歴史研究会

【研究ノート31】伊都国はどこにあったのか

『魏志倭人伝』をめぐる比定論は、長く地名の一致や遺跡の著名性を中心に論じられてきた。とくに伊都国については、糸島地域に王墓級遺跡が集中することから、同地を伊都国に比定する見方が有力であり続けている。実際、糸島市の資料は、三雲南小路・井原鑓溝・平原の三王墓をもって「世有王」を裏づけるものと整理している。  しかし、倭人伝をあらためて読むと、伊都国の重さは王墓の規模よりも、むしろその制度的機能にあるようにみえる。伊都国は「有千餘戸」と、人口規模ではむしろ小国である。にもかかわらず「世有王」「皆統屬女王國」「郡使往來常所駐」とされ、さらに女王国以北の諸国を検察する一大率が「常治伊都國」と記される。要するに伊都国は、人口最大の王都ではなく、監察・外交・照合の実務中枢として描かれているのである。  本稿は、この点を出発点とする。伊都国を巨大王都としてではなく、女王国北辺を管理する機能国家として読むならば、従来有力とされてきた糸島説とは別に、香春を核とする田川地域が有力候補として浮上する。本稿では、不彌国との機能差、香春周辺の首長層、3世紀墓制の見えにくさ、糸島圏との比較を通じて、香春伊都国説の可能性を検討したい。
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【研究ノート30】 卑弥呼を支えた物部氏

『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼の死は、単なる一首長の死ではない。そこには「大作冢」「徇葬者奴婢百余人」と記され、巨大な墓と百余人の徇葬が伴っている。しかも卑弥呼は生前、魏から銅鏡百枚、刀、錦、帛、白絹、采物など、多量の威儀財を下賜されていた。これらを合わせて見ると、卑弥呼の時代の倭王権は、単に在地の首長社会の延長ではなく、中国王朝的な王権儀礼を理解し、それを自らの権威へ変換できる高度な中枢層を備えていたと考えるべきである。 本稿の狙いは、卑弥呼の時代に「物部氏」の名が史料に現れる、と断定することではない。そうではなく、卑弥呼政権を成立させるために必要だった機能――すなわち、威儀財の受領と管理、死の王権儀礼の執行、鎮魂、そして王権財の神聖化――を後代に最も濃く保存しているのが物部氏である、という点を明らかにすることである。後代史料に見える物部氏の性格を、卑弥呼時代の王権儀礼へ逆照射することで、卑弥呼を支えた「原物部的」な中枢奉仕層の存在を考えたい。
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【研究ノート29】国生み神話の「隠伎之三子島」は簑島か

『古事記』国生み条に見える「隠伎之三子島」は、一般には現在の隠岐諸島に比定される。國學院大學古事記学センターの解説でも、隠伎之三子島は隠岐国に比定されるが、隠岐諸島全体は四島から成るため、「三子島」とどう対応させるかが問題となり、通常は島前三島に比定すると説明されている。すなわち通説は存在するが、その比定は語義の上で必ずしも無理なく収まっているわけではない。むしろ「三子」という表現そのものが、なお再検討を要する問題を残している。 本稿は、この「隠伎之三子島」を島根県の隠岐諸島ではなく、豊前海に面した行橋市簑島の古い景観記憶として読み直す可能性を検討するものである。ただし、いま本文に現れている「隠岐」表記を直ちに全面否定することが目的ではない。問題にしたいのは、記紀編纂以前の神話古層において、いかなる海上景観がこの語の背景にあったのか、という点である。結論を先に言えば、簑島は「三子」の景観、背後の要港草野津、さらに神武伝承の分布という三条件を同時に満たす点で、きわめて有力な候補地である。
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【研究ノート28】倭の五王はなぜ「天皇」ではないのか

倭の五王について語るとき、しばしば日本書紀や古事記の天皇系譜にあてはめようとする議論が現れる。しかし、その作業は出発点からして危うい。なぜなら、倭の五王が活動した五世紀と、『日本書紀』の成立した養老四年(720)とのあいだには、およそ二百年の隔たりがあるからである。『日本書紀』は神代から持統天皇までを収める日本最古の官撰史書だが、それは五世紀の同時代記録ではなく、八世紀国家が過去を整序し直した史書である。したがって、五世紀の王たちを、七二〇年に完成した王統叙述へ無理に押し込めれば、かえって実像を見失う。  本稿では、倭の五王を後代の「天皇史」へ回収するのではなく、まず中国史書に現れる五王の姿を独立して見る。ついで、倭王武の上表文に見える勢力圏、とりわけ「海北九十五国」を手がかりに、その王権がどの範囲を現実の行動圏としていたかを考える。さらに、その行動の背後に朝鮮半島南部の鉄資源への執着があったこと、そして五王の継承自体が一本の滑らかな血統ではなかったことを確認したうえで、最後に『日本書紀』がなぜ五世紀の王たちをそのまま取り込めなかったのかを論じたい。
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【研究ノート27】天照の皇祖神化はいつ、なぜ起きたのか

天照をめぐる従来の理解は、しばしば『日本書紀』や伊勢神宮の後世的な姿を前提にしている。しかし、七世紀初頭の対外史料に立ち返ると、当時の倭国王権は、まだ天照を国家最高神として前面に押し出していなかった可能性が高い。むしろ見えてくるのは、天・日・夜・暦を含む、より複層的な王権宇宙論である。本ノートの目的は、六〇〇年前後の『隋書』の記事から出発し、七世紀後半の律令国家形成の中で、なぜ伊勢の天照が皇祖神へ格上げされたのかを考えることである。 まず出発点となるのは、『隋書』倭国伝の開皇二十年(六〇〇)の記事である。そこには、倭王が「以天為兄、以日為弟」と説明されている。さらに「天未明時出聽政、跏趺坐。日出便停理務、云委我弟」と続く。ここで重要なのは、「日」がまだ最上位神としてではなく、王権秩序の内部に置かれた存在として表現されている点である。少なくともこの史料を素直に読む限り、倭王は太陽を拝する者というより、天と日の関係を自らの王権表象の中に組み込む存在として描かれている。 この一句は、後世の天照中心神話とかなり異なる感触をもつ。『日本書紀』では天照は高天原の統治者であり、皇統の源流に位置づけられるが、『隋書』段階ではまだそのような人格神の名は出ない。ここにあるのは「天照大神」ではなく、「天」と「日」を配列する王権の自己説明である。したがって、六〇〇年頃の倭国では、少なくとも対外的自己表現の中核に天照大神がいたとは言いにくい。ここから直ちに「天照信仰が存在しなかった」と断言することはできないが、「天照が国家最上神として前面化していなかった」ことは十分に言える。
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【研究ノート26】邪馬壹国の場所

『魏志倭人伝』の記事配列を見ると、卑弥呼の時代にすでに狗奴国との不和と交戦があり、その後に卑弥呼の死、男王擁立、国内混乱、壱与擁立へと続く。ここで重要なのは、卑弥呼の死後に女王国側が大きく揺らいだにもかかわらず、関係全体が決定的に反転したようには見えないことである。もし狗奴国が邪馬壹国に匹敵する近接大国であったなら、卑弥呼の死後の混乱は最大の好機だったはずである。だが、史料の前面に出るのはむしろ女王国側の内部動揺であり、狗奴国が一挙に秩序を奪った姿ではない。この一点だけでも、狗奴国は邪馬壹国連合に比肩する巨大国家ではなく、外側から圧力をかけ続ける境界勢力だった可能性が高い。
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【研究ノート25】卑弥呼の正体

卑弥呼を論じるとき、最初に置くべき問いは「卑弥呼とは誰か」ではない。 むしろ先に問うべきは、なぜ倭王は卑弥呼でなければ務まらなかったのか、である。『後漢書』は桓帝・霊帝のあいだに「倭国大乱」があり、長く主がなかったと記す。『魏志』はその後、男王では国が治まらず、卑弥呼が立てられたと伝える。ここで注目すべきは、卑弥呼の擁立が平穏な継承ではなく、既存の政治秩序が破綻したのちに採られた非常措置として描かれている点である。つまり卑弥呼の登場は、ある家の相続問題ではない。倭国全体が、従来の首長制や軍事的均衡ではもはや立ち行かなくなり、その行き詰まりのなかで初めて呼び出された新しい統合原理として理解しなければならない。 倭国大乱とは、単なる局地的争いではなかったはずである。 もし地方的抗争にすぎなかったなら、やがてどこかの有力首長が勝ち残れば済む。ところが中国側史料は、長く主がなかったと書く。これは、倭国内のどの勢力も決定的優位に立てず、しかも全体を束ねる共通原理そのものが失われていたことを意味する。軍事力は均衡し、血統的正統性は各勢力のあいだで分裂し、旧来の秩序はすでに効力を失っていた。そうであるなら、必要とされたのは新たな武人の登場ではなく、諸勢力が共通して服しうる、より高次の権威であったはずだ。卑弥呼が現れるのは、まさにその地点である。
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【研究ノート24】神功皇后像と宇佐大神氏

宇佐神宮において神功皇后は、単なる「応神天皇の母」として片づけられていない。八幡神・比売大神と並ぶ三所宝殿の一角を占め、中世の宇佐系伝承においては「人皇第十五代神功皇后」のように、ほとんど帝位相当の位置にまで引き上げられる。この高位化は、一般的な母子崇拝や后妃崇拝だけでは説明が難しい。母であることが重要なら、応神神話の内部で従属的に処理されてもよいはずである。ところが宇佐では、神功皇后は独立の霊威として保持され、しかも託宣伝承の中心に置かれる。 本ノートは、神功皇后を一人の実在皇后の素朴な伝記とは見ない。むしろ、『日本書紀』が複数の古い女王記憶を再構成し、皇統史の内部に組み込んだ「仮装された女王像」とみる。そのうえで、宇佐大神氏が第三殿に神功皇后を強く保持した理由を、血統祖の崇拝ではなく、託宣・呪術・巫覡的権威を体現する女王的霊威の保持として考える。言い換えれば、宇佐における神功皇后とは、応神の母である以前に、神意を受け、王権を媒介し、祭祀秩序を成立させる女性霊威の器であった、というのが本稿の中心仮説である。
歴史研究会

【研究ノート23】なぜ白日別神官は豊日別に猿田彦神を祀ったのか

白日別神官が勅命によって豊日別に猿田彦を祀ったという伝承は、単なる一地方の勧請説話として読むには重すぎる。問題は、なぜ「白日別」の神官でなければならなかったのか、また、なぜ祀る先が「豊日別」であったのかである。本稿は、この構図を継体朝から欽明朝への政治重心の移動として読む。結論を先に言えば、継体朝の重心は白日別側にあり、欽明朝はそれを豊日別側へ移した。その結果、白日別神官による豊日別での奉斎が必要になった、ということである。 
第四資料室

第四資料室報告書 No.04「阿蘇 原野の主」

第四資料室。そこは、保存期限を過ぎた公的記録に「生」か「死」かの引導を渡す、公表されない埋葬地だ。 今回は阿蘇の無人駅、始発前の待合室で石斧が見つかった。 文化財担当ではなく総務課から第四資料室へ届いた照会は、どこか最初から筋が違っていた。 廃棄棚を探るうち、江戸末期・明治・昭和初期にわたり、阿蘇の原野で「正体不明の者」が目撃されていた記録が現れる。 言葉は通じず、だが意思疎通は可能。 危険性は認められず、保護にも応じず、ただ原野を離れない。 そして昭和の記録には、奇妙な一文が残っていた――「始発を待つ旨の発語アリ」。 警察の要請で現地へ向かった第四資料室の担当者は、始発前の待合室で草の匂いと不可解な気配に遭遇する。 阿蘇の原野から駅へ現れる「そこにいるもの」とは何か。 記録だけが、その存在を知っている。
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