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【考察】天岩戸神話が指し示す事実

天岩戸神話は、単なる太陽神話として読むだけでは足りない。そこには、中心的存在の退隠、世界の混乱、そして再顕現による秩序回復という、きわめて明確な政治的構図がある。この構図は、大海人皇子の吉野退去とその後の再起、さらに天武朝による王権の自己正当化と深く響き合っている。したがって天岩戸神話は、自然現象の説明にとどまる神話ではなく、壬申の乱を経て成立した新たな王権が、自らの成立事情を神話的秩序の中に置き直した痕跡として読むことができる。 天岩戸神話の核心は、天照大神が岩戸に隠れたことで世界が暗くなり、神々の働きも停滞し、やがて再び天照が現れることで秩序が回復するという点にある。ここで重要なのは、天照が単に姿を消すだけの神ではなく、世界の中心として機能していることである。中心が隠れれば世界は乱れ、中心が戻れば秩序が回復する。この構図は、神話の内部では宇宙的事件として描かれるが、政治的に読み直せば、正統な中心の退隠と帰還を語る型になっている。 この型を歴史の側に引き寄せると、大海人皇子の吉野退去はきわめて象徴的な意味を帯びる。大海人皇子は、近江朝廷の中枢から離れ、表向きには出家的身振りを伴って吉野へ退いた。だが、それは単なる敗走や失脚ではない。むしろ、公的世界からいったん姿を消しながら、後の再起へ向かう沈潜の段階として理解すべきである。つまりここで起きているのは、中心的存在の消滅ではなく、いったん不可視となることである。まさにこの点で、大海人皇子の吉野退去は、岩戸に隠れる天照大神の構図と重なる。
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【考察】出雲国譲り神話は何を語るのか

出雲国譲り神話とは何か。 一般には、出雲の神である大国主神が治めていた国を、天照大御神の側へ譲る神話として理解されている。神社本庁の説明でも、国譲りは「大国主神が治めてきた豊葦原水穂国が天照大御神の御子に譲られる経緯」を語るものとされる。 しかし、この神話をそのまま「出雲支配の説明」と見ると、どうしても不自然な点が残る。 最大の問題は、国を譲らせる舞台が出雲であるにもかかわらず、天孫降臨の舞台が日向に置かれていることである。もし主題が「出雲を征服し、その地を直接支配した」という物語であるなら、天孫はそのまま出雲に降ってよいはずである。ところが神話はそうは構成されていない。ここから見えてくるのは、国譲りの意味が出雲という土地の取得そのものにはなく、むしろ新しい王権が地上支配の正統性を得るために、どこかの高位の旧秩序から承認を受ける必要があった、という点である。すなわち、国譲りは領土獲得譚ではなく、正統性付与の儀礼的神話として読むべきなのである。
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【考察】月読尊とはなにか

月読尊とは何か。 記紀神話の中で、この神ほど高位でありながら輪郭の薄い神は少ない。天照大神・須佐之男命と並ぶ三貴子の一柱でありながら、天照のように国家神話の中核へ成長することもなく、須佐之男のように多くの物語を担うこともない。高位に置かれながら、沈黙している。この不自然さは、月読尊が古代から自明に広く信仰された強い独立神だったのではなく、夜・月・暦・統治に関わる古い秩序の記憶を、記紀編纂の過程で高位神として再構成した存在である可能性を示している。『日本書紀』では本文が単に「月神」とし、異伝で「月弓尊」「月夜見尊」「月読尊」など複数の名が現れる。国学院大学の解説でも、これらは原資料ごとの神名の違いを反映し、元来は別神だったものが編纂時に統合された可能性があるとされる。 この問題を考える上で、まず注目すべきは『古事記』の月読命である。『古事記』の三貴子分治では、伊邪那岐命は天照に高天原、月読命に「夜之食国」、須佐之男に海原を割り当てる。ここで重要なのは、「夜の国」ではなく「夜の食国」と書かれている点である。国学院大学の注釈は、この「夜之食国」が『日本書紀』のどの伝にも見えないこと、また「食国」が単純な自然領域ではなく統治領域を意味する重い語であることを指摘している。つまり月読命は、単なる月の神ではなく、夜に属する統治秩序を担う神として、かなり意図的に高位に置かれている。 では、その「夜の統治秩序」とは何か。 ここで外部史料として決定的なのが『隋書』俀国伝である。そこには、倭王は「天を兄とし、日を弟とし、天未だ明けざる時に出でて政を聴き、日出ずれば理務を停め、我が弟に委ねむと言う」と記されている。つまり倭王は、昼ではなく未明の側に主位を置き、日中の政務を「弟なる日」に委ねるとされたのである。これは後の律令国家が整える朝中心の秩序から見ると、著しく異質な王権観である。少なくともここには、夜から朝にかけての時間帯を統治の本場とみなす観念が存在していた。
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【考察】邪馬壹国畿内説の弱点

――なぜ「大和の巨大遺跡」は直ちに邪馬壹国にならないのか 邪馬壹国畿内説は、近年もっとも有力に語られる説の一つである。 纒向遺跡の巨大性、初期古墳群の存在、広域土器交流の痕跡などは、三世紀の畿内に特異な中心地があったことを示しているように見える。そこから、纒向を邪馬壹国の中枢と見なし、さらに箸墓古墳を卑弥呼墓とみる構図が広く流布してきた。 しかし、邪馬壹国畿内説には、なお大きな弱点がある。 しかもその弱点は枝葉ではない。むしろ説の根幹に関わる。 それは、考古学的に有力な中心地が存在することと、『魏志倭人伝』の邪馬壹国に比定できることとを、ほとんど一続きのものとして扱ってしまっている点である。
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【研究ノート42】造化三神から読む古事記の設計思想

『古事記』は通常、日本最古の神話・歴史書として読まれる。しかし、その冒頭部分を丁寧に見ていくと、そこに置かれているのは単なる神々の物語ではない。むしろ先にあるのは、世界をどのように始め、どのように分化させ、どの段階で具体的創造主体を成立させるかという設計思想である。とりわけ、天地初発に続いて現れる天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の三神は、『古事記』序で「造化の首」と括られ、「造化」という語や三神の配列に道教思想の影響が指摘されている。しかもこの三神は『日本書紀』では主要伝承ではなく補足的に現れるにとどまり、記紀の中でも比較的新しく付加された層とみられている。ここから見えてくるのは、古事記冒頭が在地祭祀の素朴な集積ではなく、宇宙論的な起点を明示的に置いた構造的記述だという事実である。 本稿の目的は、この造化三神を起点に、『古事記』冒頭の本質を「神々の列挙」ではなく「設計思想」として読み直すことにある。具体的には第一に、造化三神を中心・統御・生成という三層の原理として捉える。第二に、その後に置かれる神世七代を、具体神の系譜ではなく、世界生成を段階化した抽象的中間層として理解する。第三に、この構造が単なる物語上の装飾ではなく、後続する国家秩序を支える世界理解の基礎として働いていることを示したい。以下では、天照成立以後の王権神話には踏み込みすぎず、造化三神から神世七代までに範囲を限定して論じる。
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【研究ノート41】天武朝は先王の陵墓を把握していたのか

天武・持統朝は、日本古代国家の形成史において特別な位置を占める。 この時期、王統の記憶は文字化され、『日本書紀』編纂の起点となる命令が出され、さらに陵墓管理も制度化されていく。天武10年(681)には「帝紀」と「上古諸事」の史実確定が命じられ、『日本書紀』は養老4年(720)に完成した。すなわち、天武・持統朝とは、国家が自らの過去を公的に編み直し始めた時代であった。 しかし、ここで一つの強い違和が生じる。 それほどまでに王統を整理し、歴史を固定しようとした政権が、なぜ自らに先立つ先王たちの陵墓連続性を、後世に明瞭なかたちで残していないのか。 公式には、舒明天皇陵は押坂内陵、天武天皇陵は檜隈大内陵とされる。 だが、その「分かっている」とは、国家の治定としての「分かっている」にすぎず、古代以来、疑いなく連続した記憶が保持されていたことを意味しない。むしろ、陵墓そのものが後代の調査・再整理の対象となっている事実は、先王陵の連続性が自明ではなかったことを示唆している。 本稿の問いはここにある。 天武朝は本当に先王の陵墓を把握していたのか。 もし把握していたのなら、なぜその連続性はこれほど見えにくいのか。 もし十分に把握していなかったのなら、なぜそれでも強い王統叙述を成立させえたのか。 さらに言えば、王統とは本来、祖先墓の認識と祭祀の継承を伴うものではないのか。 だとすれば、先王陵の曖昧さを抱えたまま成立した天武朝の王統とは、いかなる性格のものだったのか。 本稿は、この問題を単なる陵墓比定の可否としてではなく、王統の記憶がいかに編纂され、制度化され、再構成されたかという観点から考察するものである。
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【研究ノート40】古事記とは何か

『古事記』とは何か。 この問いは、単に『古事記』の真偽や成立年代をめぐる論争にとどまらない。むしろ問題は、『古事記』を『日本書紀』とどのような関係に置いて読むかにある。『日本書紀』は、681年に編纂開始が命じられ、720年に完成した勅撰正史として、神代から持統朝までを漢文・編年体で貫く国家史の体裁を備えている。これに対して『古事記』は、序文の自己説明に従えば711年に筆録が命じられ、712年に献上されたことになるが、その後の公的運用の痕跡は薄く、現存最古の写本も真福寺本まで大きく隔たっている。完成した国家正史としては、どこか座りが悪いのである。 しかし、その不自然さをもって直ちに『古事記』全体を偽書とみなす必要はない。むしろ重要なのは、本文と、その成立を語る序文とを分けて考えることである。『古事記』本文には上代特殊仮名遣いの研究対象となる古い言語層が認められ、全面的な中世新作とは考えにくい。他方、成立事情を語る序文は、あまりに整いすぎていて、後代の正統化を疑わせる。したがって、本稿は『古事記』を、完成した独立史書としてではなく、『日本書紀』へ至る長い国家編纂過程の中で、一度先に切り出された王統と神話の骨格文書として読む可能性を検討する。
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【研究ノート39】推古はなぜ現れたのか

隋書倭国伝を読むとき、まず目につくのは、後世の通念ほどには推古が見えないという事実である。倭国の外交主体として前面に出てくるのは、あくまで「王」であり、日本書紀が描くような「推古天皇の国家外交」という構図は、そのままでは現れない。この齟齬は、単なる記載漏れとして処理すべきではない。むしろ、後に成立した日本書紀の歴史叙述そのものを問い直す入口とみるべきである。隋書は倭国の主体を「王」として把握しており、日本書紀のような推古中心の外交叙述とは構造を異にする。 本ノートは、日本書紀を史実復元の基準史料として用いない。日本書紀は720年に完成した国家的編纂史書であり、編纂の開始は天武朝にさかのぼると考えられている。また、その内容は多様な材料を取り込みつつ、中国正史や古典による潤色を受けており、とりわけ古い時代の記事は、そのまま史実の直写とはみなしがたい。したがって、日本書紀からのみ派生した人物像、宮都比定、事績配列は、まず疑われるべきものである。 この前提に立つなら、推古朝を最初から「天皇の時代」として受け取ることもできない。そもそも「天皇」号の成立については、かつて推古朝説が有力であったものの、現在では天武朝末期、制度的には飛鳥浄御原令の段階に位置づける見解が有力である。日本書紀に見える推古期の「天皇」表現も、8世紀編者の潤色を含む可能性が高い。ゆえに、推古を自明の「天皇」として出発点に置くのではなく、後代の国家理念によって再表現された存在として扱う必要がある。 本ノートの中心仮説は明快である。天武王権は、自らを正統な継承王朝に見せるため、過去を一系の天皇史へ再編集した。その結果、本来はより複雑であったはずの王権構造や外交主体は、歴代天皇を中軸とする滑らかな国家史へ組み替えられた。推古朝もまた、その再編集の中で重要な位置を与えられたと考えられる。すなわち、推古が先に歴史の中に確固として存在し、その事績が記録されたのではなく、天武王権の歴史構成の中で、推古という女性統治者像が政治的に見えるよう配置された可能性を考えるのである。天武朝は681年から律令と史書の編纂事業を進め、後継政権がそれを継承して完成させたとされる。 このとき重要なのは、推古の実在を先に断定したり否定したりすることではない。問うべきは、なぜ日本書紀が推古をこのように描かなければならなかったのか、という点である。なぜ隋書では「王」として見える外交主体が、日本書紀では「推古朝外交」として整理されるのか。なぜ日本書紀は、女性統治者の巻に重大外交や国家的転換を集中させるのか。こうした問いをたどるとき、推古は「見えない人物」ではなく、むしろ後代の王権編纂によって「見えるようにされた人物」として浮かび上がる。 本ノートは以上の立場から、第一に天武王権による一系天皇史の再編集という問題を確認し、第二に隋書倭国伝に見える外交主体を検討し、第三に日本書紀が推古朝をどのように再配置したかを考察する。目的は、推古朝の実態を日本書紀の枠内で復元することではない。むしろ、日本書紀が構成した推古像の政治的意味を解明することにある。
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【研究ノート38】比売神の成立

宇佐八幡の成立を考えるとき、私たちはどうしても、後世に整えられた祭神構成から逆算してしまいがちである。 八幡大神・比売大神・神功皇后という三座構成は、いま見える宇佐神宮の完成形としては重要である。だが、それをそのまま古層へ遡らせると、かえって見えなくなるものがある。 その最たるものが、比売神である。 比売神は、のちには宗像三女神として説明され、さらに系図類の中では天三降命のような整った祖神名へ接続される。しかし、それらは成立後の整理された姿であって、最初の姿ではない。 では、比売神とは、もともと何であったのか。 本稿が問いたいのは、この一点である。 宇佐神宮の深層には、御許山という神体山がある。宇佐市の文化財保存活用地域計画でも、御許山は三柱の比売神降臨説話で知られる山であり、山頂に巨石体をもつ磐座として位置づけられている。つまり宇佐祭祀の根には、まず山と石の神霊があった。 そして私は、この古い神霊が、六世紀半ばの大きな転換を経て、宇佐氏の担うより小さな祭祀へ再編されるなかで、比売神という母体神へと形成されていったのではないかと考える。
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【研究ノート37】宇佐赤塚古墳は、なぜ前方後円墳でなければならなかったのか

宇佐赤塚古墳は、大分県宇佐市高森の台地上に築かれた全長約57.5〜58メートルの前方後円墳である。後円部中央の箱式石棺からは、三角縁神獣鏡五面、管玉、鉄刀片などが出土しており、九州でも最古級、あるいは大分県域では九州最古級の前方後円墳の一つと位置づけられている。しかも、その鏡の同笵・同型関係は、福岡県石塚山古墳や京都府椿井大塚山古墳など広域の首長墓群に及んでいる。赤塚古墳は、宇佐の一地方的墓制の問題ではなく、広域的な政治関係の中で理解すべき古墳である。 だが、重要なのは「前方後円墳である」という分類上の確認ではない。問うべきは、なぜ宇佐において、この古墳が前方後円墳でなければならなかったのかという点である。赤塚古墳は川部・高森古墳群の中でも最古の前方後円墳であり、古墳群全体は駅館川東岸の、宇佐平野を一望する段丘上に営まれている。しかもこの古墳群は、前期の赤塚古墳・免ヶ平古墳から中期以降の古墳へと年代的に連続し、文化庁はこれを宇佐平野で活躍した古代豪族歴代の墳墓とみている。したがって赤塚古墳は、単に新形式を試した一基ではなく、宇佐の首長権が自らの墓制を定着させる起点だったとみるべきである。
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