
宇佐津彦清智
古代史をめぐる議論では、「大和王権」という語がきわめて自然な前提として用いられることが多い。
それは教科書的叙述においても、一般向け歴史解説においても、さらには邪馬壹国論や倭国論を論じる場においても同様である。多くの場合、「大和王権」は、早い時期から日本列島の政治的中心として存在し、諸地域を次第に統合しながら、後の国家へと連続していく主体として理解されている。
だが、この語がここまで強い説得力を持つのはなぜだろうか。
それは単に史料上の裏付けが十分だから、というだけではない。むしろそこには、複雑な歴史を一つの中心にまとめたいという認識の癖、断絶よりも連続を好む理解の傾向、そして8世紀に整えられた歴史像をそのまま古い時代にまで投影してしまう構造があるように思われる。
本稿は、大和王権の実在そのものを直接否定することを目的とするものではない。
そうではなく、なぜこの語とこの構図がこれほど強く支持されるのか、その背景にある歴史認識のあり方を考えてみたい。
一 なぜ人は「中心」を求めるのか
人は複雑なものを、そのまま複雑なまま理解し続けることが苦手である。
複数の地域勢力が併存し、時に競合し、時に連携しながら動く歴史像は、実態に近いかもしれないが、理解するには手間がかかる。しかもそのような歴史像は、明快な物語を与えてくれない。
そのため、人はしばしば「中心」を求める。
古代史であれば、それは「最初から列島を主導した核」であり、「すべての流れが最終的にそこへ収斂する地点」であり、「後の国家をあらかじめ内包していた起点」である。大和王権という語が広く受け入れられる背景には、この中心志向がある。
多中心的な歴史は、理解しにくい。
だが、一つの中心を置けば、全体は急に分かりやすくなる。九州も吉備も出雲も宇佐も、それぞれ独自の力を持った地域核として見るのではなく、「最終的には大和へ統合される周辺」として位置づければ、歴史の輪郭は単純になる。
この単純化は便利である。便利であるがゆえに、人はそこに安心してしまう。
しかし、分かりやすさはそのまま歴史的真実を意味しない。
とりわけ古代日本のように、史料が断片的で、しかも後代の編纂を経たものが多い領域では、中心を先に置いてしまうこと自体が、すでに大きな解釈なのである。
二 なぜ人は「連続した王権」を求めるのか
中心と並んで、人が強く求めるものがある。
それが連続性である。
歴史に断絶や再編が多いと、人は不安になる。
ある時代の王権と次の時代の政治主体が、どこまで同じでどこから違うのかが曖昧だと、全体像がつかみにくくなるからである。そこで人は、できるかぎり一本の線を引こうとする。最初の首長連合も、倭王も、5世紀の外交主体も、7世紀の政治改革も、8世紀の律令国家も、できればすべて一つの連続した王権として理解したくなる。
この欲求は自然である。
だが自然であるがゆえに、歴史を歪めやすい。
実際には、古代の政治体はそれほど単純ではない。
ある時代には広域連合として機能していたものが、別の時代には特定地域の主導権のもとで再編され、さらに別の時代には制度と理念を伴う国家へと変質していく。
この変化を丁寧に見れば、そこには連続だけでなく、飛躍も断絶も再構成もあるはずである。
それにもかかわらず、「ヤマト王権」という語が一般に強く受け入れられるのは、この変化のすべてを一つの連続体として見せてくれるからだ。
すなわち、この語は説明用語であると同時に、連続性を印象づける装置でもある。
だが、ここに一つの問題がある。
たとえば中国史書に現れるのは、基本的には「倭王」であって、「ヤマト王」ではない。対外的に確認される政治主体は、まず倭である。にもかかわらず、後世の「大和王権」という語をそのまま古い時代に遡らせると、あたかも初めから大和を中核とした同一の王権が一貫して存在していたかのような印象が生まれる。
この印象こそが、連続性をめぐる最大の問題なのである。
三 なぜ記紀的歴史像は強いのか
大和王権という像が強い理由として、もう一つ見落とせないものがある。
それは、記紀によって整えられた歴史像の力である。
『古事記』と『日本書紀』は、単なる出来事の記録ではない。
そこでは王統が整序され、神話と政治が接続され、地方の神や伝承が中央的秩序の中へ再配置されている。つまり記紀は、過去をあるがままに写し取ったものというより、8世紀国家が自らの正統性を支えるために過去を編成した文書として読むべき側面を持っている。
ここで重要なのは、その編成があまりにも成功していることである。
記紀的歴史像は、一つの王統が古くから連続し、神代から人代へ、そして天皇中心の秩序へと自然に移行していくように見せる。
この物語の力は強い。しかも、それは単なる史書にとどまらず、その後の教育・信仰・国家観の深い層にまで浸透していった。
その結果、私たちは知らず知らずのうちに、8世紀に完成された歴史像を、それ以前の時代を理解するための前提にしてしまう。
古墳時代の広域関係も、倭国の外交も、地方祭祀の自立性も、すべて最終的に「大和王権の形成過程」として読まれやすくなる。
だが本来、8世紀の整理を前提にして古い時代を見ること自体が、一つの後代的視線である。
つまり、大和王権に人がこだわるのは、単にこの語が便利だからではない。
その背後には、記紀によって整えられた歴史の骨格が、あまりにも強く私たちの理解を支配しているという事情がある。
四 なぜ大和王権は強引な解釈を生むのか
「大和王権」という前提を強く置くと、史料や遺跡はしばしばその前提に合わせて読まれることになる。
ここに強引な解釈が生まれる。
たとえば、対外史料に見える「倭王」は、本来ならまず倭という広域政治体の王として理解されるべきである。ところが大和王権を先に置くと、それは直ちに「大和の王」と読み替えられやすい。
また、各地の有力勢力や祭祀拠点も、それ自体の独自性や自立性を問う前に、「大和の周辺勢力」「大和へ統合される途中段階」として処理されやすくなる。
この読み方は、一見すると整っている。
だが整っているのは、史料そのものではなく、それを包み込む説明の枠組みの方である。
さらに、大和王権という語は、異なる時代の性格差を平板化しやすい。
首長連合としての段階、倭王外交の段階、有力氏族の均衡の段階、律令的制度国家への移行段階は、本来なら分けて考えるべきである。ところがそれらをすべて「ヤマト王権の発展」として一続きに置くと、変化は成長に、再編は発展に、断絶は連続の中の小さな揺らぎに置き換えられてしまう。
ここで起こるのは、単なる用語上の問題ではない。
歴史そのものが、最初から答えの決まった物語へ押し込まれていくのである。
だからこそ、「大和王権」という語は便利であると同時に危うい。
それは多くを説明できるように見えるが、実際には多くの可能性を最初から閉ざしてしまう。
倭王とは何か、地方勢力はどれほど自立していたのか、8世紀以前に本当に後世的意味での連続的一元王権があったのか。そうした問いを開いたままにするためには、まずこの語が生みやすい解釈の強引さを自覚する必要がある。
五 結論
人はなぜ大和王権にこだわるのか。
それは、この語が史料を整理しやすく、歴史を分かりやすくし、複雑な古代を一つの中心と一本の系譜にまとめてくれるからである。
中心を求める認識、連続性を求める理解、そして記紀によって整えられた歴史像の強さが、この語をきわめて魅力的なものにしている。
しかし、その魅力は同時に危うさでもある。
大和王権という語は、あたかも古くから同じ主体が連続して存在したかのような印象を与えやすい。だが、8世紀以前の政治体は、むしろ倭王を戴く広域政治体の再編、地域勢力の並存、主導権の移動、そして後代の編纂による再構成として捉えた方が自然な場面が少なくない。
したがって、問題は大和王権という語を完全に捨てることではない。
問題は、この語を自明の前提として用いないことである。
それは説明概念として便利であっても、歴史の実態そのものではないかもしれない。むしろ、その便利さゆえに、私たちはそこへ過剰に依存してきた可能性がある。
大和王権へのこだわりとは、結局のところ、古代史の問題である以上に、私たち自身の認識の問題でもある。
歴史を単純な中心と連続の物語として理解したいという欲求が、この語を必要以上に強いものにしているのである。
本稿で触れた点は、あくまで一つの断片に過ぎない。
これらを全体像として捉えたとき、また別の輪郭が浮かび上がってくる。
その整理は、『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。
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