歴史研究会 【研究ノート32】奴国は福岡市にはなかった
『魏志倭人伝』に記される奴国の所在地は、古代北部九州史の中でも、とりわけ比定の困難な課題の一つである。従来、この奴国は福岡平野、ことに博多湾岸から春日・那珂川流域にかけて求められることが多かった。その理由は明快である。第一に、この地域は弥生後期における遺跡密度が高く、集落・墓制・青銅器生産のいずれにおいても北部九州有数の集積を示す。第二に、須玖岡本遺跡をはじめとする有力首長層の存在をうかがわせる遺構・遺物が集中し、政治的中枢としての印象がきわめて強い。第三に、志賀島から出土した金印が、「奴国」という国名を博多湾岸と直接結びつける象徴的証拠として長く機能してきた。こうした事情のもとで、奴国を福岡市域ないしその周辺に比定する理解は、学界のみならず一般的理解としても広く定着してきたのである。しかしながら、この定着した理解には、なお再検討されるべき前提が含まれている。それは、考古学的に最も豊かで、最も強く見える地域こそが、そのまま史料上の有力国に対応するはずだ、という暗黙の仮定である。言い換えれば、遺跡の密度、出土遺物の量、王墓級遺構の存在、さらには外交遺物の出土といった要素が、そのまま史料中の国家名と一対一で対応するとみなされてきたのである。だが、この前提は本当に自明であろうか。ある地域が豊かで強力であったことと、その地域が『魏志倭人伝』における奴国であったこととは、本来別個に論じられるべき問題である。