歴史研究会

【研究ノート20】宇佐家とは何か

宇佐家とは、単に宇佐神宮に仕えた一つの神職家を意味するのではない。豊前・豊後にまたがる広い支配地、祭祀権、裁定権、土地経営、そして家ごとに分かれながらもなお共有される一族の記憶を含む、重層的な歴史空間そのものを指すべきである。宇佐家を理解するには、近世以降の固定した家制度や、本家・分家の観念をそのまま当てはめるだけでは足りない。むしろ、複数の家筋が役割を分担しながら並立し、制度の変化に応じて姿を変えていく古い支配秩序として捉える必要がある。
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【研究ノート19】天武以前に大和王朝は存在したのか

天武以前の古代日本を語る際、しばしば前提とされるのが、畿内を本拠とする「大和王朝」が早くから全国を統合し、九州や吉備、東国を順次その支配下に収めていった、という図式である。だが、この図式は本当に自明なのだろうか。むしろ現存する史料と考古資料を丁寧に重ねると、天武以前に後世の律令国家のような完成した統一王権を想定すること自体が危うく見えてくる。本稿は、屯倉、継体朝と欽明朝の差異、白村江敗戦後の太宰府成立などを手がかりに、天武以前の「大和王朝」像がかなり後代的な構成物ではないかを考える試論である。
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【研究ノート18】太宰府は何のために成立したのか

――白村江敗戦後の唐軍前線中枢 太宰府は、一般には律令国家の西海道支配を担う地方官庁、あるいは対外防衛と外交を兼ねた倭側の前線拠点として理解されている。だが、その成立事情を白村江敗戦後の時代状況と照らしてみると、この説明だけでは不十分である。むしろ太宰府は、畿内国家の従属的な地方官庁として成立したのではなく、白村江敗戦後に唐の監督下で整備された唐軍前線中枢として理解すべきではないか。本稿は、その可能性を検討する試論である。 
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【研究ノート17】秦王国は存在したのか

『隋書』倭国伝は、裴世清の行路を「竹斯國」に至り、さらに「東して秦王國に至る」と記す。この記述が重要なのは、隋側の認識の中で、倭が単一の均質な空間ではなく、少なくとも筑紫の東に別個に把握される政治空間を持っていたことを示すからである。福山裕夫はこれを、裴世清が筑紫国と秦王国、すなわち豊国を訪れた記事として読んでいる。秦王国をただちに空想上の名と片づけるより、まず九州内の実在的な地域秩序の痕跡として受け止めるべきであろう。
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【研究ノート16】継体朝と欽明朝は別の血筋ではないか

継体朝から欽明朝への移行は、『日本書紀』では連続した皇統の継承として描かれている。だが、その連続性をそのまま受け取ることには大きな疑問がある。継体天皇は「応神五世孫」とされるが、その皇統接続はあまりに遠く、婚姻や系譜操作によって正統化された印象が強い。さらに、継体紀から欽明紀にかけての叙述は、『百済本記』など外部史料層の利用が想定されており、自然な王統記録というより、後から接合された編集点とみるべき性格を持つ。したがって、継体朝と欽明朝のあいだに、書紀が隠した政治的断絶、あるいは別系統王権の接合があった可能性を考えるべきである。
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【研究ノート15】壬申の乱は何を争ったのか

壬申の乱は、一般には天智天皇の後継をめぐる皇位継承戦争として理解されている。しかし、白村江敗戦後の倭国が置かれた国際環境と、その後に天武朝で集中的に進む制度改革を重ねてみると、この理解だけでは不十分であるように思われる。むしろ壬申の乱は、敗戦後の倭国が唐との関係をどのように受け止め、どのような国家へ移行するかをめぐる政変として再検討されるべきではないか。本稿は、その可能性を問う試論である。 
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【研究ノート14】御所ヶ谷神籠石は唐軍前線基地の最後の砦だったのか

御所ヶ谷神籠石を、単独の山城遺跡としてではなく、福原長者原官衙遺跡と対をなす施設として見るとき、その意味は大きく変わる。行橋市の資料では、御所ヶ谷神籠石は行橋市南西部の山系に築かれた神籠石系山城であり、7世紀後半の東アジア情勢に関連して築かれた山城とみられている。また、その北麓には大宰府と京都平野を結ぶ古代官道が通り、敵軍の侵攻を監視・妨害する位置にあったと説明される。つまりこの遺跡は、単なる避難所や象徴的施設ではなく、交通路と平野部を押さえる軍事的要衝として理解されている。 
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【研究ノート13】福原長者原官衙遺跡は何のために造られたのか

福原長者原官衙遺跡を、単なる豊前国府の前身ないし一地方官衙として理解するだけでは、どうしても説明しきれないものが残る。行橋市の保存活用計画によれば、この遺跡は飛鳥時代末頃に成立し、政庁区画は一辺約一五〇メートルの方形区画をなし、八脚門や回廊状施設を備える九州最大級の古代官衙政庁跡である。しかもその規模や設計には藤原宮を想起させる要素があり、通常の地方官衙を超える格式と構想性が認められている。行橋市自身も、国府関連施設ないし国府以上の可能性を視野に入れている。したがって、まず出発点として、この遺跡を「普通の国府」とみなすこと自体を疑う必要がある。 
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【研究ノート12】なぜ景行天皇伝承に九州征伐譚が入ったのか

景行天皇伝承に九州征伐譚が厚く組み込まれている理由を考えるとき、まず確認すべきなのは、それが単なる「古い戦争の記録」としては読みにくいことである。豊前・豊後の記事で具体的に動くのは、景行天皇その人よりも、菟名手や物部君祖夏花、さらに在地首長たちである。とくに國學院大の系譜整理では、菟名手は景行紀に現れるのみならず、のちに豊国直・国東臣へ接続する節点的人物として位置づけられている。つまり景行紀豊後条の核は、「王が何をしたか」よりも、「誰が地域秩序を担う者として立てられたか」にある。景行天皇は、その再編を王権の物語として包み込む器として機能しているように見える。 
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【研究ノート11】景行天皇伝承は何を語るのか

景行天皇伝承は九州各地に濃密に残るが、その実像は驚くほど見えにくい。とりわけ豊前・豊後の伝承では、具体的に動くのは菟名手、神夏磯媛、夏花のような人物たちであり、景行天皇自身が何を判断し、どう行動したのかはきわめて希薄である。『行橋市史』の「景行天皇の巡幸説話」も、この伝承をそのまま史実とはせず、ヤマト王権が九州の豪族と同盟し、あるいは抵抗勢力を排除しながら勢力を拡大していく過程が投影されたものと捉えている。ここからまず言えるのは、景行天皇伝承が一人の王の遠征記として書かれているのではなく、複数の地域的記憶を王権の名の下に再編した叙述だということである。 
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