歴史研究会

【研究ノート15】継体朝と欽明朝は別の血筋ではないか

継体朝から欽明朝への移行は、『日本書紀』では連続した皇統の継承として描かれている。だが、その連続性をそのまま受け取ることには大きな疑問がある。継体天皇は「応神五世孫」とされるが、その皇統接続はあまりに遠く、婚姻や系譜操作によって正統化された印象が強い。さらに、継体紀から欽明紀にかけての叙述は、『百済本記』など外部史料層の利用が想定されており、自然な王統記録というより、後から接合された編集点とみるべき性格を持つ。したがって、継体朝と欽明朝のあいだに、書紀が隠した政治的断絶、あるいは別系統王権の接合があった可能性を考えるべきである。
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【研究ノート15】壬申の乱は何を争ったのか

壬申の乱は、一般には天智天皇の後継をめぐる皇位継承戦争として理解されている。しかし、白村江敗戦後の倭国が置かれた国際環境と、その後に天武朝で集中的に進む制度改革を重ねてみると、この理解だけでは不十分であるように思われる。むしろ壬申の乱は、敗戦後の倭国が唐との関係をどのように受け止め、どのような国家へ移行するかをめぐる政変として再検討されるべきではないか。本稿は、その可能性を問う試論である。 
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【研究ノート14】御所ヶ谷神籠石は唐軍前線基地の最後の砦だったのか

御所ヶ谷神籠石を、単独の山城遺跡としてではなく、福原長者原官衙遺跡と対をなす施設として見るとき、その意味は大きく変わる。行橋市の資料では、御所ヶ谷神籠石は行橋市南西部の山系に築かれた神籠石系山城であり、7世紀後半の東アジア情勢に関連して築かれた山城とみられている。また、その北麓には大宰府と京都平野を結ぶ古代官道が通り、敵軍の侵攻を監視・妨害する位置にあったと説明される。つまりこの遺跡は、単なる避難所や象徴的施設ではなく、交通路と平野部を押さえる軍事的要衝として理解されている。 
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【研究ノート13】福原長者原官衙遺跡は何のために造られたのか

福原長者原官衙遺跡を、単なる豊前国府の前身ないし一地方官衙として理解するだけでは、どうしても説明しきれないものが残る。行橋市の保存活用計画によれば、この遺跡は飛鳥時代末頃に成立し、政庁区画は一辺約一五〇メートルの方形区画をなし、八脚門や回廊状施設を備える九州最大級の古代官衙政庁跡である。しかもその規模や設計には藤原宮を想起させる要素があり、通常の地方官衙を超える格式と構想性が認められている。行橋市自身も、国府関連施設ないし国府以上の可能性を視野に入れている。したがって、まず出発点として、この遺跡を「普通の国府」とみなすこと自体を疑う必要がある。 
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【研究ノート12】なぜ景行天皇伝承に九州征伐譚が入ったのか

景行天皇伝承に九州征伐譚が厚く組み込まれている理由を考えるとき、まず確認すべきなのは、それが単なる「古い戦争の記録」としては読みにくいことである。豊前・豊後の記事で具体的に動くのは、景行天皇その人よりも、菟名手や物部君祖夏花、さらに在地首長たちである。とくに國學院大の系譜整理では、菟名手は景行紀に現れるのみならず、のちに豊国直・国東臣へ接続する節点的人物として位置づけられている。つまり景行紀豊後条の核は、「王が何をしたか」よりも、「誰が地域秩序を担う者として立てられたか」にある。景行天皇は、その再編を王権の物語として包み込む器として機能しているように見える。 
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【研究ノート11】景行天皇伝承は何を語るのか

景行天皇伝承は九州各地に濃密に残るが、その実像は驚くほど見えにくい。とりわけ豊前・豊後の伝承では、具体的に動くのは菟名手、神夏磯媛、夏花のような人物たちであり、景行天皇自身が何を判断し、どう行動したのかはきわめて希薄である。『行橋市史』の「景行天皇の巡幸説話」も、この伝承をそのまま史実とはせず、ヤマト王権が九州の豪族と同盟し、あるいは抵抗勢力を排除しながら勢力を拡大していく過程が投影されたものと捉えている。ここからまず言えるのは、景行天皇伝承が一人の王の遠征記として書かれているのではなく、複数の地域的記憶を王権の名の下に再編した叙述だということである。 
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【研究ノート10】神夏磯媛は物部と同じ祭祀コードを持っていたのか

『日本書紀』景行紀にみえる神夏磯媛の服属場面は、単なる降伏儀礼として読むだけでは不十分である。景行天皇の先遣として武諸木・菟名手・物部君祖夏花が派遣されたのち、神夏磯媛は磯津山の賢木を抜き、上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊を掛け、さらに船の舳に白旗を立てて迎えたとされる。行橋市史系の解説でも、この場面は豊前地域の女酋が天皇への服属を誓う重要な場面として整理されている。 
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【研究ノート9】物部氏に「本拠」はあったのか―河内・大和・九州にみる多極的構造

物部氏を論じるとき、しばしば「本拠はどこか」という問いが最初に置かれる。河内国渋川郡付近を本拠地とする説明は、事典類でも広く見られる。たしかにこの理解には一定の根拠がある。しかし、そのことから直ちに、河内を中心とし、大和や九州をその従属的な支点として上下的に配列する図式を導くことはできない。現時点で確認できるのは、河内・大和・九州の三地域において、物部氏に関わる痕跡がそれぞれ異なる機能を帯びて現れているという事実である。本稿では、物部氏を単一中心から拡散した氏族としてではなく、複数の土地で異なる役割を担った多極的活動体として捉えたい。 
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【研究ノート8】ビワノクマ古墳試論

ビワノクマ古墳を考える際、まず注目すべきは、その立地である。行橋市の公式解説によれば、古墳時代の行橋市中心部には海が入り込み、湾のような地形が広がっていた。ビワノクマ古墳は、その海岸近くの丘の頂に築かれており、遠方からも視認できる位置にあったという。さらに丘の麓には、弥生時代末期から古代にかけての延永ヤヨミ園遺跡が広がり、船の一部、西日本各地の特徴をもつ土器、役所のような建物が確認されている。すなわちこの古墳は、孤立した墓ではなく、港湾的結節点を見下ろす首長墓として理解されるべきである。 
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【研究ノート7】草野津の前史

草野津を考える際、注意すべきなのは、古代の港名として明瞭に見える「草野津」を、そのまま三世紀以前へ機械的にさかのぼらせないことである。他方で、だからといって草野津を律令期の制度港に限定してしまうのも適切ではない。行橋市延永・吉国一帯の発掘成果を見ると、この地域には、弥生時代終末から古墳時代前期の段階ですでに広域交通を支える結節点が存在し、その後、奈良時代には文字資料や役所的施設を伴う行政的空間へと再編されていったことがうかがえる。したがって草野津とは、突然成立した港ではなく、北東部九州の上陸点として長く機能した場の、後代的名称として理解するのがよい。 
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