歴史研究会

【研究ノート10】神夏磯媛は物部と同じ祭祀コードを持っていたのか

『日本書紀』景行紀にみえる神夏磯媛の服属場面は、単なる降伏儀礼として読むだけでは不十分である。景行天皇の先遣として武諸木・菟名手・物部君祖夏花が派遣されたのち、神夏磯媛は磯津山の賢木を抜き、上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊を掛け、さらに船の舳に白旗を立てて迎えたとされる。行橋市史系の解説でも、この場面は豊前地域の女酋が天皇への服属を誓う重要な場面として整理されている。 
歴史研究会

【研究ノート9】物部氏に「本拠」はあったのか―河内・大和・九州にみる多極的構造

物部氏を論じるとき、しばしば「本拠はどこか」という問いが最初に置かれる。河内国渋川郡付近を本拠地とする説明は、事典類でも広く見られる。たしかにこの理解には一定の根拠がある。しかし、そのことから直ちに、河内を中心とし、大和や九州をその従属的な支点として上下的に配列する図式を導くことはできない。現時点で確認できるのは、河内・大和・九州の三地域において、物部氏に関わる痕跡がそれぞれ異なる機能を帯びて現れているという事実である。本稿では、物部氏を単一中心から拡散した氏族としてではなく、複数の土地で異なる役割を担った多極的活動体として捉えたい。 
歴史研究会

【研究ノート8】ビワノクマ古墳試論

ビワノクマ古墳を考える際、まず注目すべきは、その立地である。行橋市の公式解説によれば、古墳時代の行橋市中心部には海が入り込み、湾のような地形が広がっていた。ビワノクマ古墳は、その海岸近くの丘の頂に築かれており、遠方からも視認できる位置にあったという。さらに丘の麓には、弥生時代末期から古代にかけての延永ヤヨミ園遺跡が広がり、船の一部、西日本各地の特徴をもつ土器、役所のような建物が確認されている。すなわちこの古墳は、孤立した墓ではなく、港湾的結節点を見下ろす首長墓として理解されるべきである。 
歴史研究会

【研究ノート7】草野津の前史

草野津を考える際、注意すべきなのは、古代の港名として明瞭に見える「草野津」を、そのまま三世紀以前へ機械的にさかのぼらせないことである。他方で、だからといって草野津を律令期の制度港に限定してしまうのも適切ではない。行橋市延永・吉国一帯の発掘成果を見ると、この地域には、弥生時代終末から古墳時代前期の段階ですでに広域交通を支える結節点が存在し、その後、奈良時代には文字資料や役所的施設を伴う行政的空間へと再編されていったことがうかがえる。したがって草野津とは、突然成立した港ではなく、北東部九州の上陸点として長く機能した場の、後代的名称として理解するのがよい。 
歴史研究会

【研究ノート6】不弥国試論

延永ヤヨミ園遺跡を中心とする行橋・京都平野東部を、不弥国の有力候補として捉える視点は、十分に成り立つ。もちろん、不弥国の比定地については現在も諸説があり、糟屋郡周辺や飯塚周辺に求める見解も根強い。したがって現段階で断定することは避けるべきであるが、それでも地理的条件、遺跡の性格、さらに景行天皇伝承との対応を総合すると、北東部九州のこの地域を不弥国とみる方が、むしろ自然ではないかと考えられる。 
歴史研究会

【研究ノート5】瀬織津姫の古代的位置―神話から外された祓神

瀬織津姫は、古代神祇の中でも特異な位置にある。よく知られているように、瀬織津姫は『古事記』『日本書紀』の中心神話にはほとんど姿を見せない。他方で、祓の実務を担う祝詞、とりわけ大祓詞では、罪穢を川の瀬から大海へ流し去る祓戸神として重要な位置を占める。すなわち瀬織津姫は、神話の中心には置かれなかったが、祭祀の現場からは排除されなかった神である。
歴史研究会

【研究ノート4】宇佐八幡成立期における大神氏の前面化について

宇佐八幡成立史を考える際、宇佐氏と辛島氏に比べて、大神氏だけがきわめて捉えにくい。宇佐氏には『日本書紀』神武紀の菟狭津彦・菟狭津媛という神話的祖形があり、辛島氏にも豊前国における秦系勢力の痕跡や関連神社をたどりうる余地がある。これに対して大神氏は、後代には大宮司家として重い位置を占めながら、創建以前の同時代的痕跡が薄く、対応神社も曖昧である。この不均衡は、単なる史料散逸として処理するより、大神氏の成立・前面化の仕方そのものを示す可能性がある。
歴史研究会

【研究ノート3】法蓮による仏教的安定化

 宇佐における法蓮の役割は、単なる「弥勒寺初代別当」では捉えきれない。法蓮の本質は、宇佐の在地神威を仏教的秩序へ組み替え、政治的にも宗教的にも不安定な場を安定化することにあったと考えられる。[1]  法蓮が史料上はっきり現れるのは大宝三年(703)である。『続日本紀』系の整理によれば、法蓮は医術の功によって豊前国の野四十町を与えられており、これは彼が地方の無名僧ではなく、朝廷に認知された実務的宗教者であったことを示す。[2] また、養老五年(721)には法蓮の三等以上の親族に宇佐君姓が与えられたとされ、法蓮が宇佐在地の有力層と深く結びついていたことがうかがえる。[3] すなわち法蓮は、中央に届く力を持ちながら、同時に宇佐の内部に根を持つ宗教者であった。
歴史研究会

【研究ノート2】天平八・九年疫病危機と宇佐放生会の仏式成立

宇佐放生会の起源については、従来、隼人征討後の殺生贖罪や鎮魂儀礼として理解されることが多かった。しかし検討を進めると、放生会の実質的成立は、伝承上の養老年間や天平十六年ではなく、天平八・九年(736–737)前後に求める方が自然であるように思われる。すなわち、隼人征討は後代に整えられた起源神話として利用され、実際の祭礼成立を促した最大の契機は、九州を起点として広がった天平の疫病危機であった可能性が高い。
歴史研究会

【研究ノート1】放生会=宇佐八幡成立の原点

拙著『菟狭津彦が見た倭国の歴史』を書いた際、宇佐八幡の成立についていくつかの疑問が残った。特に「放生会」「大神氏」「疫神祭祀」の関係である。本書を書き直すつもりで、補足的な考察を書いてみたい。 宇佐八幡の成立を考えるとき、一般には渡来系氏族である秦氏の関与や、奈良時代以降の国家祭祀化が語られる。しかし、創建当初から宮司として大神氏が存在していた事実は、あまり注目されていない。ここでは「放生会」「疫神祭祀」「大神氏」という視点から、宇佐八幡成立の別の可能性を考えてみたい。
タイトルとURLをコピーしました