歴史研究会

【研究ノート】法蓮による仏教的安定化

 宇佐における法蓮の役割は、単なる「弥勒寺初代別当」では捉えきれない。法蓮の本質は、宇佐の在地神威を仏教的秩序へ組み替え、政治的にも宗教的にも不安定な場を安定化することにあったと考えられる。[1]  法蓮が史料上はっきり現れるのは大宝三年(703)である。『続日本紀』系の整理によれば、法蓮は医術の功によって豊前国の野四十町を与えられており、これは彼が地方の無名僧ではなく、朝廷に認知された実務的宗教者であったことを示す。[2] また、養老五年(721)には法蓮の三等以上の親族に宇佐君姓が与えられたとされ、法蓮が宇佐在地の有力層と深く結びついていたことがうかがえる。[3] すなわち法蓮は、中央に届く力を持ちながら、同時に宇佐の内部に根を持つ宗教者であった。
歴史研究会

【研究ノート】天平八・九年疫病危機と宇佐放生会の仏式成立

宇佐放生会の起源については、従来、隼人征討後の殺生贖罪や鎮魂儀礼として理解されることが多かった。しかし検討を進めると、放生会の実質的成立は、伝承上の養老年間や天平十六年ではなく、天平八・九年(736–737)前後に求める方が自然であるように思われる。すなわち、隼人征討は後代に整えられた起源神話として利用され、実際の祭礼成立を促した最大の契機は、九州を起点として広がった天平の疫病危機であった可能性が高い。
歴史研究会

【研究ノート】放生会=宇佐八幡成立の原点

拙著『菟狭津彦が見た倭国の歴史』を書いた際、宇佐八幡の成立についていくつかの疑問が残った。特に「放生会」「大神氏」「疫神祭祀」の関係である。本書を書き直すつもりで、補足的な考察を書いてみたい。 宇佐八幡の成立を考えるとき、一般には渡来系氏族である秦氏の関与や、奈良時代以降の国家祭祀化が語られる。しかし、創建当初から宮司として大神氏が存在していた事実は、あまり注目されていない。ここでは「放生会」「疫神祭祀」「大神氏」という視点から、宇佐八幡成立の別の可能性を考えてみたい。
第四資料室

第四資料室報告書第3号「摩尼山の影」

テレビニュースで隠岐・摩尼山の行方不明事件を知った〈ぼく〉は、第四資料室の廃棄棚に同じ地名の報告書が眠っていたことを思い出す。件名は「居住地未確認事案」。住所も地図も鍵も一致しているのに、本人だけが自宅へ辿り着けず、やがて再び失踪した記録だった。最後のページには「家を見つけた者は、必ず山へ戻る。」という不穏な一文が残されている。さらに当時の担当者から連絡が入り、対象者が目の前で消えたこと、そして今回の事件が“十五年前の再発”かもしれないことが示される。現地へ赴いた〈ぼく〉は、発見地点が後醍醐天皇の御所跡と重なること、失踪者が「やっと帰れる」と語っていたこと、そして十五年前と同じ午後三時四十分に山影の中へ人影が沈むのを目撃する。焼却ではなく保存を選んだ報告書に、〈ぼく〉は最後に一行だけ追記する。 「鍵は閉められている。」
歴史研究会

「菟狭津彦が見た倭国の歴史」取材イラスト展

イラスト展終了のご報告 このたび、3月6日から8日までの3日間、行橋市赤レンガ館にて開催いたしましたイラスト展は、おかげさまで盛況のうちに無事終了いたしました。 本展では、著書執筆の過程で実際に取材した場所の中から20箇所を厳選し、イラストとして再構成・展示いたしました。物語の背景となった土地の空気や歴史の重なりを、視覚表現としてご覧いただく試みでもありました。 期間中は多くの皆様にご来場いただき、また工藤政宏行橋市長にもお越しいただくなど、大変光栄な機会となりました。とりわけ3月7日に開催したギャラリートークには予想を上回る来場者が詰めかけ、作品に込めた意図や取材時のエピソードを直接お伝えできたことは、制作者として大きな喜びでした。
第四資料室

第四資料室報告書 No.02「四皇子塚の御神渡」

明治期の断片資料の余白に、小さく「御神渡?」と書かれていた。 当地に湖はなく、氷結の記録も存在しない。その語だけが、場違いに残されている。しかも一度は消そうとした痕跡がありながら、完全には消されていない。 資料によれば、四皇子塚周辺では一定期間ごとに掘削痕が確認されていたという。だが土壌の攪拌は新旧が混在し、同一人物の作業とは考え難い。前任担当者は掘削地点を結ぶと一本の「線」が現れると記し、この現象を私的に「御神渡」と呼んでいた。彼はやがて依願退職し、その後まもなく亡くなっている。
第四資料室

第四資料室報告書 No.01「三つの由来」

第四資料室報告書 No.01「三つの由来」高良山に残る三種の記録を整理した初の公開案件である。 江戸期の地誌写本、明治期の社務記録、そして山麓に暮らす高齢者三名の口承。成立年代も目的も異なるこれらの資料は、互いに直接の関連を持たない。しかし地図上に落とすと、三者は一点で重なる。 そこは「旧祭場」と記され、「内を避ける」と記録され、「戻る場所」と語られた地点である。名称も意味も揃わない。ただ位置だけが揃う。 現地踏査では特異な物理現象は確認されなかった。温度、磁気、視認性、いずれも正常範囲内である。地形も自然の説明に収まる。にもかかわらず、過去の登山道、古い踏み跡、祭礼の順路変更は、いずれも同一点を境に折れている。
地域活性化

30年集めてきた風景を、未来へつなぐために

最近の創作活動について、 Campfireに一区切りの記録を残しました。 日々の制作や発表は、どうしても完成品だけが表に出がちですが、 実際にはその手前に、考えたり、迷ったり、試したりする時間があります。 今回は、そうした途中の積み重ねを中心にまとめています。 派手な成果報告ではありません。 今どんなことを考え、どんなペースで続けているのか。 自分自身の整理も兼ねた、静かな活動記録です。 現在、Campfireでは支援も募集中です。 創作を継続するための仕組みとして、 興味のある方に覗いてもらえたら嬉しいです。
宇佐津彦ブログ

「菟狭津彦が見た倭国の歴史」取材スケッチ展

「菟狭津彦が見た倭国の歴史」取材スケッチ展を、宇佐津彦清智の現在住んでいる福岡県行橋市赤レンガ館で開催します。全体では150枚くらいのなかで、選りすぐりの20枚のスケッチを解説込みで展示します。
宇佐津彦ブログ

ジュンク堂池袋本店でキャンペーン展開中

2025年9月、ジュンク堂池袋本店にて、「菟狭津彦が見た倭国の歴史」キャンペーンが行われています。神武天皇の御代から続く宇佐家の子孫が、日本の歴史について書き下ろしました。みなさんもこの機会に、この本を手にとってみませんか。
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