歴史研究会 【研究ノート27】天照の皇祖神化はいつ、なぜ起きたのか
天照をめぐる従来の理解は、しばしば『日本書紀』や伊勢神宮の後世的な姿を前提にしている。しかし、七世紀初頭の対外史料に立ち返ると、当時の倭国王権は、まだ天照を国家最高神として前面に押し出していなかった可能性が高い。むしろ見えてくるのは、天・日・夜・暦を含む、より複層的な王権宇宙論である。本ノートの目的は、六〇〇年前後の『隋書』の記事から出発し、七世紀後半の律令国家形成の中で、なぜ伊勢の天照が皇祖神へ格上げされたのかを考えることである。
まず出発点となるのは、『隋書』倭国伝の開皇二十年(六〇〇)の記事である。そこには、倭王が「以天為兄、以日為弟」と説明されている。さらに「天未明時出聽政、跏趺坐。日出便停理務、云委我弟」と続く。ここで重要なのは、「日」がまだ最上位神としてではなく、王権秩序の内部に置かれた存在として表現されている点である。少なくともこの史料を素直に読む限り、倭王は太陽を拝する者というより、天と日の関係を自らの王権表象の中に組み込む存在として描かれている。
この一句は、後世の天照中心神話とかなり異なる感触をもつ。『日本書紀』では天照は高天原の統治者であり、皇統の源流に位置づけられるが、『隋書』段階ではまだそのような人格神の名は出ない。ここにあるのは「天照大神」ではなく、「天」と「日」を配列する王権の自己説明である。したがって、六〇〇年頃の倭国では、少なくとも対外的自己表現の中核に天照大神がいたとは言いにくい。ここから直ちに「天照信仰が存在しなかった」と断言することはできないが、「天照が国家最上神として前面化していなかった」ことは十分に言える。