歴史研究会

【研究ノート41】天武朝は先王の陵墓を把握していたのか

天武・持統朝は、日本古代国家の形成史において特別な位置を占める。 この時期、王統の記憶は文字化され、『日本書紀』編纂の起点となる命令が出され、さらに陵墓管理も制度化されていく。天武10年(681)には「帝紀」と「上古諸事」の史実確定が命じられ、『日本書紀』は養老4年(720)に完成した。すなわち、天武・持統朝とは、国家が自らの過去を公的に編み直し始めた時代であった。 しかし、ここで一つの強い違和が生じる。 それほどまでに王統を整理し、歴史を固定しようとした政権が、なぜ自らに先立つ先王たちの陵墓連続性を、後世に明瞭なかたちで残していないのか。 公式には、舒明天皇陵は押坂内陵、天武天皇陵は檜隈大内陵とされる。 だが、その「分かっている」とは、国家の治定としての「分かっている」にすぎず、古代以来、疑いなく連続した記憶が保持されていたことを意味しない。むしろ、陵墓そのものが後代の調査・再整理の対象となっている事実は、先王陵の連続性が自明ではなかったことを示唆している。 本稿の問いはここにある。 天武朝は本当に先王の陵墓を把握していたのか。 もし把握していたのなら、なぜその連続性はこれほど見えにくいのか。 もし十分に把握していなかったのなら、なぜそれでも強い王統叙述を成立させえたのか。 さらに言えば、王統とは本来、祖先墓の認識と祭祀の継承を伴うものではないのか。 だとすれば、先王陵の曖昧さを抱えたまま成立した天武朝の王統とは、いかなる性格のものだったのか。 本稿は、この問題を単なる陵墓比定の可否としてではなく、王統の記憶がいかに編纂され、制度化され、再構成されたかという観点から考察するものである。
歴史研究会

【研究ノート40】古事記とは何か

『古事記』とは何か。 この問いは、単に『古事記』の真偽や成立年代をめぐる論争にとどまらない。むしろ問題は、『古事記』を『日本書紀』とどのような関係に置いて読むかにある。『日本書紀』は、681年に編纂開始が命じられ、720年に完成した勅撰正史として、神代から持統朝までを漢文・編年体で貫く国家史の体裁を備えている。これに対して『古事記』は、序文の自己説明に従えば711年に筆録が命じられ、712年に献上されたことになるが、その後の公的運用の痕跡は薄く、現存最古の写本も真福寺本まで大きく隔たっている。完成した国家正史としては、どこか座りが悪いのである。 しかし、その不自然さをもって直ちに『古事記』全体を偽書とみなす必要はない。むしろ重要なのは、本文と、その成立を語る序文とを分けて考えることである。『古事記』本文には上代特殊仮名遣いの研究対象となる古い言語層が認められ、全面的な中世新作とは考えにくい。他方、成立事情を語る序文は、あまりに整いすぎていて、後代の正統化を疑わせる。したがって、本稿は『古事記』を、完成した独立史書としてではなく、『日本書紀』へ至る長い国家編纂過程の中で、一度先に切り出された王統と神話の骨格文書として読む可能性を検討する。
歴史研究会

【研究ノート39】推古はなぜ現れたのか

隋書倭国伝を読むとき、まず目につくのは、後世の通念ほどには推古が見えないという事実である。倭国の外交主体として前面に出てくるのは、あくまで「王」であり、日本書紀が描くような「推古天皇の国家外交」という構図は、そのままでは現れない。この齟齬は、単なる記載漏れとして処理すべきではない。むしろ、後に成立した日本書紀の歴史叙述そのものを問い直す入口とみるべきである。隋書は倭国の主体を「王」として把握しており、日本書紀のような推古中心の外交叙述とは構造を異にする。 本ノートは、日本書紀を史実復元の基準史料として用いない。日本書紀は720年に完成した国家的編纂史書であり、編纂の開始は天武朝にさかのぼると考えられている。また、その内容は多様な材料を取り込みつつ、中国正史や古典による潤色を受けており、とりわけ古い時代の記事は、そのまま史実の直写とはみなしがたい。したがって、日本書紀からのみ派生した人物像、宮都比定、事績配列は、まず疑われるべきものである。 この前提に立つなら、推古朝を最初から「天皇の時代」として受け取ることもできない。そもそも「天皇」号の成立については、かつて推古朝説が有力であったものの、現在では天武朝末期、制度的には飛鳥浄御原令の段階に位置づける見解が有力である。日本書紀に見える推古期の「天皇」表現も、8世紀編者の潤色を含む可能性が高い。ゆえに、推古を自明の「天皇」として出発点に置くのではなく、後代の国家理念によって再表現された存在として扱う必要がある。 本ノートの中心仮説は明快である。天武王権は、自らを正統な継承王朝に見せるため、過去を一系の天皇史へ再編集した。その結果、本来はより複雑であったはずの王権構造や外交主体は、歴代天皇を中軸とする滑らかな国家史へ組み替えられた。推古朝もまた、その再編集の中で重要な位置を与えられたと考えられる。すなわち、推古が先に歴史の中に確固として存在し、その事績が記録されたのではなく、天武王権の歴史構成の中で、推古という女性統治者像が政治的に見えるよう配置された可能性を考えるのである。天武朝は681年から律令と史書の編纂事業を進め、後継政権がそれを継承して完成させたとされる。 このとき重要なのは、推古の実在を先に断定したり否定したりすることではない。問うべきは、なぜ日本書紀が推古をこのように描かなければならなかったのか、という点である。なぜ隋書では「王」として見える外交主体が、日本書紀では「推古朝外交」として整理されるのか。なぜ日本書紀は、女性統治者の巻に重大外交や国家的転換を集中させるのか。こうした問いをたどるとき、推古は「見えない人物」ではなく、むしろ後代の王権編纂によって「見えるようにされた人物」として浮かび上がる。 本ノートは以上の立場から、第一に天武王権による一系天皇史の再編集という問題を確認し、第二に隋書倭国伝に見える外交主体を検討し、第三に日本書紀が推古朝をどのように再配置したかを考察する。目的は、推古朝の実態を日本書紀の枠内で復元することではない。むしろ、日本書紀が構成した推古像の政治的意味を解明することにある。
歴史研究会

【研究ノート38】比売神の成立

宇佐八幡の成立を考えるとき、私たちはどうしても、後世に整えられた祭神構成から逆算してしまいがちである。 八幡大神・比売大神・神功皇后という三座構成は、いま見える宇佐神宮の完成形としては重要である。だが、それをそのまま古層へ遡らせると、かえって見えなくなるものがある。 その最たるものが、比売神である。 比売神は、のちには宗像三女神として説明され、さらに系図類の中では天三降命のような整った祖神名へ接続される。しかし、それらは成立後の整理された姿であって、最初の姿ではない。 では、比売神とは、もともと何であったのか。 本稿が問いたいのは、この一点である。 宇佐神宮の深層には、御許山という神体山がある。宇佐市の文化財保存活用地域計画でも、御許山は三柱の比売神降臨説話で知られる山であり、山頂に巨石体をもつ磐座として位置づけられている。つまり宇佐祭祀の根には、まず山と石の神霊があった。 そして私は、この古い神霊が、六世紀半ばの大きな転換を経て、宇佐氏の担うより小さな祭祀へ再編されるなかで、比売神という母体神へと形成されていったのではないかと考える。
歴史研究会

【研究ノート37】宇佐赤塚古墳は、なぜ前方後円墳でなければならなかったのか

宇佐赤塚古墳は、大分県宇佐市高森の台地上に築かれた全長約57.5〜58メートルの前方後円墳である。後円部中央の箱式石棺からは、三角縁神獣鏡五面、管玉、鉄刀片などが出土しており、九州でも最古級、あるいは大分県域では九州最古級の前方後円墳の一つと位置づけられている。しかも、その鏡の同笵・同型関係は、福岡県石塚山古墳や京都府椿井大塚山古墳など広域の首長墓群に及んでいる。赤塚古墳は、宇佐の一地方的墓制の問題ではなく、広域的な政治関係の中で理解すべき古墳である。 だが、重要なのは「前方後円墳である」という分類上の確認ではない。問うべきは、なぜ宇佐において、この古墳が前方後円墳でなければならなかったのかという点である。赤塚古墳は川部・高森古墳群の中でも最古の前方後円墳であり、古墳群全体は駅館川東岸の、宇佐平野を一望する段丘上に営まれている。しかもこの古墳群は、前期の赤塚古墳・免ヶ平古墳から中期以降の古墳へと年代的に連続し、文化庁はこれを宇佐平野で活躍した古代豪族歴代の墳墓とみている。したがって赤塚古墳は、単に新形式を試した一基ではなく、宇佐の首長権が自らの墓制を定着させる起点だったとみるべきである。
歴史研究会

【研究ノート36】大隅正八幡宮の原初層と宇佐八幡成立

本稿の出発点は、大隅正八幡宮の原初層を、完成後の宇佐八幡の分祀としてではなく、より古い祭祀層として捉え直すことにある。現在の鹿児島神宮の祭神構成を見ると、主祭神は彦火火出見尊・豊玉比売命であり、いわゆる応神天皇中心の八幡宮とは構造が異なる。霧島市の文化財解説でも、鹿児島神宮は社伝では和銅元年(708)創建とされ、主祭神を彦火火出見尊・豊玉比売命とし、平安時代に八幡神が勧請されて「八幡正宮」「大隅正八幡宮」と呼ばれるようになったと説明されている。すなわち、大隅正八幡宮の現実の中核は、少なくとも表面上は彦火火出見尊系の社であって、後世に典型化した宇佐八幡の姿とは一致しない。 この点は重要である。もし大隅正八幡宮が最初から宇佐八幡の完成形と同質のものであったなら、主祭神が応神天皇ではなく彦火火出見尊・豊玉比売命であることは説明しにくい。むしろ、大隅側には八幡化以前の古い祭祀層が保存され、その上に後代の「八幡」解釈が重ねられたと考える方が自然である。鹿児島神宮公式由緒も、社の基本的性格を「海幸山幸神話の社」として語っており、八幡神は相殿神に含まれるにとどまる。ここに見えるのは、八幡神が本体なのではなく、後世に八幡が接続された複合社の姿である。 他方、宇佐側では八幡神の公的認知が比較的遅い。高寛敏は、「八幡」の名が正史に現れる天平9年(737)が、弥勒寺造営とも重なる画期であると指摘している。すなわち、宇佐はこの頃にはじめて国家に対して「八幡」を用いうる段階に達したとみられる。もしそうなら、708年ないし714年の豊前―大隅間移動の時点で持ち込まれた祭祀は、まだ後世のように整備された宇佐八幡そのものではありえない。むしろ、宇佐八幡成立以前の、より古い豊前系祭祀が大隅へ運ばれたとみるべきである。 この視点をとると、問題は「大隅正八幡宮は宇佐八幡のどの段階を写したか」ではなく、**「宇佐八幡成立以前に豊前側で祀られていた何らかの古層祭祀が、大隅でどのように定着し、のちに彦火火出見尊として、さらに八幡として再編されたか」**に置き換わる。そこでは、神名そのものを額面通りに受け取ることはできない。現在見える祭神表記はすでに後代的編集を受けた可能性を含んでおり、原初層の神格は別名・古称で把握されていた可能性が高いからである。したがって本稿では、大隅正八幡宮の原初層を、豊前移住・海神系祭祀・記紀編纂体制による神名整理の三点から再検討する。
歴史研究会

【研究ノート35】日本書紀における歴史改ざん

邪馬壹国は、正面から否定されなくても歴史から消しうる。 そのためには、邪馬壹国そのものを抹消する必要はない。末盧国・伊都国・不彌国・投馬国と連なる道筋を見えなくし、そこへ至る地理と記憶の線を別の物語へ組み替えればよい。そうなれば、邪馬壹国は「存在しなかった国」ではなく、「どこにあるのか分からない謎の国」へ変わる。問題は、まさにこの変質が、いかなる叙述の力によって起きたのかという点にある。 本稿は、この問題を『日本書紀』の編纂原理と、景行天皇伝承・神功皇后伝承の働きから考える。『日本書紀』は720年に成立し、翌721年から講筵という朝廷行事の中で読まれた、日本最初の正史である。したがってそれは単なる古伝の集成ではなく、国家が自らの過去をどのように正本化したかを示す文書であった。そこでは、地域ごとに散在していた記憶や氏族伝承が、皇統中心の一つの歴史へ整理される。古事記序でも、太安万侶は帝紀・旧辞が「正実」に違い、虚偽が加えられているのを正すという原理を掲げているが、この原理は古事記だけでなく、日本書紀にも及ぶと見るべきである。 この観点から見ると、景行天皇伝承と神功皇后伝承は、偶然に大きく描かれた説話群ではなく、機能の異なる二つの装置として読める。景行天皇伝承は、旧勢力を土蜘蛛として討伐対象へ落とし込み、王権以前の地方秩序を「服わぬ者」の歴史へ変える装置である。他方、神功皇后伝承は、末盧国・伊都国・不彌国のような港湾圏・交通圏・聖地圏を、皇后ゆかりの新たな由緒地理へ組み替える装置である。前者が旧秩序の掃討を担い、後者が新秩序の地理的再配置を担ったと見ると、邪馬壹国へ至る線がなぜ読めなくなったのかが理解しやすくなる。 ここで強調したいのは、本稿が「日本書紀は全部虚構である」と言うものではないことだ。むしろ逆である。日本書紀は古い記憶を多く保存している。だからこそ、その保存の仕方と、上書きの仕方の両方を読む必要がある。地名、伝承、祭祀地、巡幸譚、討伐譚は、単に残骸ではない。そこには、古い政治地理がどのように王権史へ吸収され、何が消され、何が残されたかが刻まれている。本稿の目的は、その編纂操作の筋道を明らかにし、邪馬壹国へ至る線がどのように失われたのかを具体的に示すことにある。
歴史研究会

【研究ノート34】投馬国の政治形態

『魏志倭人伝』は、投馬国について「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸」と記し、邪馬壹国については「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」と記している。ここでまず注目すべきは、投馬国には王が書かれず、官と副官のみが記されることである。他方、邪馬壹国には「女王之所都」とあり、伊都国には「世有王」とある。つまり『倭人伝』は、必要な場面でははっきり「王」を書く史料であり、投馬国だけに王を記さないことには意味がある。 従来、投馬国論は地名比定に重点が置かれてきた。しかし、投馬国の核心は、単に「地図のどこに置くか」ではなく、いかなる政治形態を持つ大国だったのかにある。五万余戸という数字も、厳密な戸口調査ではなく、魏側が投馬国を倭の有力大国として把握したことを示す政治的規模表現とみるべきだろう。投馬国は、邪馬壹国に従属する小国ではなく、独自の官制を持ち、しかもその先に邪馬壹国へ至る大きな中間国家として位置づけられている。 本稿では、投馬国を大分川流域国家として捉える。だがその際の要点は、下郡や賀来といった一点の遺跡に押し込むことではない。大分川は、国土交通省資料によれば、幹川流路延長55km、流域面積650平方キロメートルを持ち、由布・竹田・大分へ連なる長い水系であり、芹川・賀来川・七瀬川などの支流を抱える。すなわち投馬国は、河口の港湾拠点だけでなく、中流の扼点、上流の高原・台地・支流域までを結ぶ複合的流域国家として考えるべきである。 この見方に立つと、投馬国は単独王が都城に座る王国ではなく、複数の拠点を役割分担的に束ねた国家として理解しやすい。しかもその先には、より大きな大野川流域国家としての邪馬壹国が控えていた。投馬国を正しく理解するには、まずこの流域国家としての構造を見なければならない。
歴史研究会

【研究ノート33】末盧国は宗像にあったのか

『魏志倭人伝』に見える末盧国は、一般に唐津・松浦地方に比定されてきた。最大の理由は、「末盧(まつろ)」という国名が後世の「松浦(まつら)」に近い音を持つと考えられてきたことにある。また、唐津市周辺には菜畑遺跡や宇木汲田遺跡など著名な弥生遺跡が集中し、唐津市も「末盧館」を設置し、さらに「末盧国遺跡群調査指導委員会」を置いて、当該地域を末盧国の有力な比定地として扱ってきた。通説としての厚みは、確かに唐津側にある。 しかし、末盧国比定を地名の近似だけで処理してよいかといえば、問題はそれほど単純ではない。『魏志倭人伝』は、一大国から「又渡一海千餘里、至末盧國」とし、その後「東南陸行五百里、到伊都國」と記す。つまり末盧国は、単なる海辺の寄港地ではなく、壱岐から海を渡って到着する地点であり、なおかつそこから伊都国へ向かう陸行の起点として描かれている。行程記事を重視するなら、末盧国は「玄界灘沿岸の上陸点」であると同時に、「東南方向への交通結節点」でなければならない。 ここで注目すべきなのが宗像である。宗像は玄界灘に面し、古代を通じて海上交通・航路祭祀の要地であり続けた地域である。その宗像において、田熊石畑遺跡は、弥生時代中期前半の区画墓群から大量の武器形青銅器が出土した、きわめて有力な首長層墓域として知られる。福岡県文化財データベースは、この遺跡を「当該時期における宗像地域の有力者の墓」とし、「弥生時代のクニの成立を考えるうえで重要な遺跡」と位置づけている。もし末盧国を、壱岐からの上陸点としての性格と、玄界灘沿岸の地域首長圏という二重の視点から捉え直すなら、宗像を候補から外すことはできない。 本稿は、末盧国を宗像、より具体的には田熊石畑遺跡を中心とする地域に比定しうるかを検討するものである。通説をいたずらに否定するのではなく、唐津・松浦説の強みを認めたうえで、なお宗像説を再検討すべき理由がどこにあるかを論じたい。
歴史研究会

【研究ノート32】奴国は福岡市にはなかった

『魏志倭人伝』に記される奴国の所在地は、古代北部九州史の中でも、とりわけ比定の困難な課題の一つである。従来、この奴国は福岡平野、ことに博多湾岸から春日・那珂川流域にかけて求められることが多かった。その理由は明快である。第一に、この地域は弥生後期における遺跡密度が高く、集落・墓制・青銅器生産のいずれにおいても北部九州有数の集積を示す。第二に、須玖岡本遺跡をはじめとする有力首長層の存在をうかがわせる遺構・遺物が集中し、政治的中枢としての印象がきわめて強い。第三に、志賀島から出土した金印が、「奴国」という国名を博多湾岸と直接結びつける象徴的証拠として長く機能してきた。こうした事情のもとで、奴国を福岡市域ないしその周辺に比定する理解は、学界のみならず一般的理解としても広く定着してきたのである。しかしながら、この定着した理解には、なお再検討されるべき前提が含まれている。それは、考古学的に最も豊かで、最も強く見える地域こそが、そのまま史料上の有力国に対応するはずだ、という暗黙の仮定である。言い換えれば、遺跡の密度、出土遺物の量、王墓級遺構の存在、さらには外交遺物の出土といった要素が、そのまま史料中の国家名と一対一で対応するとみなされてきたのである。だが、この前提は本当に自明であろうか。ある地域が豊かで強力であったことと、その地域が『魏志倭人伝』における奴国であったこととは、本来別個に論じられるべき問題である。
タイトルとURLをコピーしました