそれは単なる古伝の集成ではなく、国家が自らの過去をどのように正本化したかを示す文書であった。そこでは、地域ごとに散在していた記憶や氏族伝承が、皇統中心の一つの歴史へ整理される。古事記序でも、太安万侶は帝紀・旧辞が「正実」に違い、虚偽が加えられているのを正すという原理を掲げているが、この原理は古事記だけでなく、日本書紀にも及ぶと見るべきである。 この観点から見ると、景行天皇伝承と神功皇后伝承は、偶然に大きく描かれた説話群ではなく、機能の異なる二つの装置として読める。景行天皇伝承は、旧勢力を土蜘蛛として討伐対象へ落とし込み、王権以前の地方秩序を「服わぬ者」の歴史へ変える装置である。他方、神功皇后伝承は、末盧国・伊都国・不彌国のような港湾圏・交通圏・聖地圏を、皇后ゆかりの新たな由緒地理へ組み替える装置である。前者が旧秩序の掃討を担い、後者が新秩序の地理的再配置を担ったと見ると、邪馬壹国へ至る線がなぜ読めなくなったのかが理解しやすくなる。 ここで強調したいのは、本稿が「日本書紀は全部虚構である」と言うものではないことだ。むしろ逆である。日本書紀は古い記憶を多く保存している。だからこそ、その保存の仕方と、上書きの仕方の両方を読む必要がある。地名、伝承、祭祀地、巡幸譚、討伐譚は、単に残骸ではない。そこには、古い政治地理がどのように王権史へ吸収され、何が消され、何が残されたかが刻まれている。本稿の目的は、その編纂操作の筋道を明らかにし、邪馬壹国へ至る線がどのように失われたのかを具体的に示すことにある。
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【研究ノート34】投馬国の政治形態

『魏志倭人伝』は、投馬国について「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸」と記し、邪馬壹国については「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」と記している。ここでまず注目すべきは、投馬国には王が書かれず、官と副官のみが記されることである。他方、邪馬壹国には「女王之所都」とあり、伊都国には「世有王」とある。つまり『倭人伝』は、必要な場面でははっきり「王」を書く史料であり、投馬国だけに王を記さないことには意味がある。 従来、投馬国論は地名比定に重点が置かれてきた。しかし、投馬国の核心は、単に「地図のどこに置くか」ではなく、いかなる政治形態を持つ大国だったのかにある。五万余戸という数字も、厳密な戸口調査ではなく、魏側が投馬国を倭の有力大国として把握したことを示す政治的規模表現とみるべきだろう。投馬国は、邪馬壹国に従属する小国ではなく、独自の官制を持ち、しかもその先に邪馬壹国へ至る大きな中間国家として位置づけられている。 本稿では、投馬国を大分川流域国家として捉える。だがその際の要点は、下郡や賀来といった一点の遺跡に押し込むことではない。大分川は、国土交通省資料によれば、幹川流路延長55km、流域面積650平方キロメートルを持ち、由布・竹田・大分へ連なる長い水系であり、芹川・賀来川・七瀬川などの支流を抱える。すなわち投馬国は、河口の港湾拠点だけでなく、中流の扼点、上流の高原・台地・支流域までを結ぶ複合的流域国家として考えるべきである。 この見方に立つと、投馬国は単独王が都城に座る王国ではなく、複数の拠点を役割分担的に束ねた国家として理解しやすい。しかもその先には、より大きな大野川流域国家としての邪馬壹国が控えていた。投馬国を正しく理解するには、まずこの流域国家としての構造を見なければならない。
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【研究ノート33】末盧国は宗像にあったのか

『魏志倭人伝』に見える末盧国は、一般に唐津・松浦地方に比定されてきた。最大の理由は、「末盧(まつろ)」という国名が後世の「松浦(まつら)」に近い音を持つと考えられてきたことにある。また、唐津市周辺には菜畑遺跡や宇木汲田遺跡など著名な弥生遺跡が集中し、唐津市も「末盧館」を設置し、さらに「末盧国遺跡群調査指導委員会」を置いて、当該地域を末盧国の有力な比定地として扱ってきた。通説としての厚みは、確かに唐津側にある。 しかし、末盧国比定を地名の近似だけで処理してよいかといえば、問題はそれほど単純ではない。『魏志倭人伝』は、一大国から「又渡一海千餘里、至末盧國」とし、その後「東南陸行五百里、到伊都國」と記す。つまり末盧国は、単なる海辺の寄港地ではなく、壱岐から海を渡って到着する地点であり、なおかつそこから伊都国へ向かう陸行の起点として描かれている。行程記事を重視するなら、末盧国は「玄界灘沿岸の上陸点」であると同時に、「東南方向への交通結節点」でなければならない。 ここで注目すべきなのが宗像である。宗像は玄界灘に面し、古代を通じて海上交通・航路祭祀の要地であり続けた地域である。その宗像において、田熊石畑遺跡は、弥生時代中期前半の区画墓群から大量の武器形青銅器が出土した、きわめて有力な首長層墓域として知られる。福岡県文化財データベースは、この遺跡を「当該時期における宗像地域の有力者の墓」とし、「弥生時代のクニの成立を考えるうえで重要な遺跡」と位置づけている。もし末盧国を、壱岐からの上陸点としての性格と、玄界灘沿岸の地域首長圏という二重の視点から捉え直すなら、宗像を候補から外すことはできない。 本稿は、末盧国を宗像、より具体的には田熊石畑遺跡を中心とする地域に比定しうるかを検討するものである。通説をいたずらに否定するのではなく、唐津・松浦説の強みを認めたうえで、なお宗像説を再検討すべき理由がどこにあるかを論じたい。
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【研究ノート32】奴国は福岡市にはなかった

『魏志倭人伝』に記される奴国の所在地は、古代北部九州史の中でも、とりわけ比定の困難な課題の一つである。従来、この奴国は福岡平野、ことに博多湾岸から春日・那珂川流域にかけて求められることが多かった。その理由は明快である。第一に、この地域は弥生後期における遺跡密度が高く、集落・墓制・青銅器生産のいずれにおいても北部九州有数の集積を示す。第二に、須玖岡本遺跡をはじめとする有力首長層の存在をうかがわせる遺構・遺物が集中し、政治的中枢としての印象がきわめて強い。第三に、志賀島から出土した金印が、「奴国」という国名を博多湾岸と直接結びつける象徴的証拠として長く機能してきた。こうした事情のもとで、奴国を福岡市域ないしその周辺に比定する理解は、学界のみならず一般的理解としても広く定着してきたのである。しかしながら、この定着した理解には、なお再検討されるべき前提が含まれている。それは、考古学的に最も豊かで、最も強く見える地域こそが、そのまま史料上の有力国に対応するはずだ、という暗黙の仮定である。言い換えれば、遺跡の密度、出土遺物の量、王墓級遺構の存在、さらには外交遺物の出土といった要素が、そのまま史料中の国家名と一対一で対応するとみなされてきたのである。だが、この前提は本当に自明であろうか。ある地域が豊かで強力であったことと、その地域が『魏志倭人伝』における奴国であったこととは、本来別個に論じられるべき問題である。
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【研究ノート31】伊都国はどこにあったのか

『魏志倭人伝』をめぐる比定論は、長く地名の一致や遺跡の著名性を中心に論じられてきた。とくに伊都国については、糸島地域に王墓級遺跡が集中することから、同地を伊都国に比定する見方が有力であり続けている。実際、糸島市の資料は、三雲南小路・井原鑓溝・平原の三王墓をもって「世有王」を裏づけるものと整理している。  しかし、倭人伝をあらためて読むと、伊都国の重さは王墓の規模よりも、むしろその制度的機能にあるようにみえる。伊都国は「有千餘戸」と、人口規模ではむしろ小国である。にもかかわらず「世有王」「皆統屬女王國」「郡使往來常所駐」とされ、さらに女王国以北の諸国を検察する一大率が「常治伊都國」と記される。要するに伊都国は、人口最大の王都ではなく、監察・外交・照合の実務中枢として描かれているのである。  本稿は、この点を出発点とする。伊都国を巨大王都としてではなく、女王国北辺を管理する機能国家として読むならば、従来有力とされてきた糸島説とは別に、香春を核とする田川地域が有力候補として浮上する。本稿では、不彌国との機能差、香春周辺の首長層、3世紀墓制の見えにくさ、糸島圏との比較を通じて、香春伊都国説の可能性を検討したい。
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【研究ノート30】 卑弥呼を支えた物部氏

『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼の死は、単なる一首長の死ではない。そこには「大作冢」「徇葬者奴婢百余人」と記され、巨大な墓と百余人の徇葬が伴っている。しかも卑弥呼は生前、魏から銅鏡百枚、刀、錦、帛、白絹、采物など、多量の威儀財を下賜されていた。これらを合わせて見ると、卑弥呼の時代の倭王権は、単に在地の首長社会の延長ではなく、中国王朝的な王権儀礼を理解し、それを自らの権威へ変換できる高度な中枢層を備えていたと考えるべきである。 本稿の狙いは、卑弥呼の時代に「物部氏」の名が史料に現れる、と断定することではない。そうではなく、卑弥呼政権を成立させるために必要だった機能――すなわち、威儀財の受領と管理、死の王権儀礼の執行、鎮魂、そして王権財の神聖化――を後代に最も濃く保存しているのが物部氏である、という点を明らかにすることである。後代史料に見える物部氏の性格を、卑弥呼時代の王権儀礼へ逆照射することで、卑弥呼を支えた「原物部的」な中枢奉仕層の存在を考えたい。
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【研究ノート29】国生み神話の「隠伎之三子島」は簑島か

『古事記』国生み条に見える「隠伎之三子島」は、一般には現在の隠岐諸島に比定される。國學院大學古事記学センターの解説でも、隠伎之三子島は隠岐国に比定されるが、隠岐諸島全体は四島から成るため、「三子島」とどう対応させるかが問題となり、通常は島前三島に比定すると説明されている。すなわち通説は存在するが、その比定は語義の上で必ずしも無理なく収まっているわけではない。むしろ「三子」という表現そのものが、なお再検討を要する問題を残している。 本稿は、この「隠伎之三子島」を島根県の隠岐諸島ではなく、豊前海に面した行橋市簑島の古い景観記憶として読み直す可能性を検討するものである。ただし、いま本文に現れている「隠岐」表記を直ちに全面否定することが目的ではない。問題にしたいのは、記紀編纂以前の神話古層において、いかなる海上景観がこの語の背景にあったのか、という点である。結論を先に言えば、簑島は「三子」の景観、背後の要港草野津、さらに神武伝承の分布という三条件を同時に満たす点で、きわめて有力な候補地である。
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【研究ノート28】倭の五王はなぜ「天皇」ではないのか

倭の五王について語るとき、しばしば日本書紀や古事記の天皇系譜にあてはめようとする議論が現れる。しかし、その作業は出発点からして危うい。なぜなら、倭の五王が活動した五世紀と、『日本書紀』の成立した養老四年(720)とのあいだには、およそ二百年の隔たりがあるからである。『日本書紀』は神代から持統天皇までを収める日本最古の官撰史書だが、それは五世紀の同時代記録ではなく、八世紀国家が過去を整序し直した史書である。したがって、五世紀の王たちを、七二〇年に完成した王統叙述へ無理に押し込めれば、かえって実像を見失う。  本稿では、倭の五王を後代の「天皇史」へ回収するのではなく、まず中国史書に現れる五王の姿を独立して見る。ついで、倭王武の上表文に見える勢力圏、とりわけ「海北九十五国」を手がかりに、その王権がどの範囲を現実の行動圏としていたかを考える。さらに、その行動の背後に朝鮮半島南部の鉄資源への執着があったこと、そして五王の継承自体が一本の滑らかな血統ではなかったことを確認したうえで、最後に『日本書紀』がなぜ五世紀の王たちをそのまま取り込めなかったのかを論じたい。
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【研究ノート27】天照の皇祖神化はいつ、なぜ起きたのか

天照をめぐる従来の理解は、しばしば『日本書紀』や伊勢神宮の後世的な姿を前提にしている。しかし、七世紀初頭の対外史料に立ち返ると、当時の倭国王権は、まだ天照を国家最高神として前面に押し出していなかった可能性が高い。むしろ見えてくるのは、天・日・夜・暦を含む、より複層的な王権宇宙論である。本ノートの目的は、六〇〇年前後の『隋書』の記事から出発し、七世紀後半の律令国家形成の中で、なぜ伊勢の天照が皇祖神へ格上げされたのかを考えることである。 まず出発点となるのは、『隋書』倭国伝の開皇二十年(六〇〇)の記事である。そこには、倭王が「以天為兄、以日為弟」と説明されている。さらに「天未明時出聽政、跏趺坐。日出便停理務、云委我弟」と続く。ここで重要なのは、「日」がまだ最上位神としてではなく、王権秩序の内部に置かれた存在として表現されている点である。少なくともこの史料を素直に読む限り、倭王は太陽を拝する者というより、天と日の関係を自らの王権表象の中に組み込む存在として描かれている。 この一句は、後世の天照中心神話とかなり異なる感触をもつ。『日本書紀』では天照は高天原の統治者であり、皇統の源流に位置づけられるが、『隋書』段階ではまだそのような人格神の名は出ない。ここにあるのは「天照大神」ではなく、「天」と「日」を配列する王権の自己説明である。したがって、六〇〇年頃の倭国では、少なくとも対外的自己表現の中核に天照大神がいたとは言いにくい。ここから直ちに「天照信仰が存在しなかった」と断言することはできないが、「天照が国家最上神として前面化していなかった」ことは十分に言える。
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【研究ノート26】邪馬壹国の場所

『魏志倭人伝』の記事配列を見ると、卑弥呼の時代にすでに狗奴国との不和と交戦があり、その後に卑弥呼の死、男王擁立、国内混乱、壱与擁立へと続く。ここで重要なのは、卑弥呼の死後に女王国側が大きく揺らいだにもかかわらず、関係全体が決定的に反転したようには見えないことである。もし狗奴国が邪馬壹国に匹敵する近接大国であったなら、卑弥呼の死後の混乱は最大の好機だったはずである。だが、史料の前面に出るのはむしろ女王国側の内部動揺であり、狗奴国が一挙に秩序を奪った姿ではない。この一点だけでも、狗奴国は邪馬壹国連合に比肩する巨大国家ではなく、外側から圧力をかけ続ける境界勢力だった可能性が高い。
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